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平成31(2019)年度収集 収蔵品目録 37

【寄贈】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 財部一雄資料  寄贈者の父・財部一雄氏(1927~1994)に関する文書、写真などからなる資料群。
 財部氏は市内上名島町(現 中央区)に生まれ、大名小学校から県立中学修猷館にすすみ、昭和19(1944)年に卒業した。同年から美術教師として平尾国民学校に奉職、その後は高宮中学校教諭、能古中学校教頭、姪浜中学校長を歴任した。また、士族結社玄洋社の武道場を起源とする柔術道場明道館の運営に関与した。『明道館史』(編著、明道館、1984年)、『大名界隈史』(柳猛直と共著、海鳥社、1989年)の著作がある。
 本資料群には、財部氏の昭和30年代の日記をはじめ、昭和から平成時代の、賞状・感謝状、書簡などの文書の他、書籍、写真、絵画などが含まれる。
 なお、本目録に掲載したのは文書、書籍、写真の一部と絵葉書であり、他の資料については次号に掲載する予定である。
2654 2801
2 中西裕子資料(追加分)  平成21、28年度寄贈資料の追加分。博多片土居町(現博多区下川端町)の博多織元であった中西金次郎家に生まれた中西金作に関連する資料。
 中西家は中西久吉が天保11(1840)年に博多織元富屋の徒弟となって博多織業に関わり始めたとされる。久吉の三男金次郎(初代)は明治24(1891)年に中西博多織工場の跡を継ぎ、各地の織物技術を取り入れながら多くの技術開発を行った。
 本資料群は、金作が発明した電気紋織技術に関する文書類からなり、主に特許証・実用新案・意匠登録証など電気紋織機に関連する特許書類、ジャカード織機に用いる紋紙などが含まれる。
364 540
3 小山喜美子資料 寄贈者の父・井上照三氏(1908~1996)に関する昭和時代の文書などからなる資料群。
 井上氏は佐賀県出身で住友銀行に勤務していた。戦時期は海軍の下士官、新兵の教育のために設置された佐世保鎮守府の佐世保海兵団に所属し、終戦後は住友銀行に復職した。
 本資料群中には、佐世保海兵団時代の軍服や、家族などに宛てた葉書、戦中・戦後の紙幣や貨幣などが含まれる。井上氏は銀行勤めだったため、給料は、紙幣は新札、硬貨は紙に包まれた状態で支給されていたという。そのため、特に紙幣は状態の良いものが多い。
103 478
4 合屋翠雲堂資料  本資料群は、福岡市東区箱崎などで2代にわたり表具店・合屋翠雲堂を営む合屋家が収集した書画の一部91件93点。先代・善吉氏および当代・善克氏が、趣味として収集したものや、表装代金の代わりに受領したもの、交友関係のなかで制作したり贈られたりしたものなどが含まれる。ほとんどは収集後、善吉氏や善克氏によって表装し直されている。
 全体を見渡すと、表具師を起点とする画壇・文壇・市井の様々な人間関係が浮かび上がることから、昭和時代の福岡の文化シーンをひろく窺い知れる稀有な資料群だといえる。また個々の作品も、近世~近代の美術資料として、また近代表具の好資料として、多岐にわたる活用が見込まれる。
 寄贈者の別資料として、平成2年度寄贈の合屋善克資料がある。
91 93
5 進藤美穂資料  寄贈者の父・進藤澄男氏に関する書類、写真、勲章などからなる資料群。
 進藤氏は、大正4(1915)年に糸島郡小富士村(現糸島市)に生まれ、全羅南道の木浦府で雇員となった。昭和13(1938)年、14~17年、19~20年と3度の臨時召集を受けた。終戦後は釜山から博多港に復員し、福岡食糧事務所に勤務した。本資料群には、木浦府および朝鮮総督府からの辞令、昭和戦後期に作成された履歴書、昭和時代初期~戦中期における写真、昭和戦中期の貯金通帳、勲章がある。この他、引揚者の生活援護措置として発行された引揚者特別交付金国庫債券を含む。
65 65
6 坂田立子資料(追加分)  平成14、28年度寄贈資料の追加分。坂田家は戦国期に秋月の野鳥付近に居城をかまえて秋月氏に仕え、江戸期は秋月藩士となり文政期には100石を受けている。今回の資料は戦国期の坂田越後守を祀る上秋月神社(朝倉市)の御神体、江戸時代後期の坂田家旗指物、幕末の剣術・鎗術・馬術・砲術の免許などが中心。ほかに近世から残された古銭類や什器もある。近代・現代資料としては幕末当主の坂田忠左衛門の写真や大正~昭和期のアルバム類、立子氏の戦時関係資料のほか、書籍や楽器、収集された書跡、絵画などが含まれる。 57 71
