平成30(2018)年度収集 収蔵品目録 36
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 山﨑明資料 | 寄贈者の父、山﨑又雄氏が主に収集した考古資料と近世・近代書籍、近代地図、文書類からなる資料群。 山﨑又雄氏は九州各地の中学校に勤務するかたわら福岡県文化財調査員をつとめ、天然記念物の調査報告を行った。採取した考古資料は鯱瓦、九州各地の縄文時代石器、土器、古墳時代から古代の土器や瓦がある。鯱瓦は福岡城出土とされ、銘文から宝暦3(1753)年に作成されたことがわかる。この他、水城から出土したと伝わる井戸茶碗もある。 近現代資料は、明治39(1906)年から昭和40(1965)年にわたる山﨑氏の日記、大正時代~昭和時代に採取旅行などに携行した手帳の他、スケッチブック、地図、書籍がある。地図の多くは明治時代末から昭和戦前期にかけて陸軍陸地測量部が測図した地形図で、九州地方のものを主とする。 |
612 | 675 |
2 | 柴田豪次郎資料 | 福岡藩の代表的な刀工の一派をなしていた信國家に伝来した古文書類。信國家は吉貞が黒田如水・長政に仕え、その後吉貞の3人の子の代で、3系統に分かれたが、本資料の寄贈者は博多瓦町に居住した長男・吉政の系統に当たる。 資料内容は、吉貞から数えて9代目の幕末期の当主義昌の肖像画や相伝書のほか、8代、9代の時期に藩(御武具方、御到来所)から依頼された仕事の注文状などを中心とした古文書が多数残される。さらに作刀関係の参考として収集したと思われる刀や鐔の押形・図案、刀剣鑑定に関する写本・版本類も残される。 |
149 | 150 |
3 | 武田虎雄資料 | 寄贈者の祖父・武田虎雄(明治19年生まれ)が営んだ博多絞りの製造販売「武田虎雄商店」および武田家に関連する資料群。 武田家は武田伊兵衛(寛文2・1662年没)を祖とし、現在の呉服町付近で蝋の問屋を営んできたという。近世の当家は繁栄していたらしく、歴代当主の肖像を制作し伝えているほか、家に起きた瑞祥の記録も残されている。 明治になって12代伊三郎の早世により衰え、その子・虎雄は絞り染め店で修業を積み、明治45年に独立して寿通に店を構えた。虎雄氏は工芸展覧会等に積極的に出品していたようで、その結果を標示した「入選入賞録」の短冊や、皇族による買い上げ状況を記した「光栄録」から経営の様子をうかがい知ることができる。 |
144 | 234 |
4 | 長野實資料 | 寄贈者宅に伝来した系図、写真、和歌などの近現代資料。 寄贈者の家は福岡藩士長野家から大正時代に分家した。幕末の長野家当主誠は、福岡藩士月形質の三男で、勤王派の月形洗蔵の弟にあたる。明治10年代から20年代にかけて、福岡藩主黒田家の歴史編纂事業に従事した。誠の跡は養子の嘉平が家督を継いだ。嘉平の次男英吉は大正3(1914)年に分家独立した。なお、英吉は旧福岡藩士末永家から妻を迎えた。 本資料群の長野家の系図は、長野遐(嘉平長男)が作成したもの。写真は長野誠、嘉平のものがある。和歌関係は、明治時代に筥崎宮宮司をつとめた歌人末永茂世(1837~1915)の歌集、玄洋社社員末永節(1869~1960)による和歌の筆写などを含む。 |
126 | 131 |
5 | 井上正幸資料 | 寄贈者宅に伝来した近世・近代文書、写真などからなる資料群。 井上家は江戸時代末期福岡藩に仕えており、井上弥内は礼法の調査を行った。弥内の子増弥は明治4(1871)年に黒田長知の東京転居に伴い定御雇を免じられた。 本資料群中の近代文書は福岡藩の下級武士の家禄に関するものの他、明治15年から20年にかけての早良郡内の土地に関する地券、売渡証を含む。写真は、博多電気軌道株式会社に関するものや、有田高等小学校、川島裁縫女学校の卒業アルバムなどがある。 |
102 | 103 |
