平成28(2016)年度収集 収蔵品目録 34
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 多田洋子資料 | 寄贈者宅に伝来した明治~昭和時代の新聞。多田家は幕末から酒造業を営み、屋号を油屋と称した。銘酒「千代の松」が好評を博し、明治時代には地域を代表する酒造家に成長した。4代目多田勇(1857~1910)は酒造業のかたわら、甘木銀行頭取や朝倉郡会議員、県会議員をつとめた。その子勇雄(1882~1966)は朝倉軌道社長、県会議員、衆議院議員などをつとめた。多田家住宅は平成25(2013)年に国の登録有形文化財に指定されている。 新聞は、多田勇・勇雄が購読、保管していたもので、時期は明治時代から昭和戦後にわたる。「福岡日日新聞」が多く、明治14(1881)年から昭和17(1942)年のものまである。つい、「西日本新聞」が昭和21年から39年まである。本資料群には、この他、「国民新聞」、「大阪毎日新聞」、「大阪朝日新聞」、「福陵新報」、「九州日報」、「朝鮮時報」などが含まれる。 明治時代から昭和戦後における新聞の貴重なコレクションである。近現代の展示での活用が期待できる。 なお、本目録に掲載したのは新聞本体のみであり、広告類等は次号に掲載する予定である。 |
10093 | 10262 |
2 | 金森直治資料 | 名古屋市在住の釣り史研究家・金森直治氏が30年以上にわたり収集した釣り・魚に関するコレクション。特別展「釣道楽の世界」への出品を機に寄贈に到ったもの。大別して絵葉書及び魚をモチーフとする日用品類からなる。 釣り関連の絵葉書コレクションは日本屈指のもので、一部は『絵はがきを旅するつり人水辺のアーカイブス』(つり人社、2012年)として刊行されている。日用品類は食器をはじめインテリア、日用雑貨、玩具その他に及ぶ。特に魚型の箸置きコレクションはそのユニークさにおいて類を見ない。 なお、本目録においては資料群全体のうち絵葉書等の印刷物、箸置き、布ものに限って掲載した。他の寄贈資料については次号掲載する予定である。 |
2689 | 2725 |
3 | 亀田和子資料 | 寄贈者宅に伝来した近代の建築関係資料。 近代に作成されたとみられる系図によると、亀田家ははじめ京都で書籍店を営み、貞享4(1687)年に筑前福岡呉服町に転住した。福岡でも書籍店を開いたが享保期(1716~36)に大工に転業し、以降代々大工を生業としたという。10代目当主の亀田吉郎平は、文久3(1863)年に香椎宮、明治9(1876)年に志賀海神社の建築に携わり、明治11年から16年まで福岡県庁土木課建物設計製図係として県内寺社の調査を行った。その後は、県立福岡病院(現九州大学医学部)、県立中学修猷館(現 修猷館高校)、太宰府天満宮楼門などの図面を作成したという。また、和洋建築の装飾の雛形をまとめた書籍や、寸法入りの和洋建築の図解本などを編んだ。 本資料群は10代目当主亀田吉郎平から12代亀田吉彦の時期にあたる明治~昭和時代の図面類である。筥崎宮・香椎宮・住吉神社・警固神社・宇美神社など、県内神社に関する図面が含まれる。 近代福岡で活躍した大工の記録であり、特に県内寺社の境内配置図や楼門図面を含む点で貴重である。展示活用にとどまらず、建築記録としても活用が期待できる。 |
1143 | 1282 |