7 安陪光正資料  安陪氏は、福岡藩筆頭家老で朝倉郡三奈木(現 朝倉市)周辺に給領地をもっていた三奈木黒田氏に仕え、維新後に三奈木黒田家が東京へ移ったのちも地元の朝倉や福岡に居住し、黒田家が地元と関係する際の諸世話を行った。
 寄贈となった資料は、近世の安陪家に伝来した刀剣類と極め等の関連文書、近世中期の三奈木黒田家当主黒田一貫の漢詩など文芸作品、仙厓など近世後期の筑前の学者・文化人の書跡・絵画作品類がある。さらに明治期の三奈木黒田家の当主黒田一雄から、安陪氏に出された多数の書簡類が含まれる。
53 53
8 妹尾俊見資料  江戸時代中期以後の福岡西職人町(現 中央区舞鶴)で塗師を営んでいた妹尾家に残された古文書資料。妹尾家は、黒田長政の城下町建設時に福岡に移ってきた白銀師で、寛文12(1671)年から藩主の御腰物の塗御用を命じられ、宝暦年中より本式に塗師として、刀剣関係の数々の藩御用を家職として勤めた。
 資料群は以後代々の家職相続に関する藩の許可書、藩や町方へ差し出した寸志銀や備蓄米に対する藩の褒状や格式を与える書付類が中心で、ほかに同家でまとめた家譜や勤功録も含まれる。このほか近代の写真類や大正期に地元博多で発行された文芸雑誌も含む。
41 43
9 小川俊資料  寄贈者の父および兄弟に関する大正~昭和時代の書籍、書類、教材などからなる資料群。寄贈者の父・小川和男氏(1903~1998)は北海道小樽区(現 小樽市)で生まれ、大正4(1915)年に岡山県第二中学校に英語教員として就職した。昭和16(1941)年、福岡高等商業学校(現 福岡大学)の教授となった。昭和16~24年までの日記が刊行されている(福岡大学大学史資料室編集・発行『福岡大学大学史資料集 第3集 小川和男日記』、2005年)。本資料群中には、中学校在職中に使用した教師用教科書、福岡大学創立50周年式典の招待状などが含まれる。 39 39
10 小野寺龍太資料  寄贈者宅に伝来した近世から近代における書跡、書画からなる資料群。寄贈者の祖父・小野寺直助(1883~1968)が収集したものを主とする。小野寺直助は岩手県胆沢郡前沢町(現奥州市)に生まれ、第一高等学校から京都帝国大学福岡医科大学(現 九州大学医学部)に進み、卒業後に九州帝国大学医科大学教授となった。
 本資料群中には、江戸時代後期の歌人大隈言道の和歌、儒学者亀井南冥の孫である少の書画、政治家伊藤博文の漢詩、軍人・政治家山県有朋の和歌がある。昭和時代の和歌短冊は、柳原白蓮や吉岡禅寺洞など、福岡ゆかりの歌人によるものが含まれる。
32 33
11 石田琳彰資料  在野の考古学者で郷土史家の故・高野孤鹿氏は昭和20~40年代の福岡市や太宰府周辺を中心に考古資料の収集と踏査記録を残し、中央区平和台の鴻臚館・福岡城の遺跡保存にも貢献された。本資料群は氏のご子息が保管されていたものである。資料には、高野氏の著作物と記録類(各遺跡の踏査記録や各種の目録、瓦の拓本カード集など)や、九州考古学の先駆者である中山平次郎博士から譲り受けた著作物などがある 28 116
12 塚本家資料(追加分)  昭和58、62年度、平成18、19、20、29年度の6度にわたり寄贈を受けている福岡藩医塚本家資料の追加分。塚本家は江戸時代を通じて外科医の筆頭として福岡藩に仕えた。
 今回寄贈の資料群は、江戸時代に刊行された医学関係の版本が中心。『重訂解体新書』をはじめ、杉田玄白の小浜藩の眼科医であった杉田立卿(錦腸)の『瘍科新選』、立卿の息子で幕府天文台訳員や蕃書調所教授を務めた杉田成卿の訳書など、西洋医学に関する書籍が大半を占めており、塚本家における西洋医学の受容の様子がうかがえる。
27 88
13 竹川英次郎資料  寄贈者のおば・竹川ヤツエ(1893~1959)に関する筑前琵琶関連の資料群。免状や筑前琵琶の楽譜などからなる。筑前琵琶は、江戸時代の盲僧琵琶を基に明治時代に考案された琵琶の奏法である。諸流派があったが、一丸智定(初代橘旭翁)を会長とする旭流は明治時代終わりに全国各地で旭会を結成し、大日本旭会を創立するなど発展をとげた。橘旭翁は「筑前琵琶宗家」を称し、旭会会員は琵琶の習熟度に応じて宗家から免状を授けられた。奥伝以上の免状を受けた者は、教師になることができた。本資料群には2代目橘旭翁からの竹川への教師免状が含まれる。 27 29