6 | 那珂八幡宮氏子総代資料 | 本資料群は、江戸時代から平成時代にかけて那珂八幡宮(博多区那珂)に奉納された絵馬および長寿番付等からなる。博多区南部に位置する那珂・東那珂(後に那珂のみ)では、古くから年末に、奥地区の子供中(小学1年~中学1年)による絵馬上げが行われていた。平成26年度を最後に子供中による絵馬の奉納は中止され、以降は氏子総代によって絵馬が奉納されるようになった。絵馬のほとんどは、福岡市教育委員会の調査報告『福岡市の絵馬』(平成10年)に掲載されている。 | 49 | 49 |
7 | 熊江隆資料 | 寄贈者の父熊江巌氏(1924~2009)が製作した昭和戦中期の軍用飛行機、巡洋艦、潜水艦などの模型および昭和30年代後半に撮影した8mmフィルム。 熊江巌氏は福岡市出身で、昭和戦前期に渡辺鉄工所航空機部に入社した。渡辺鉄工所航空機部は雑餉隈(現 博多区)と香椎(現 東区)に工場を置き航空機を製造し、昭和18(1943)年に分社化して九州飛行機と改称した。熊江氏は香椎工場に勤務し軍用飛行機の組立に従事した。 本資料群中の模型は昭和時代戦後、熊江氏が定年退職を機に製作を行ったものである。当初は戦中期に組立作業に携わった飛行機の模型を製作し、後に艦艇類に及んだ。いずれも資料を基に図面を作成した上で、木材や金属を自ら加工して組み立てたもの。 |
44 | 47 |
8 | 河野良春資料(追加分) | 寄贈者の父親で、昭和戦前期を中心に九州の古武術、古武道とその伝来などの研究を行っていた河野良春氏に関連する資料。すでに平成6、9、27年度に河野司資料、同良春資料として寄贈が行われている。今回の追加分は、従来の寄贈資料と関連する武術研究関連資料として、木製の模擬鎖鎌、片山流抜刀術を実地に研究していた際の居合刀などがある。ほかに良春氏が戦後に河野家の先祖のルーツについて調べた際に収集した、河野家の系図や先祖の墓碑の拓本、伝来の蓮如「六字名号」を含む浄土真宗資料、伝・仙厓筆の書跡、戦後30年代に収集した浮世絵などがある。 | 43 | 58 |
9 | 中村泰憲資料 | 博多瓦町に居住していた中村家に伝来した江戸時代後期の山笠番付と近代の達磨製作関連の出版物。山笠番付は天明元(1781)年から文久3(1863)年の82年間にわたる博多祇園山笠の標題を集めたもので、所々の書き込みから、当時の博多の社会情勢もうかがえるなど貴重なもの。近代の資料としては、戦前の『主婦之友』の附録などや、一時中村家で行なっていたダルマ製作にかかわる日本各地の彩色の達磨図、起上小法師の画集などがある。 | 43 | 43 |
10 | 田坂浩資料 | 早良区野芥の田坂家が所蔵していた生活資料と甲冑からなる。伝承によると、田坂家の先祖は広島地方の出身で、小早川家の歩兵として福岡の地を踏んだが、小早川家の本陣が帰国する際には戻らず、筑前国にとどまったとされている。記録等より江戸時代後期から大正時代にかけて紺屋を営んでいたことが分かっている。また近代には産業組合や村の役員等を務めていた。本資料群は江戸時代から昭和時代の野芥の商家の歴史や生活の諸相を伝えるものである。 | 38 | 65 |
11 | 小山田榮資料 | 寄贈者の先祖にあたる小山田家に伝来した幕末維新期から近代、昭和戦前期にかけての歴史資料。小山田家は江戸時代後期に槍術家であったという家伝をもち、明治4(1871)年には4人扶持で福岡藩庁に仕えている。 武家資料として伝来したものは、朱塗の鉄板6枚貼の瓜形兜のほか、槍術関係では各種免状や管鎗、陽流砲術の免許・目録が多数ある。さらに昭和前期の榮氏関係の史料として、青年期に購入した国史や軍事関係の各種記念刊行物、写真雑誌、勤務先だった貝島炭鉱関係の資料などが含まれる。 |
29 | 68 |