4 | 木下家文書(追加分) | 平成24年度寄贈資料(中世資料)、平成27年度寄贈資料(近代文書)の追加分。香椎宮社家木下家に伝来した文書群のうち、江戸時代後期から明治時代の木下家の官位に関する文書を多く含む。 近世文書は、木下良貫とその子氏幸の任官や神道伝授に関する文書で、前者は蔵人、後者は神道管領占部氏より発給された。また、神道状は、烏帽子狩衣の着用を許可したものである。近代文書は、木下良貫の子美重に関するもの。木下美重は宗像郡の安永観山の次男として生まれ、幕末には「郷銃卒」として扶持を受け、剣術と銃の稽古を行った。木下家に入った後、三潴郡の小学校の教員を務めた。明治8(1875)年に無給の宗教官吏である教導職に補され、伊勢神道系の神宮教院に学んだ後、神道事務局、神宮教会で重きをなした。本資料群中には、木下美重宛の辞令、木下美重の出張届が多く含まれる。 |
480 | 488 |
5 | 古賀晉資料(追加分) | 平成27年度寄贈資料(近世書跡等)の追加分。 今年度寄贈分は、近代の福岡で発行された新聞である。新聞は大別して、①明治から大正時代の新聞号外と、②昭和10年代の新聞切抜である。①、②のいずれも「福岡日日新聞」と「九州日報」がほとんどである。①の新聞号外は明治天皇と大正天皇の容体や崩御に関するもの。②については、「開戦日ヨリノ新聞切抜」と墨書された木箱に納められた、戦況の報道と論説を中心とする新聞切抜である。なお、論説については、政治家中野正剛と九州日報主筆の清水芳太郎のものが多い。 新聞号外は、新聞の歴史を示す資料として活用できる。 また、戦時期の新聞切抜は、地方の有力者の情報収集を示すものとして興味深い。 |
291 | 394 |
6 | 久芳和喜資料(追加分) | 平成27年度寄贈資料(近世書画、近代文書、絵葉書)の追加分。 今年度寄贈分は、寄贈者が昭和30年代以降に収集した広告マッチ類である。リンの燃えやすい性質を利用したマッチは、19世紀に欧米で製造販売が始まった。日本では、明治9(1876)年に新燧社が製造開始したのが最初である。第1次世界大戦期には、マッチは日本の重要な輸出品となった。昭和30年代以降のマッチの大きな特徴は、商店の連絡先などを外箱に印刷した広告マッチである。明治時代から広告マッチは存在したが、家庭用・輸出用と比較すると生産量が少なかった。昭和30年代以降は生産量に占める広告マッチの比率が拡大した。 福岡市内の商店のマッチを多く含んでおり、現在では確認できない商店の記録として活用が期待できる。 |
360 | 360 |
7 | 田中善幸資料(追加分) | 平成27年度寄贈資料(ビール用グラス、盃)の追加分。 寄贈者は、田中鉄也資料(平成25年度寄贈資料、昭和戦前期絵葉書)寄贈者の弟にあたる。田中家は近代、西新町で料理屋を営んでいた。 今年度寄贈分は、寄贈者の叔父が収集した絵葉書である。東京の近衛師団に入営したという。絵葉書は、東京市内および富士山、日光といった関東圏の観光地および近衛歩兵連隊と、東京近郊の演習地など軍隊関係のものが多くを占める。 福岡市の絵葉書も含まれており、昭和3(1928)年の昭和天皇即位大礼のための主基斎田、博多築港起工式記念として昭和6(1931)年に発行された市内名所絵葉書などがある。 |
270 | 271 |
8 | 衣笠資料(切り替え及び追加分) | 昭和61年度寄託資料からの切り替えおよび追加分。 本資料群は、江戸時代を通じて福岡藩御用絵師を務めた衣笠家に代々伝わったもの。初代・守昌をはじめとする衣笠家歴代絵師たちの作品のほか、近代の地図の写しなどが含まれる。福岡藩御用絵師の諸相ひいては近世筑前の文化を知る上で貴重な資料群である。 今回追加された資料は、衣笠家で使用されていた印章と水滴。江戸時代後期に活動した第六代当主・守由や七代・守是の所用印を含む。19世紀の衣笠家の画業を傍証する資料である。 |
119 | 124 |