14 梅津忠弘資料  筑前国下座郡甘木(現 朝倉市)に居住し、江戸時代、筥崎八幡宮(東区箱崎)など諸社の神事能を行った、筑前美麗梅津家に伝来した古文書。
 梅津家は菅原道真とともに筑紫に下向、のちに筑後国高良大社(久留米市)に奉仕した美麗田楽法師が出自と伝える。その後、筑前国甘木に移り住み、元和年間に黒田長政に召し出されたという。
 寛永元(1624)年12月、美麗作右衛門重次が黒田忠之に筑前国中楽頭に任じられ、元文3(1738)年には6代目の金左衛門正明が福岡藩から永代3人扶持を与えられている。正明は、寛保2(1742)年に士分となり、延享2(1745)年に弟・金太夫直勝に美麗楽頭を譲った。これ以降、梅津家は二家に分かれ、正明の家系は乱舞方として福岡藩に仕え、後に梅津只圓を輩出した。
 資料群は金太夫直勝の家に伝わったもので江戸時代後期の古文書が多く、喜多流相伝書や喜多七太夫・六平太からの書状からなる。3巻に仕立てられた系図類は、幕末の当主正利によって整理が行われたもの。
26 26
15 石橋延枝資料  寄贈者の実家に伝来した江戸時代後期~明治時代の絵画、書跡と、昭和20年代から40年代にかけての書類からなる資料群。出所が同じ資料群として、石橋和夫資料(昭和63年度寄贈、近世・近代文書10件10点)がある。
 絵画、書跡については、旧福岡藩主家侯爵黒田長成(1867~1939)の書などがある。
 昭和20~40年代の書類は、寄贈者の母である石橋延枝氏に関するもの。石橋氏は大正15(1926)年生まれで、昭和20(1945)年3月に福岡第一師範学校を卒業後、国民学校の訓導となった。本資料群には、師範学校の卒業証書や単位認定証明書、教諭免許状などが含まれる。
22 22
16 牟田節子資料  寄贈者が撮影した写真と収集した印刷物からなる資料群。
 写真は、昭和50(1975)年に博多駅前で撮影された花電車を含む。花電車は、生花・造花や電飾を用いて装飾した電車のことで、イベントに際して運行されるもの。昭和戦後の福岡市では、主として5月に開催される「博多どんたく港まつり」で花電車が運行された。昭和50年は、福岡市内線の貫通線、呉服町線、城南線が11月から廃止となったため、10月30日から11月1日にわたり、3台の花電車が運行された。この他、西日本鉄道が発行した福岡市内線全線廃止記念の乗車証がある。
14 16
17 星野宜義資料(追加分)  平成20年度寄贈資料(近世書籍、武具類)、平成26年度寄贈資料(近世文書)の追加分。本年度分は、寄贈者宅に伝来した雑誌『世界画報』。
 『世界画報』は国際情報社が発行した月刊誌。書店販売はなく、本社もしくは地方支局に購読の申込を行った者に配本する方式であった。本資料群中には、第11巻第5号(昭和10年5月発行)から第12巻第5号(昭和11年5月発行)までのうち第11巻第6号を除く12冊がある。内容は、絵画や版画の原色版あるいはオフセット印刷の口絵、「世界風俗めぐり」と題されたヨーロッパ、中東、アフリカ大陸の街角や風景写真の紹介と時事報道などである。
14 14
18 久芳和喜資料(追加分)  平成27年度寄贈資料(近世書画、近代文書、写真)および平成28年度寄贈資料(昭和戦後のマッチ箱)の追加分。本年度分は、大正から昭和時代にかけての写真と、西明石家の系譜。
 久芳家は江戸時代、福岡藩士明石家(西明石)に家臣として仕えた。明治時代以降も親交は続き、現在は親戚関係となった。本資料群中には、旧福岡藩主家侯爵黒田長礼(1889~1978)との集合写真や、西明石家出身の陸軍軍人明石元二郎(1864~1919)の肖像写真などが含まれる。
10 10
19 二宮健資料(追加分)  平成25、29年度寄贈資料の追加分で、江戸時代の福岡藩の学者、文化人の書状3点、および博多狂歌師の書簡と作品3点の計6点の古文書。いずれも寄贈者が収集したものである。学者、文化人の書状は,藩校修猷館の儒者・安井三蔵、国学者・石松元啓、藩医で書家としても知られる上村米山のもので、いずれも江戸時代後期の人々のもの。博多狂歌師とされる「観心亭釣庶」の書状には新春関連狂歌が記載されている。 6 6
20 樋口家資料  西区金武字浦江の寄贈者宅敷地内の通称薬師堂の本尊である木造薬師三尊、十二神将ほか堂内に安置されていた石仏など。滑石仏群は平たい石面に如来形像か毘沙門天形像が刻まれそのうち、如来形像の1点には裏に平安時代末期の治承3(1179)年銘が確認できる。