12 | 小森孝子資料 | 寄贈者宅に伝来した昭和戦前期のパンフレット、地図、絵葉書など。小森家は大正時代終わりごろから福岡市内人参町(現 博多区)で酒屋を営んでいた。家族でしばしば神社など福岡市近郊を行楽したという。本資料群中のパンフレットは、昭和10(1936)年に福岡市で開催された第8回九州連合畜産共進会に関するもの。同共進会は福岡県の主催であったが、福岡市ではその振興を図る目的で協賛会が組織され、各種印刷物を発行した。絵葉書は香椎宮や太宰府神社(現 太宰府天満宮)に関するものが含まれる。 | 27 | 27 |
13 | 小川峯登資料(追加分) | 平成11年度(近世文書、写本、版本、近代書籍など)、平成20年度(近代写真)寄贈資料の追加分。小川家は江戸時代後期に福岡藩に仕え、右筆等をつとめたという。 今年度分は昭和戦中期の写真。海軍陸戦隊における小銃、突撃、渡河、行進などの各種訓練の様子を記録したもの。伝来経緯は不明であるが、寄贈者の親族に海軍に入隊した者がおり、写真の入手に関係していると思われる。 |
24 | 24 |
14 | 藤井靖司資料(追加分) | 平成2~4、17、22~24、26年度にかけて寄贈を受けた藤井靖司資料の追加分。藤井家は古くから博多の旧西門町に居住し、昭和戦前期からは経師屋を営んでいた。これまでの寄贈資料は、近代の古文書類、博多の町家の暮らしにかかわる資料のほか、現在までの毎年の松ばやしで実際に使われた書類や小道具類がある。今回の寄贈資料は、明治期の華道や歌琴の教本類や、戦中期の灯火管制用の電球など、町の暮らしにかかわる資料と、近年の松ばやし関係の一束一本や豆半纏、道順表などの博多の祭礼関係資料である。 | 18 | 26 |
15 | 鎌田憲彦資料 | 和文タイプライターと予備活字、活字表などの付属品。昭和55(1980)年12月に開局した香椎オークタウン郵便局で使用されたもの。 タイプライターは、任意の活字を紙に印字する機械である。和文タイプライターは使用する配列シートを用いて文字を選択し、活字箱から金属活字を取り出して印字する方式を採用する。1980年代以降はタイプライターに替わりワードプロセッサが広く使用されるようになった。 本資料群の和文タイプライターは、日本タイプライター株式会社が昭和50年代に製造販売した一般向けのモデルである。 |
17 | 20 |
16 | 浦田小五郎資料 | 西区玄界島の浦田家に伝来した漁業関係資料及び歴史資料。福岡藩の時代から近代にかけての島しょ部の家の歴史やくらしの様子を伝える書付をはじめ刀剣、掛軸などが含まれる。玄界島では、正保2(1645)年に遠見番所が置かれ、定番と足軽が在島して監視に当たった。浦田家は遠見足軽を勤めた3軒のうちの一つにあたる。 本資料は、文化庁の「平成29年度地域の核となる美術館・博物館支援事業」の採択事業の一環として開催した「おでかけ博物館in玄界島『玄界島の記録と記憶』」(博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクト)の実施を機に寄贈の申し出があったもの。 |
17 | 18 |
17 | 平田将成資料 | 寄贈者が福岡城内名島門近くで採集した資料。焼塩壺や軒丸瓦、軒平瓦、陶器、土製品である。焼塩壺には「御壺塩師堺湊伊織」、丸瓦には「今宿又一」の刻印があり、いずれも17~18世紀に該当する資料であると考えられる。隣接する三ノ丸御鷹屋敷から出土した資料との関連がうかがわれる。 | 14 | 14 |
18 | 宮本満資料 | 幕末期に長崎へ留学し、時計技術を学んだことで知られる永野円助関係の資料群。永野円助は、上野俊之丞(上野彦馬の父)に師事して時計技術を学び、嘉永5~6(1852~53)年頃には、福岡藩から蘭学伝習のため長崎へ派遣された河野禎造や古川俊平らに同行。安政2(1855)年には長崎海軍伝習所に派遣されて諸器械伝習を行い、明治7(1874)年、中洲に時計店を開業した。 本資料群は、永野円助肖像写真と慶応元(1865)年に円助が福岡藩11代藩主黒田長溥から拝領した富士図、懐中時計などからなる。肖像写真は、右手に扇子を持ち端座する円助を撮影した湿板写真のガラス原板。円助が座る台の布地の模様から上野彦馬の撮影場で撮影されたものと推測される。 |