9 | 中西裕子資料(追加分) | 平成21年度の追加分。博多片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 中西家は中西久吉が天保11(1840)年に博多織元富屋の徒弟となって博多織業に関わり始めたとされる。久吉の三男金次郎(初代)は明治24(1891)年に中西博多織工場の跡を継ぎ、各地の織物技術を取り入れながら多くの技術開発を行った。 当資料群は初代金次郎の四男金作が発明した電気紋織技術によって製作されたもの。金作はこの発明によって恩賜発明賞、朝日賞、黄綬褒章を受賞しており、その受賞記念に関わる資料も含まれている。寄贈者は金作の長女。 |
68 | 75 |
10 | 寺田義郎資料 | 寺田家は、福岡藩士(天保分限帳:知行高200石・馬廻組)で黒田孝高(如水)の時代から黒田家に仕えた。系図等には、①播磨国出身の寺田三九郎が播磨在国時代の黒田孝高に召し抱えられた、②豊前国富来城主・垣見一直の家臣であった寺田伝右衛門が関ヶ原合戦後に黒田如水に召し抱えられた、とする2つの説が記されている。 本資料群は、天保6(1835)年12月に長崎で起きた唐人屋敷騒動の絵図と知行宛行状や知行目録、系図などの古文書類。唐人屋敷騒動図は、当時の当主・寺田卯六郎が足軽頭として鎮圧のため長崎に派遣されており、その際の功績により10石の加増を受けているため、その活躍を後世に伝えるために制作されたものと推測される。 |
60 | 63 |
11 | 松村直寿資料 | 福岡の商家松村家に関する書類・道具・写真などからなる資料群。松村久寿資料(平成23年度寄贈資料、広田弘毅一行書)の関連資料。 松村家は紺屋町松村家の別家である。「筑前福岡紺屋町松村家(楠屋)文書仮目録」(『福岡県地域史研究』17号、1999年)によると、松村家は越前朝倉家に源流を持つ家であるとされる。朝倉義景の弟の子景定が朝倉家滅亡後姓を白木と改め、景定の子甚右衛門が栗山備後に仕えたが、その子孫左衛門は黒田騒動の後牢人となった。孫左衛門の子伝兵衛は長女の婿に中名島町楠屋松村宅兵衛を迎えた。これが初代楠屋松村家である。本資料群の松村家は、楠屋松村家6代目半兵衛の時宅兵衛(天保2年生)が分家して成立した。屋号は楠屋で、最初は蝋燭を扱い、後に陶器商に転じた。 本資料群には、松村宅兵衛が使用した貨幣計量用の秤のほか、幕末から明治時代の法令の写、松村家に関する写真などが含まれる。また、賞牌は明治期の博覧会で蝋燭の品質が認められ授与されたものである。 |
44 | 44 |
12 | 吉倉慶子資料 | 本資料は、福岡市早良区城西の吉倉家で使用された、婚礼用の髪飾りおよび節供人形等からなる。髪飾りは昭和11(1936)年の婚礼に際して寄贈者の祖母・慶子氏が使用したもの。鶴亀、松竹梅があしらわれた豪華な髪飾りである。節供人形は、同氏の長女・禎子氏(昭和13年生・寄贈者の母)のためもので、昭和時代に製作された複数の人形からなる。市松人形、段雛のほか水屋模型等が含まれる。水屋模型は母方の叔母・井手直子氏(旧福岡藩士井手家)から贈られたもの。 | 25 | 76 |
13 | 林信博資料 | 明治、大正時代に発行された釣具値段表(通信販売用カタログ)、釣りや海水浴に関する絵葉書・切手ほか。特別展「釣道楽の世界」の開催を機に寄贈申し出があったもの。所有者は北九州市八幡西区の黒崎駅前で時計店を営む。同店を創業した先々代は、先代に店を譲ると、新たに同区筒井町に釣具店を開いた。本資料群の釣り関連資料は、釣具店を開いた先々代が収集し、手元に置いていたものとみられる。 | 18 | 19 |