 薬師堂は、延享2(1745)年の承天寺末寺の廃寺等目録(青柳種信『筑前国続風土記拾遺』所収)にみられ、そこには中世では原田氏の祈願寺であったが、江戸時代にはすでに廃壊し、薬師堂のみが残る状態であったとある。なお近代には「新四国」霊場の札所にもなっていたようで、堂内には年代不詳の18番、昭和46(1971)年の75番の八十八ヶ所札が残っていた。近年は公開されておらず、令和元(2019)年に堂は閉じられた。
5 37
21 舌間輝吉資料  寄贈者宅に伝来した大正~昭和時代の漆器など。
 金縁黒台付五段重は、福岡県在住の半田芳太郎という人物が製作した黒漆塗の重箱。大正7(1918)年4月から5月にかけて開催された九州沖縄物産共進会に出品され、三等賞を受賞した。共進会の主催者は福岡県実業団体連合会、会場は福岡市内須崎裏海岸の元監獄跡地であった。
 漆器の審査は、福岡県技師三條栄三郎、県立福岡工業学校教諭、郡立浮羽工業徒弟学校長、福岡市工芸技手、熊本県物産陳列館技手などで行った。関連資料として出品票がある。この他、黒漆塗の重台、角盆などが含まれる。
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22 笠置美枝子資料  本資料群は、寄贈者の母(明治34年生まれ)が嫁入りの際に田川市の実家から持ってきたタンスの中にあった灯火管制用電球と下駄からなる。
 灯火管制用電球(マツダランプ)は、戦時中の灯火管制(すべての灯火を消滅あるいは遮蔽して来襲する敵機の攻撃目標を惑わそうとする)時に使用するために作られた電球。電球面に光源を遮蔽する塗料を塗り、真下だけに光源がくるようになっている。製造は神奈川県川崎市の東京電機株式会社。寄贈者が5、6歳だった昭和15、16(1940、1941)年頃に使用していたようである。
 下駄は表に草履を貼った草履下駄で、寄贈者が子どもの頃に庭で遊ぶ際に履いていたもの。
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23 松尾孝司資料  寄贈者が収集した資料からなる。
 上新川端町(現 博多区上川端町)生まれで、九州大学の技官であった園田武利氏が作成した鼓形とタヌキ形の博多チャンポン。同氏は九州大学でガラス実験器具などを作成していたことから、その技を生かして退官後に博多チャンポンを作り始めた。鼓形は両面の打ちの部分の間隔が10㎝前後。その中央のくぼみの部分から直径1㎝のガラス管がついたもの。その管の先端を吹くと、鼓の両面から「ぺこんぽこん」と音が鳴る。九州大学で開かれた有機合成低分子化学の国際学会に出席したノーベル賞受賞者のブラウン博士に「思い出になるお土産を」と頼まれて作ったのが始まり。タヌキ形は「明治時代にはタヌキの形をしたチャンポンがあったらしい」との記述からヒントを得て製作した。しかし、明治時代に製作された現物を確認できなかったので、想像による産物。標準的なチャンポンに頭と両手両足、尻尾などを付けたもの。
 経帷子は寄贈者の母に祖母(生まれは明治時代初め)が用意したもの。葬儀の際に死者に着せる死装束になる。背中に「南無高祖承陽大師 〇印/南無釈迦牟尼佛 〇印/南無太祖常済大師 〇印」の経文(曹洞宗)の墨書きがある。
 麻かばんは、国防婦人会(1932~42年まで存在した日本の婦人団体)を表す「國婦」や支部などを記入するラベルの刺繍が施されている。
4 4
24 吉村慶二資料  大正~昭和時代に活動し、福岡県無形文化財保持者にも認定された原田嘉平(1894~1982)などの博多人形。原田による大小2点の「達磨」は、謹厳さが求められる道釈ものでありながら、抒情性やユーモアを加味した作品。「熊野」は小島与一の弟子高尾八十二に師事した白石一敏による能もの。「子扇」は原田の弟子原田吉太郎に師事した藤和人によるモダンな造形感覚の美人ものである。いずれも寄贈者の父が北九州市に居住していた昭和54(1979)年頃に百貨店で購入し、その後大阪に転居し、自宅に飾っていたもの。 4 4
25 林信博資料(追加分)  平成28、29、30年度寄贈資料の追加分。本資料群は雑誌に掲載された釣りに関する記事および写真、川釣りに関する書籍からなる。
 寄贈者は現在、北九州市八幡西区の黒崎駅前で時計店を営む。同地で創業した先々代は、後に先代に店を譲ると、新たに同区筒井町に釣具店を開いた。