9 | 9 |
19 | 石田敦子資料 | 福岡藩黒田家に仕えていた石田家に伝わる資料。石田家は福岡藩の財政に携わってきた。寄贈者の義祖父である石田篤麿は、文久3(1863)年8月18日の政変後に三条実美ら五卿が筑前国太宰府へ移された際、福岡藩から五卿の世話を命じられた。そのお礼として三条実美から脇差(銘天国)を拝領した。また、篤麿は国学を学んでおり、国学研究関連資料も残している。 | 8 | 8 |
20 | 藤久子資料 | 昭和時代の女性用下駄、草履および男児用の雪駄。佐賀県唐津市相知町相知にあった料亭“サンゲン”の女将・田原フユコが所有していたもの。うち1点はフユコ氏の婚礼草履と伝わっている。その後、踊りをたしなむ娘の藤久子(旧姓田原)が譲り受け、使用したとされている。 | 8 | 8 |
21 | 池田シズエ資料 | 西区小呂島の池田家に保管されていた小呂島万年願歌舞伎の科白帳。資料は昭和30~40年代に上演された演目。万年願歌舞伎は8月18日に行われる小呂島の年中行事のひとつで、青年たちを中心に行われてきた村歌舞伎。昭和45年頃を最後に行われなくなった。関連する資料に小呂島漁業協同組合資料(福岡市立歴史資料館資料)の万年願歌舞伎衣装がある。 | 7 | 7 |
22 | 宮川智行資料 | 本資料群は、西区玄界島で使用された生活道具および海難救助の感謝状などからなる。なかでもオイは復興後の現在でも使用されている島の生活に欠かせない運搬具である。玄界島は、平成17(2005)年の福岡西方沖地震で被災し、それにより島の歴史や文化に関する多くの資料が失われた。 本資料は、文化庁の「平成29年度地域の核となる美術館・博物館支援事業」の採択事業の一環として開催した「おでかけ博物館in玄界島『玄界島の記録と記憶』」(博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクト)の実施を機に寄贈の申し出があったもの。 |
6 | 6 |
23 | 瓜生松次郎資料 | 直方市感田の真言宗大聖院に伝来した縁起書・仏像など。縁起によれば仏像は至徳2(1385)年に豊後杵築城主源重幸が若宮八幡宮の神体として祀ったのが始まりで、神仏分離により教順寺(大分県国東町)に安置された後、大正4(1915)年に寄贈者の曾祖父にあたる松次郎氏が譲り受け祀ったという。仏像のうち3躯は奈良時代に制作された木心塑像の心木と推定され、表面には鑿痕とともに塑土の痕跡が残る。手控帳は松次郎氏自身のものとみられ、宗教者として祈祷をおこなう上での様々な手順や日記などが記される。 | 5 | 7 |
24 | 髙田進資料 | 本資料群は、博多祇園山笠大黒流麹屋町の水法被、千代流の当番法被と水法被のほか、麹屋町で製作された着物からなる。なかでも“当番法被”と表現される上衣は、木綿の染め抜きで、山笠の法被の図柄と異なる。一部の関係者により直会や寄合い等で着用するためにつくられたものと推測されるが詳しくは不明である。千代流の法被は、寄贈者の知人が亡くなった際に、知人の親族から渡されたもの。本資料は、企画展示№515「博多祇園山笠展17―山笠と法被」の報道を機に寄贈の申し出があったもの。 | 5 | 5 |
25 | 田畑純子資料 | 寄贈者の亡夫・田畑淳二氏が収集した刀剣類。淳二氏は県立高校教員の傍ら、日本刀に興味を覚え、日本刀研磨の技術を習得し、自宅に細工場を設け、研ぎを行った。 袋鎗1筋、脇差3口、軍刀拵1口、計5点からなる。袋鎗は、福岡藩初代藩主・黒田長政が、お抱え刀工として招いた信国吉貞の作。脇差 銘 近江守法城寺橘正弘は、反りの浅い、17世紀後半に流行した寛文新刀の典型的な姿を示す。 |
5 | 5 |