14 | 島井健資料 | 島井家は、東蓮寺藩初代藩主・黒田高政に仕えた市太夫長俊を初代とする。長俊は、寛永16(1639)年11月に高政が亡くなった際に殉死したため、実弟の仁右衛門俊安が跡を継いだ。俊安は、2代藩主・黒田之勝、3代藩主・黒田長寛(後の福岡藩4代藩主・黒田綱政)のもとで側筒頭や陸士頭、馬廻頭、中老などの役職を務めた。長寛が、本藩である福岡藩3代藩主・黒田光之の嗣子となり東蓮寺藩領が福岡藩に還付された後、元禄3(1690)年に福岡藩に召し出され大組に加えられた。その後、島井家は代々福岡藩に仕えた。 資料群は知行宛行状や系図などの古文書類。知行宛行状は、東蓮寺藩に仕えていた時代のものが2通(寛永8年・同15年)、福岡藩時代のものが3通(延宝5年・貞享5年・宝永6年)ある。系図は島井家のものに加え藩主黒田家の系図があり、黒田家に入嫁した夫人の実家の系図も含まれている。 |
16 | 16 |
15 | 本多文子資料 | 本資料群は、長年、宮若市社会教育課の事業であった宮若市古文書勉強会に参加していた寄贈者が、同勉強会の講師であった知人から譲られたもの。農業出精など、福岡藩の郡方役人が示した教示内容を記した「心得之ヶ条」(文政元年、安政5年写)や、大名・幕閣の姓名や国名・石高・家紋などを記した文久武鑑といった江戸時代の古文書・書籍のほか、『日露交戦紀念録』の購入予約者を募る主意書など近代の資料が含まれている。 | 16 | 16 |
16 | 梅木昭和資料 | 寄贈者が収集した土器を中心とする考古資料。寄贈者は近所の奈多砂丘で、大雨や台風などの後に砂が崩落して出土した土器や石器を採集して保管していた。採集地点は複数に及ぶが、埋蔵文化財包蔵地である奈多砂丘B遺跡の北東部の範囲とみられる。 寄贈資料は弥生時代後期から古墳時代前期の大甕、広口壺、脚付鉢、高杯、砥石などと朝鮮半島南部産の瓦質土器である。遺跡の性格や博多湾沿岸の対外交流を考えるうえで重要な資料と考えられる。 |
14 | 42 |
17 | 帆足高明資料 | 帆足家は、福岡藩士(安政分限帳:知行高100石・馬廻組)。幕末期の当主・帆足久八郎は、福岡藩の佐幕派の家老・久野将監の配下で三条実美ら五卿の太宰府移転に尽力し、京都においても活動した。しかし、明治維新後の慶応4(1868)年4月に佐幕派の家老らが処分された際に久八郎も藩から隠居を命じられた。 本資料は、帆足家に伝来した古文書や屋敷図など。福岡藩11代藩主黒田長溥が幕末期における久八郎の尽力に対して感謝の意を表して明治期になって与えたピストル(ル・フォショウ式レボルバー)や平野国臣が制作したと推測される紙縒文字も含む。 |
10 | 10 |
18 | 石橋善弘資料(追加分) | 平成9年度、同17年度寄贈の追加分。石橋家は早良郡姪浜村の廻船問屋(屋号:紙屋)で、酒造業や醸造業なども営んでいた。なお、同家に関する古文書群は能古博物館に寄贈され、同館発行の「能古博物館だより」紙上で寄贈者が主立ったものを紹介している。 本資料群は、石橋家に伝来した藤巴紋入裃2領と揚羽蝶紋入裃1領、袴1点、木盃2点。このうち藤巴紋入裃については、裃類が納められた木箱の蓋裏書から、文久3(1863)年に石橋善左衛門芳重が称誉として福岡藩から拝領したものであることが分かる。また、木盃については、日露戦争戦役紀念として陸軍歩兵第24聯隊第6中隊が制作したものと、姪浜旦過町が紀元2600年整備記念として作ったもの。 |
7 | 7 |
19 | 草場七生資料 | 福岡藩家臣梶原家に伝来した甲冑および鐙など。兜は巻雲の前立をもつ七十四間星兜で「早乙女家久」の銘があり作成者が判明し、具足の胴は桶川の六枚の桶川胴で丁寧な作りである。また鐙には西欧の王侯の顔や盾の紋章、貴婦人像などが象嵌され、南蛮美術の影響がうかがえる。 梶原家は、先祖は鎌倉時代の武将梶原景季の子孫と伝えられ、戦国期には播州に勢力を持っていた家で、後に黒田氏に仕えた。播州以来の大譜代の家臣とされた福岡藩上級武家の武具として貴重である。 |
5 | 5 |