 本資料群は、釣具店を開いた先々代が収集し、手元においていたものとみられる。
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26 郷司澄子資料  寄贈者の父が収集した書跡3点。寄贈者の父は昭和戦前期、東京で警察官をつとめていた。
 本資料群の頭山満一行書は、業務の関係から東京・赤坂で頭山と知り合った寄贈者の父が、揮毫を依頼したもの。頭山満(1855~1944)は、早良郡西新町(現早良区)出身で、士族結社玄洋社の設立に参画した。また、アジア各国の運動家と親交を結び、その活動を支援した。
 この他、頭山と親交のあったジャーナリスト徳富蘇峰(1863~1957)の一行書、歴史・法学者で慶応義塾塾長、第二次世界大戦後に愛知大学学長などをつとめた林毅陸(1872~1950)の一行書がある。
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27 坂本幸子資料(追加分)  平成25、28年度寄贈資料の追加分。
 主に婚礼などのハレの日に女性が身に着ける櫛・簪・笄。これらは寄贈者が母から譲り受けたもの。使用していたのは寄贈者の母、あるいは祖母。素材はべっ甲が使用され、蒔絵が施されている。現在、べっ甲の国内流通は限られているため、民俗資料のみならず工芸品としても貴重である。
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28 関義郎資料  寄贈者の祖父・関藤三郎に関する明治時代後期の文書と従軍手帖、書籍。
 関藤三郎は、明治13(1880)年席田郡席田村平尾(現博多区)に生まれた。明治37年召集され、翌年3月11日、奉天附近での戦闘で戦死した。弔辞は、福岡県知事で福岡県戦死者弔慰会長をつとめた河島醇によるもの。従軍手帖は、軍歴を記す。書籍『筑紫光』は、筑紫郡出身の日露戦争戦病死者90余名の事蹟をまとめる。編纂者の福岡県筑紫郡尚武会の詳細は不明であるが、会長は筑紫郡長、町村支部長の中にも町長、村長が名を連ねており、筑紫郡の官製団体であったと考えられる。
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29 益田敏夫資料(追加分)  平成20年度寄贈資料(近世文書)の追加分。本年度分は、明治時代から昭和10年代にかけての寄贈者の家(益田家)の写真アルバム3冊。
 益田家は、福岡藩主黒田家の草創期を支えた家臣である黒田二十四騎の一人益田与助を輩出した益田家の分家。19世紀はじめの当主道乙が外科医となり、明治時代以降も医師となる者がいた。
 本資料群中のアルバムは、軍医であった益田狭槌(?~1955)とその家族および友人の写真を収めたもの。益田は明治30(1897)年に陸軍軍医学校を卒業し日露戦争に従軍した。
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30 小川守資料  寄贈者の父親が所持していた甲冑で、伝来は不詳であるが、兜は古風な六十二間筋兜に鍬形の前立がつく。鉢裏の銘には「早乙女家親」とあり、近世初期の関東(常陸など)に多い早乙女系の作。また家親は桃山後期~江戸時代前期の人とされることからかなり古い物。胴は小札が紺糸で威された二枚胴具足で小具足も一式揃っている。このほか父親が従軍して昭和20(1945)年の8月終戦前にうけた勲章などがある。 2 2
31 長沼元資料(追加分)  平成3年度寄贈資料(近代資料)の追加分。今年度分は、水利組合の組合長をしていた関係で寄贈者宅に保管された水利施設の図面を含む文書類。なお、寄贈者は、平成3年度寄贈資料の南区民俗文化財保存会資料の寄贈者である南区民俗保存会の旧代表。
 本資料群中の資料は、那珂川中流域の老司井堰(17世紀初頭築造)から取水された用水路(老司川)の水利施設について詳細に記録する。取調帳は、堰が設置された場所ごとに分割して詳細を記す。用水路図は、老司井堰から、用水路を省略なしの図面にしたもの。
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32 吉原章資料(追加分)  平成17年度寄贈資料の追加分。寄贈者が収集した資料からなる。