26 | 大野賢一郎資料 | 寄贈者の祖父大野四郎氏に関する図面、新聞、写真などからなる資料群。大野氏は明治41(1908)年に福岡市で生まれ、地元中洲の彫刻師のもとで彫刻を学んだ後に独立して大野彫刻所を設立し、寺の装飾や商店の看板のデザインを請け負った。平成19(2007)年に亡くなった。 本資料群中の天神地下街天井図は、昭和50年ごろに大野氏がデザインした天神地下街の天井装飾の図面である。大野氏のデザインを採用し、昭和51年9月に地下街は完成した。 |
4 | 5 |
27 | 牧千惠子資料 | 寄贈者の母にあてられた昭和戦中期の葉書を添付したアルバムなどからなる資料群。 葉書は、満州国に派遣されていた安西義忠氏が、昭和16(1941)年8月から同18年6月に書いたもの。召集解除後、本人によって整理され、スクラップブックに貼付された。葉書の内容は、映画、書籍の感想や日々の雑感などである。文章のみでなく、煙草の外箱や人物などの絵も描かれた。 |
4 | 5 |
28 | 川久保惠啓資料 | 佐賀県伊万里市山代町楠久地区における昭和20年代前半の妊娠・出産・成長の祝いに関わる資料。寄贈者の母・川久保テル子が使用した昭和22年交付の妊産婦手帳、昭和23年生まれの寄贈者の臍の緒のほか、満1歳の誕生日に行われる初誕生の餅踏みで使用された草履などがある。草履は、父・川久保袈裟六の実家がある同地区在住の松尾サダにより製作された。これらの資料は、寄贈者の母が紙袋にまとめ保管していた。 | 4 | 4 |
29 | 寺田惠美子資料 | 早良区小田部の寺田家に保管されていた生活道具。木箱の使用者・寺田安太郎は、明治期に日本の農業進展に寄与した林遠里(元福岡藩士)と親交があり、農事改良に尽力した人物。その功績を称えられ明治40年に大日本農会総裁より農事改良奨励の表彰を受けた。資料には、有田・小田部周辺の生活の諸相を示す資料だけでなく、旧博多との関連を示す磁器製の酒樽も残っており、周辺地域との関わりを伝えるものとなっている。 | 4 | 4 |
30 | 細江松治資料 | 西区玄界島で使用されたショウケ、チョウノウ、カナテコ、鯛鰭の熨斗からなる。なかでもカナテコは、平成17(2005)年の福岡西方沖地震の発生以前の玄界島に特徴的な雁木段と呼ばれる石垣を作ったり、補修するときに使用された道具。また鯛鰭は、博多湾岸にみられるさまざまな熨斗の形態を示す一例で、結婚式などの大きな祝い事の際に用いられた。 本資料は、文化庁の「平成29年度地域の核となる美術館・博物館支援事業」の採択事業の一環として開催した「おでかけ博物館in玄界島『玄界島の記録と記憶』」(博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクト)の実施を機に寄贈の申し出があったもの。 |
4 | 4 |
31 | 浅井孝資料(追加分) | 平成29年度寄贈資料(助産医学関係書籍)の追加分。 本年度分は、寄贈者が収集した昭和10年代の書籍などからなる。書籍は、昭和18(1943)年に刊行された華道の教本。華道の一派である嵯峨御流の開祖と伝えられる嵯峨天皇の1000年忌を記念して製作された教本で、嵯峨御流と未生流の2冊が刊行された。この他、華道雑誌『精華』の休刊を伝える昭和19年1月付けの書簡を含む。 |
3 | 3 |
32 | 林信博資料(追加分) | 平成28、29年度寄贈資料の追加分。昭和36年に、西日本の釣社(福岡市大字名島下新開〈現 東区名島〉、武本龍夫社長)から刊行された釣りのガイドブックシリーズ。 寄贈者は現在、北九州市八幡西区の黒崎駅前で時計店を営む。同地で創業した先々代は、後に先代に店を譲ると、新たに同区筒井町に釣具店を開いた。本資料群の釣り関連資料は、釣具店を開いた先々代が収集し、手元に置いていたものとみられる。 |
3 | 3 |