20 | 原田嘉平資料(追加分) | 昭和63年度以降数度にわたる寄贈の追加分。大正~昭和期を代表する博多人形師、原田嘉平氏(1894~1982)に関係する資料。いずれも嘉平氏の作品で「ざくろ」は嘉平氏の二女、「うさぎ」は三女に贈られた一品もの。そのほか、型から制作した人形「豊神酒」、能面「小面」「大飛出」など。嘉平氏の私的な制作活動を窺わせる資料と言える。 | 5 | 5 |
21 | 濵地秀晴資料 | 寄贈者宅に伝来した近代文書と写真。本資料群中には、明治44(1911)年に罫紙に墨書された簿冊「歩兵第二十四連隊歴史」が含まれる。明治17年に小倉で創設された歩兵第24連隊は、明治19年に福岡城址に配備された。同連隊の歴史をまとめたものとして、昭和9(1934)年に同連隊が発行した書籍『歩兵第二十四連隊歴史』が知られている。しかし、同書と本資料群中の簿冊とは文中表現が一致しない。なお、同書自序によれば、大正3(1914)年に日清・日露戦争期の歩兵第24連隊の歴史書が編纂されたとある。本資料群中の簿冊の作成時期を考えると、大正期に行われたという連隊歴史編纂に関わるものであると考えられる。 | 4 | 4 |
22 | 木村和男資料(追加分) | 平成21年度寄贈の追加分。 本資料群は寄贈者が収集したもので、内容は近世の絵画および古文書・書籍類。福岡藩に関連する御用絵師の作品のほか、黒田家歴代当主が発給した書状や、狩野派の絵師に関する書状が含まれる。 追加分のうち、絵画資料はいずれも、駿河台狩野家の門人でのちに法橋に叙された福岡藩御用絵師・二代目石里洞秀の作品。他の御用絵師家に比べて不明な点の多い石里家について、画風などを知る手がかりとなる。また、文書資料は筑後の豪族・三池氏に関するもので、戦国時代末期の戦役における死傷者名の抜き書きを江戸時代後期に写したものとみられる。筑後の戦国時代史研究の参考となる資料である。 |
3 | 3 |
23 | 坂本幸子資料(追加分) | 平成25年度寄贈資料の追加分。大分県日田市で生産される民陶・小鹿田焼の雲助・甕・皿。同地に嫁いだ所有者の従姉妹から譲り受けたもの。雲助は酒や醤油などの一時的な保管に使われる細い注ぎ口を持った大型の容器。小鹿田焼は、昭和に入って民芸運動を推進する柳宗悦やバーナード・リーチらによって世に広く紹介され、九州を代表する民陶として脚光を浴びた。現在その陶芸技法は国の重要無形文化財に指定されている。 | 3 | 3 |
24 | 西信夫資料 | 江戸時代、今宿(福岡市西区)は豊前国小倉から肥前国唐津へ至る唐津街道の宿場町で、福岡藩の米蔵のある横浜に隣接し、怡土郡と志摩郡をつなぐ交通の要衝として栄えた。福岡藩が長崎警備に向かう際に通行するのに加え、唐津藩・平戸藩・大村藩などの諸藩が参勤交代の際に利用したため、各藩の御用宿として諸国屋、米屋、三河屋などの宿屋があった。寄贈者はこのうちの諸国屋の出身。本資料群は、「英彦山二面兜図」(寄贈者が祖父から譲り受けたもの)と「東宮御成婚記念 日本交通分縣地図」からなる。 | 2 | 2 |
25 | 金子健資料 | 昭和28(1953)年に撮影された写真。当時、粕屋郡香椎町立香椎小学校5年生であった寄贈者が撮影したもの。向の山公園(現 東区香住ヶ丘)の給水塔の上から全方位を11枚の写真に写し、つなげたもの。写真は、右端の香椎海岸から半時計回りに360°を撮影しており、写真中央の立花山辺りが内陸部にあたる。香椎町は多々良町とともに昭和30年2月に福岡市と合併した。 | 1 | 1 |
26 | 坂田立子資料(追加分) | 平成14年度に寄贈された鎗を中心とする武具と古文書類の追加分。坂田家は秋月藩に仕え、島原の陣で若い当主が戦死するなど武功を重ねた家であり、大身鎗などが残されている。今回の寄贈資料は、新たに発見された大身鎗の鞘で、黒漆塗の剣状の形をした大型のもの。武家にのこる武具資料として貴重である。 | 1 | 1 |