 蹴りロクロは、野間焼の窯元であった小林勝男氏が家を解体する際に祖父・小林亦助氏が使用していたものを見つけたもの。野間焼は黒田藩窯として安政元(1855)年に野間皿山(現 南区皿山)で京焼を作ったのが始まりといわれる日用陶器だったが、昭和50年代頃には生産されなくなった。同一資料は、西花畑公民館(南区)所蔵の蹴りロクロが現存するのみである。
 ベンチは平和台球場で使用されたもの。野球好きの寄贈者の甥がネットオークションで購入したものを、寄贈者が木材に固定した。平和台球場は昭和25(1950)年、第3回国民体育大会が開催された平和台総合運動場のサッカー場跡地に建設された。
 プロ野球・パシフィックリーグの西鉄ライオンズ、福岡ダイエーホークスなどが本拠地球場とした。建設当初はナイター照明がなかったが、昭和29年に設置された。また、昭和33年に全面が座席化された。
 福岡ダイエーホークスが本拠地を福岡ドームに移したことに伴い、プロ野球の公式戦は平成4(1992)年で終了した。平成9年に完全閉鎖されることとなり、11月24日にお別れイベント「さよなら平和台」が開催された。平成19年から翌年にかけて解体された。
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33 大串誠寿資料  本資料は、芸術工学博士である寄贈者が2016~2017年に制作した宇賀神社(中央区)所蔵「お馬さん」の実測図。「宇賀神社神馬像調査総合報告書」(2018)の説明図として制作され、のちに鑑賞用作品としても民間ギャラリーと公立美術館で3度にわたり一般公開された。
 「お馬さん」とは、宇賀神社の拝殿に掲げられた全長2.4mの馬の人形のことで、同社境内が甚大な被害を被った福岡西方沖地震(2005年)で奇跡的に被害を免れたことから人気を集めた。調査や修復(2015~16年)が行われた結果、昭和初期に博多祇園山笠の飾りとして制作された人形である可能性が指摘されている。
 寄贈者は2016年の調査に参加して神馬像を採寸し、本資料を製図した。また、2018年に「お馬さん」の価値を啓蒙し維持費を募集するためのクラウドファンディング(インターネットを介した寄付募集)を実施した。このとき返礼品として、本資料を原画とするA3判の複製印刷物(特殊オフセット版と活版による印刷)とL2判の複製写真が頒布された(A3判:47名に計235枚、L2判:50名に計134枚、2018年度末に終了)。「クラウンドファンディングによる文化財保護費の調達」は、平成後半に知名度を上げ、今後の展開が注目されている。本資料は福岡における一事例の記録として、また山笠関連資料・美術資料としても活用が見込まれる。
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34 青木富美子資料  過去・現在・未来の三世諸仏の名を唱えて国家の安寧を祈願する仏名会で用いられる三千仏図。3幅1組の絹本掛幅装で、それぞれ中央に大きく阿弥陀・釈迦・薬師の三世仏を配し、周囲には千仏を印仏で表す。阿弥陀幅の裏に、文安3(1446)年に金剛仏子宗忍房が寄進し、永正12(1515)年に今津の波佐右京助吉久が修理、元禄11(1698)年に誓願寺(西区今津)の住持大泉坊栄信が再修理したことを示す墨書があり、誓願寺の旧蔵であったことがわかる。墨書は元禄時に記されたものだが、画絹や作風は室町時代の仏画の特色を示しており、文安3年は制作時期と認められる。寄贈者は西区下山門に鎮座する壹岐神社の祀官を務めた青木氏の末裔である。 1 3
35 桐山恭二資料  福岡藩初代藩主黒田長政とその父・如水に仕えた重臣で、黒田二十四騎の一人にかぞえられる桐山丹波が所用したと伝えられる兜と甲冑。兜は、金泥塗の瓢箪の頭立を白熊の毛で飾り、蟹の鋏の脇立、および梵字の前立が付くなど、かなり派手で重々しい仕立であるが、鉢自体は古風な星兜である。なお金泥瓢箪の頭立は、丹波の武功をほめた豊臣秀吉に許されたという伝承が付く。胴は白や茶、黄など華やかな糸で威された二枚胴で重臣クラスのもの。これら甲冑一式は寄贈者の父親により保持されていた。 1 1
36 大黒流すの二(須崎町二区)資料  博多祇園山笠・大黒流の須崎町二区(すの二)(博多区)に大正時代から伝わる台幕。藍染地に十二支裾柄雀踊りが描かれる。
 町の前身・旧下鰮町が大黒流の当番町を務めた記念に作られた。題材は江戸時代に流行した「雀踊り」。編み笠を被って、雀のしぐさを真似て踊る侍が描かれている。高名な博多人形師・故小島与一が監修したとの話や、昭和25(1945)年6月の福岡大空襲では猛火が迫る中、町の神社から幕を持ち出した若者が近くの川に飛び込んで難を逃れたという逸話も残る。また、台幕は山笠の際、町の詰め所の周囲に張り巡らすとともに婚礼や葬儀の会場にも張られて町のシンボルとして親しまれて代々受け継がれてきた。