33 | 宮川安隆資料 | 西区玄界島で使用されたイソガネ(ナガカネ・セバトもしくはアワビオコシ)、網修理の道具からなる。イソガネは寄贈者の義父で海士だった久島主税が使用したもの。後に寄贈者も短期間海士としてこれらの漁具を使用している。現在では、これらの漁具は使用されておらず、島内にも現存が少ない。 本資料は、文化庁の「平成29年度地域の核となる美術館・博物館支援事業」の採択事業の一環として開催した「おでかけ博物館in玄界島『玄界島の記録と記憶』」(博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクト)の実施を機に寄贈の申し出があったもの。 |
3 | 3 |
34 | 森幸次資料(追加分) | 平成27年度寄贈の昭和戦後期の写真資料等の追加分。内容は江戸時代の福岡・唐人町と、春吉の絵図で、寄贈者が近年に収集したもの。 唐人町の絵図は宝暦9(1759)年に町年寄の上原七郎兵衛が、役負担の基本台帳となる券帳をもとに作成した券帳付図で、屋敷の所有者と表口と入(いり)の間数が書かれる。寺院の山門は絵画的な表現で描かれ、下水道の位置なども分かるようになっている。春吉図は文化14(1817)年に藩の「御本丸詰所」で写した図の写しで、居住者名も記される。 |
2 | 3 |
35 | 池田美千代資料 | 寄贈者が昭和30年代から40年代にかけて使用した電気ミキサーと電気アイロン。いずれも東京芝浦製作所(現 株式会社東芝)製。 電気ミキサーは昭和23(1948)年に発売されたのが始まりで、持ち運びに便利な取っ手付ガラスボトルの採用や、蓋部に窓をもうけるなどの改良がすすめられた。電気アイロンは大正4(1915)年に東京芝浦製作所が国産第1号を発売し、生活家電として普及した。戦後には、スチームアイロンを発売した。 |
2 | 2 |
36 | 松田武治資料 | 西区玄界島で使用された熨斗。ハコフグとタツノオトシゴの剥製からなる。博多湾岸にみられるさまざまな熨斗の形態を示す一例で、島内では結婚式をはじめ、贈答の際に、これらの熨斗を贈答品の上に載せて贈る風習がみられる。 本資料は、文化庁の「平成29年度地域の核となる美術館・博物館支援事業」の採択事業の一環として開催した「おでかけ博物館in玄界島『玄界島の記録と記憶』」(博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクト)の実施を機に寄贈の申し出があったもの。 |
2 | 2 |
37 | 原秀一資料(追加分) | 平成19年度寄贈の追加分。寄贈者の祖父で博多織の職人・山内諌(1895~1982)が製作した着尺地と袖なし半纏。着尺地は、山内および寄贈者が着用していた褞袍を解いたもの。袖なし半纏は、山内が使用していたもので、昭和55(1980)年に第18回福岡県美術協会展に出品された「手織くちなし染」(現 福岡県立美術館蔵)と同じ着尺で製作されている。山内は明治28(1895)年に筑紫野市二日市に生まれた。幼少の頃より複数の織工場での修行・勤務を経て、昭和25(1950)年頃から平尾に居を構え、手織りによる博多織製作に専念した。昭和46年に小川善三郎氏、山内重平氏とともに福岡県指定無形文化財技術保持者に認定された。同家関連の資料として、山内千枝資料(福岡市立歴史資料館資料)、原芳子資料(平成15年度)のほか山内謙一資料(平成24年度)がある。 | 2 | 2 |
38 | 荒巻セツ子(追加分) | 平成18、21年度の追加分。平成18年度に寄贈されたハギトージンと同様に寄贈者がかつて、中央区谷の骨董店「ジパング」で購入したものとされている。作業着の前は5種類、後ろは1種類の木綿生地が用いられており、袖は筒袖となっている。破損・汚損がみられないことから、ほとんど使用されていなかったと推測される。 | 1 | 1 |
39 | 安東康一資料 | 寄贈者の父である安東輝雄に贈られた寄せ書き入りの日の丸旗。安東氏は、大正15(1926)年に生まれ、昭和18(1943)年に県立中学修猷館を卒業し、私立西南学院経済専門学校(現 西南学院大学)に進学した。同年10月に勅令第755号が公布され、大学・高等専門学校の満20歳に達した生徒は徴集されることとなった。安東氏は昭和20年に徴集された。 本資料は、安東氏の徴集に際し、有志が日の丸旗に寄せ書きしたもの。寄せ書きは、修猷館の卒業生である陸軍少将手塚省三のほか、西南学院経済専門学校の生徒のものが見られる。 |