27 | 長節子資料 | 元九州産業大学教授・長節子氏所有の足踏みミシン。名古屋に在住していた頃、寄贈者の母が娘(所蔵者の姉)の服を仕立てるために購入したもの。MUNDLOS(モンドロル)社は、1863年に設立したドイツのミシンメーカーで、1962年までミシンの製造を行っていた。資料は、同社のOriginal Victoria と呼ばれるシリーズのミシンの111型。シリアル番号は1569240。製作年代は明確ではないが、1930年代と考えられる。 | 1 | 1 |
28 | 中窪菊枝資料(追加分) | 昭和63年度、平成10年度寄贈資料の追加分。 中窪家は明治時代に吉塚で紙問屋を創業し、後に千代町に移り、当地区の再開発がおこなわれるまで文具店の経営を続けてきた。本資料は、昭和63年度に寄贈された婚礼衣装の帯にあたるもの。慶事にあわせ鳳凰があしらわれている。この丸帯は、平成10年度に寄贈されたアルバムにも写っている。 |
1 | 1 |
29 | 中西眞由子資料(追加分) | 平成24、27年度寄贈資料の追加分。寄贈者の母方の祖母が戦前に博多で購入した仏像。来迎印を結ぶ阿弥陀如来像であるが、祖母は薬師如来の信仰があつく薬師如来像として仏壇に祀られてきたという。典型的な江戸時代の様式を示す玉眼・漆箔仕上げの木彫像で台座裏には慶応4(1868)年に佐賀伊勢屋町の御用仏師内田猪吉郎が造立した墨書が記されている。 | 1 | 1 |
30 | 二宮泰治資料 | 寄贈者が、平成27年5月から同28年9月(11月~5月を除く)にかけて、篠栗霊場(糟屋郡篠栗町)を巡礼した際の納経帳。篠栗霊場八十八ヶ所用につくられた納経帳で、あらかじめ札所番号、寺(堂)名、御詠歌が印刷されており、その頁に朱印を記入してもらうようになっている。寄贈者は篠栗線北側から時計回りに適宜巡拝したが、打ち始め(第三十三番札所本明院)と打ち納め(第七十九番札所補陀洛寺)だけは、明治37年に篠栗まで鉄道が開通した際に確立された順路に則ったという。 現在は少なくなったが、福岡県から佐賀県にかけての地域では、篠栗詣りといい集落の青年団や婦人会などで年に1度篠栗霊場を巡ることがある。福岡市近郊でも、祈願等で同地を訪れる人は多い。近年、観光の一環として定年退職世代や若い女性たちによる寺社巡りが注目されており、さまざまな色形の納経帳や御朱印帳がつくられている。 |
1 | 1 |
31 | 松本登美子資料 | 江戸時代後期の福岡藩儒学者・亀井南冥が七言律詩を記した四曲屏風の1隻で、印章や書体から自筆のもの。漢詩作者として高名な中国の様々な故地を引いて詩作の効用を説く。 所蔵者の家は江戸時代から太宰府で宿屋や商売を営んでおり、昭和の戦後に寄贈者の夫が美術品収集などを行っていた際に入手したもの。太宰府とゆかりのある近世の文人の作品として貴重である。 |
1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 稲員大三郎資料 | 寄贈者の父で、刀剣愛好家として知られた故稲員稔氏が収集した刀剣と刀装具。 当館にはすでに、寄贈者の兄故稲員大蔵氏より、平成8年に「稲員コレクション」として刀剣4口(拵2口付)の寄贈を受け、さらに寄託資料として平成15年に稲員英一郎資料26件46点、稲員英作資料21件42点、米倉美穂資料17件32点、平成20年に稲員英一郎資料(追加分)61件78点、稲員英作資料(追加分)5件8点、稲員興産資料5件5点を収蔵している。本資料は、以上の稔氏が収集した刀剣・刀装具・工芸品と一具をなすものである。 |
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