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37 富﨑洋子資料  寄贈者の家で、正月や慶事に使用されてきた六曲屏風。
 寄贈者の父方の祖父(前田氏)が唐津街道沿いの徳須恵(現 佐賀県唐津市)で旅籠を経営しており、祖父あるいは曽祖父の代に、宿泊者が宿代として置いていった源氏物語図屏風であると伝わる。
 源氏物語図屏風の定型には当てはまらないが、江戸時代中~後期の町絵師による作とみられ、裏貼に使用された紙から近代になって福岡近辺で修復されたことなどが分かる。近代福岡のくらしの中で、どのような書画が、どのように受容されていたのかを示す資料として、展示や研究での活用が見込まれる。
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38 冨永美佐子資料  寄贈者の実家に伝来した陸軍用の毛布。昭和15(1940)年製で、広島被服支廠で検品されたもの。
 広島陸軍被服支廠は、陸軍の軍服などを製造する陸軍被服廠の出張所として、明治38(1905)年に開設された。
 装備の多様化と大量調達の必要姓に対応するため、軍服・軍靴以外の物品については民間工場に製造を委託し、被服廠は品質管理や配給業務を行った。
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39 藤永喜美子資料  絹本着色の阿弥陀三尊来迎図。中央に雲に乗る正面向きの阿弥陀如来、その前方左右には腰を屈めて蓮台を捧げ持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を描く。当初は掛幅装であったが現状では額装に改められている。正確で均整のとれた構図や描写、着衣部に施された精緻な截金文様などから制作時期は鎌倉時代後期とみられる。旧箱書きによれば、本図はもと円応寺(中央区唐人町)の宝物であったが、明治8(1875)年に妙操という人物が「不思議の因縁」によって請い求めて念持仏とし、また明治18年には吉村氏によって表装されたことがわかる。妙操については未詳だが、寄贈者の母方の先祖は福岡唐人町の両替商で、祖父にあたる吉村貞次郎(のち荒木に改名)の生家は円応寺の隣にあったという。円応寺は福岡藩主黒田家ゆかりの浄土宗寺院で、昭和20(1945)年の米軍による空襲のため什物の大半を失っている。 1 1
40 船津喜代子資料  寄贈者の祖父・倉掛喜丈氏が骨董趣味の一環として収集した刀剣。
 戦国時代、末備前物の短刀1口で、茎の表に「備前國住長舩清光」、裏に「永禄十二年二月日」の作者銘・紀年銘を有し、末備前物の上作として基準作となる。三鈷柄剣の彫物は、刀身部分を透かし、三鈷柄部分を陽刻とする。
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41 前田道子資料  寄贈者の母方の伯母で、馬出小学校などで教諭をつとめた大野ハル氏(1897~?)が収集した浮世絵。幕末明治期に摺られた3枚続きの大判錦絵13作品(計39枚)が巻子装にされ、全長10mに迫る貼交長巻に仕立てられている。
 この巻子装は簡略なもので、裏打ちにハル氏の家族が尋常小学校で制作した書初めの反故紙などが用いられており、近代の個人による浮世絵鑑賞およびコレクション方法を如実に示す一例といえる。また貼り交ぜられた作品はほとんどが歌川国芳一門による武者絵であり、歴史小説を好んだハル氏の母親(寄贈者の祖母)の嗜好が反映された可能性や、ハル氏が授業などで生徒に供覧した可能性が考えられる。大正~昭和時代における浮世絵受容のあり方を示す、好資料である。
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42 安松奈津子資料(追加分)  平成21、26、29年度寄贈資料の追加分。
 本資料は和裁用に生地を裁断、縫製やアイロン掛けなどにも使用される6つ折りのヘラ台。その上に生地を載せ、裁断・縫製したり、ヘラで引き伸ばしたり、アイロンがけなどを行うもの。表面には実際に使用した痕跡が残り、裏面には尺貫法とメートル法の対照一覧表や生地の裁ち方を図解した4枚の用紙が貼られている。