1 | 1 |
40 | 大山一之資料 | 博多古小路町の商家・大山家に伝来した江戸時代の節用集。 節用集は室町時代中期に成立した用語集、辞書。江戸時代、18世紀以降には辞書に加え歴史年表や日本地図などの付録が加えられ教養書的な側面が強くなり、19世紀には辞書の語数も増加され大部なものとなった。本資料群の節用集は『新撰大日本永代節用無盡蔵』(天保2(1831)年原刻、嘉永2(1849)年再刻)で、本来は2冊揃いであるが1冊のみで伝来している。 |
1 | 1 |
41 | 緒方利博資料 | 寄贈者宅で保管されていたナショナル(松下電器産業株式会社〔現 パナソニック株式会社〕)のテレビのパンフレット。内容は、工場設備の近代化と品質管理、最新型真空管を開発した技術力を紹介し、自社テレビの性能をアピールするもの。また、比較的小型で安価な14形を中心とした商品をラインナップし、1時間あたりの電気料金を表示するなど、主として一般家庭に向けた商品広告づくりがなされている。 | 1 | 1 |
42 | 小田睦彦資料 | 西区小呂島で8月18日に行われていた万年願歌舞伎の写真。昭和30~40年代に撮影されたもの。同島で島の青年たちを中心に伝えられていた村歌舞伎は、昭和45年頃を最後に行われなくなった。同家の資料は小田モモ江資料、小田美加代資料(いずれも福岡市立歴史資料館資料)がある。また、万年願歌舞伎関連の資料に、小呂島漁業協同組合資料(福岡市立歴史資料館資料)、池田シズエ資料がある。 | 1 | 1 |
43 | 樺島利貞資料 | 石造観音菩薩像の頭部。灰色の石材を用いた丸彫り像で、螺髻を結い唐草の宝冠を着ける形状や眼球の円みを立体的にあらわす面長な顔立ちなどから中国の仏像で、元~明時代の制作と考えられる。各所に緑・赤・金などの色が残り、当初は鮮やかな彩色が施されていたとみられる。寄贈者によれば、本資料は終戦後に東京から福岡市若久に移り住んだ某氏から譲渡されたもので、東京在住時に米軍の大空襲で家ごと焼け、その際表面に損傷を受けたという。 | 1 | 1 |
44 | 木山和子資料 | 西区玄界島で使用されたガゼユリモン。ガゼとはウニのこと。ウニの中身を選別する道具で、ガゼエグリ(匙)で掻き出し、ガゼユリモン(篩)に入れると食用となる生殖巣(精巣と卵巣)が残る仕組み。資料のような竹製ガゼユリモンは現在ほぼ使用されていない。 本資料は、文化庁の「平成29年度地域の核となる美術館・博物館支援事業」の採択事業の一環として開催した「おでかけ博物館in玄界島『玄界島の記録と記憶』」(博多湾岸《金印ロード》ツーリズム・プロジェクト)の実施を機に寄贈の申し出があったもの。 |
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45 | 島田澄夫資料 | 西区小呂島で昭和34~35年頃に使用された延縄(鯛縄)。延縄1反(1把)に針を50ほど取り付けて使用した。現在小呂島では、延縄は行われておらず旋網へと変化しており、この資料は小呂島の漁業の変遷を示す漁具といえる。 | 1 | 1 |
46 | 髙橋郁資料 | 大分県別府市在住の寄贈者が収集した絵画資料1件からなる。 寄贈資料は雪月花をあらわす絹本墨画淡彩の掛軸で、作者は狩野昌運。江戸時代前期の狩野派宗家の重鎮でありながら、福岡藩4代藩主黒田綱政に招聘され、晩年は福岡藩御用絵師を兼務して、江戸と福岡を行き来した。制作年代不明の作品ながら、「法橋昌運筆」の署名とともに捺された落款印「狩野」(朱文方印)が、いくつかの昌運作例と息子・和田一信の作に共通することから、今後の研究に資するものと思われる。福岡ゆかりの絵師の作品としても、活用が見込まれる。 |