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43 八尋シノブ資料(追加分)  平成27、29年度寄贈資料の追加分。八尋氏は近世では、早良郡片江村(現 城南区)で庄屋を勤めていたとされる。今回の寄贈は、明治12(1879)年に八尋茂三が購入した、蓋つき方位磁石。内部は十二支で方位が示され、蓋裏に「八尋茂三用」「代銭10銭」、裏に「3寸」などと墨書の記入がある。同時期までに福岡の廻船など同様の方位磁石が使われており、それらと技術的・商品的な比較のできる資料として貴重である。 1 1

【寄託】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 桑原益男資料  かつて筑前四代画家の一人に数えられた桑原鳳井(1793~1841)の子孫宅に伝来した書画35件36点。うち33件は桑原鳳井の作品で、その多くに「桑原鳳井顕彰会」および同会員・小野茂明による箱書きを伴う。同会には小野茂明をはじめ萱島秀峰、古賀井卿など、福岡の著名な画家や書家が名を連ねており、昭和前半期における鳳井顕彰の動きを物語る資料群として注目に値する。また鳳井作品の中には、亀井南冥の次男・雲来によって着賛された小品もあり、鳳井の人的交流が窺い知れる。 35 36
2 平井嘉樹資料  平井氏は戦国期まで美作国に居住していた武士で、その後筑前に移って福岡藩初代藩主黒田長政に300石で抱えられた。その後一族から帰農した家が粕屋郡篠栗に居をかまえたが、鉄砲による猟に優れていたため、4代藩主綱政の宝永年間に再度召し出され、篠栗に在宅のまま藩主の猟に関する世話をおこなう職務についた。以後は近世後期までに御山目付、御開奉行、郡目付などもあわせて歴任している。資料は一族の系譜のほか、綱政自身の手になる絵画の図巻があり、平井氏にとくに下賜されたもの。また平井家の主な職務であった藩主の猟とのつながりをしめす火縄銃も伝来している。 13 15
3 宗教法人小烏神社資料  小烏神社は福岡市内の警固の丘陵に鎮座した八咫烏を祀る神社で、江戸期以前には海よりの福崎(現 福岡城一帯)にあり「小烏大明神」として信仰を集めていた。黒田長政の福岡城築城により慶長6(1601)年、現在の地に移された。近代以降は明治5(1872)年に村社に指定され、戦後に小烏神社となった。
 本資料は、朱塗り板に金泥で「小烏大明神」と書かれた扁額1枚で、裏には寄進者名および元禄15(1702)年9月19日の寄進日が墨書されるなど、来歴が明らかなもので、同社の歴史や地域の信仰を語るうえで貴重な資料である。
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【購入】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 博多箔屋町白銀師柴田藤吉資料  博多の箔屋町(近世は箔屋番、現 博多区店屋町)に居住し、刀装具などの細工をおこなう白銀師であった柴田藤吉が残した、幕末から明治中期の手控・覚類。
 柴田藤吉は安政3(1856)年から、福岡藩11代藩主黒田長溥の命で派遣された長崎伝習者の中に加えられ、出島で冶金・化学・薬学などを学んだ。資料の中心はそれらの伝習内容を記録した手控類で、その原本になった安政期の覚・日記なども含まれる。さらに明治18(1885)年頃の覚書類もあり、九州の地理案内や交通情報、旧幕府時代の金銀貨幣と新政府発行の金銀貨の交換情報など、明治初年~20年代前までの社会・経済的な各種の情報を含む。
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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
※2024年7月26日~8月25日の金・土・日・祝日と8月12日~15日は20時まで開館(入館は19時30分まで)
休館日
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(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで

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