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47 | 高森雅彦・花資料(追加分) | 平成27年度寄贈資料(近代資料)の追加分。今年度寄贈分は寄贈者の父高森雅彦氏が所持していた満洲国の国旗。入手経緯は不明である。 満洲国は、昭和7(1932)年に成立した中国東北部と内モンゴルを領域とした国家。清朝最後の皇帝溥儀を執政とし、首都を新京(長春)に置いた。翌年3月に帝政となった。太平洋戦争期には日本の戦争継続に協力したが、昭和20年8月にソ連の満洲侵攻を受け、同月17日に解体を宣言した。国旗は大同元(1932)年3月に制定された。地は黄色、左上角は赤・藍・白・黒の4色を用いて5色旗とし、4色の部分は全体の4分の1を占めることとされた。 |
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48 | 仲田鞠子資料 | 寄贈者宅に伝来した書籍『グレートフクオカ 福岡会社商店案内』。 本資料は、昭和11(1936)年に西日本飲食料新聞附録として刊行された。編集者の濱崎義雄は大正11(1922)年に福岡毎日新聞を創刊して新聞業界に15年間身を置いた。本資料は濱崎の新聞業界からの引退と機を一にして刊行された。内容は、福岡市周辺の名勝・観光地と、会社企業およびその経営者を紹介するものである。写真はコロタイプ版印刷で、1頁に2点から6点が掲載される。写真の一部には鉛筆やペン書でタイトルが付される。 |
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49 | 中西金一郎資料 | 博多片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。大正5年の陸軍特別大演習の際に大正天皇の行在所(福岡県庁)に据えるため福岡県が発注した芥屋大門図刺繍衝立の背面布見本織を利用したもので、後に仕立てられた名古屋帯。 当該衝立は、中西博多織工場・中西金次郎と、高嶋屋呉服店・飯田新七の合作。表面の上部に芥屋大門の全景を刺繍して下部に金の高蒔絵と青貝を散らし、中央に菊花紋章を配したもので、背面は菊花唐草文様の意匠が施された博多織。 |
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50 | 松尾宏人資料 | 寄贈者の父親が所蔵していた袖がらみ。袖がらみは江戸時代に治安維持のため、犯人等の捕縛などに使用された長柄の武器で、武家だけでなく村役人などの役所にも保管されていた。松尾家は江戸時代には佐賀・小城周辺に一族で住んでおり、父親が戦前に福岡へ勉学や就職で移っているため、この袖がらみは実家から伝わったものとされる。 | 1 | 1 |
51 | 松村直寿資料(追加分) | 平成28、29年度寄贈資料の追加分。松村家の来歴については、『平成28(2016)年度収集 収蔵品目録34』(2019年)の資料解題を参照いただきたい。 今回の寄贈分は、福岡藩の儒学者で天明4(1784)年に開学した西学問所(甘棠館)の祭酒(学長)となった亀井南冥の書。南冥が70歳の時から使用したと言われる「白髪書生」印が捺されていることから、南冥晩年の書であると推測される。 |
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52 | 宮崎安尚資料(追加分) | 平成8年度寄贈資料(近世・近代資料)の追加分。本年度分は、鉄道省が大正13(1924)年に旅行者のために発行した冊子『鉄道旅行案内』である。同書は、大正3年から鉄道院(後の鉄道省)によって刊行が開始され、6度にわたり新版が刊行された。当初は縦長の手帳型であったが、大正10年版からは横長の判型に改め、「沿線鳥瞰図」と「名勝図絵」を収録し、同13年版ではさらに名勝などを増補した。 | 1 | 1 |