令和2(2020)年度収集 収蔵品目録 38
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 博多絞製造有限会社資料 | 本資料群は、寄贈者の父・白部秀雄氏が営んだ博多絞製造有限会社(中央区大濠)の関連資料で、博多絞の製品のみならず、絞り台や型紙等の生産用具、製作技術や程がわかる製品サンプル等からなる。 博多絞は戦時下に生産続行が不可能になり廃業を余儀なくされたが、昭和27(1952)年に秀雄氏の叔父・生野房吉氏が博多絞を再興するため「生野商店(昭和33年に博多絞製造有限会社)」を設立。秀雄氏は叔父に請われて入店し、昭和35年に当有限会社の代表取締役社長に就任。昭和54年に「博多しぼり」が福岡県から特産工芸品として指定を受け、秀雄氏は昭和61年に伝統的工芸品産業振興会より「伝統的工芸品産業功労者」として表彰を受ける。 平成8(1996)年に会社をたたみ、「白部博多絞製造」として自営の道に進み、亡くなる平成15年まで博多祇園山笠に欠かせない総務・振興会役員手拭などの製作を続けた。 |
940 | 1186 |
2 | 亀田和子資料(追加分) | 平成28年度寄贈資料(明治時代~昭和時代の建築図面)の追加分。今年度分は、寄贈者宅に伝来した書籍、文書、印刷物(千社札、錦絵)、絵画、大工道具などからなる。 亀田家10代目当主吉郎平(満秀)は、大工として香椎宮(東区香椎)や志賀海神社(東区志賀島)の建築に携わった後、明治11(1878)年から16年まで福岡県庁土木課の製図係として県内寺社の調査を行った。その後は、和洋建築の寸法や意匠に関する書籍を刊行する一方で、製図方法を教授する学会を設立して技術の普及を行った。 本資料群中の書籍は、亀田吉郎平が製作したものと、書籍を作成するにあたり参考とした建築・意匠・絵画関連書籍がある。大工道具は、彫刻刀や定規の他、意匠製作の参考用の木彫を含む。印刷物には、交換札と呼ばれる江戸趣味を持つ人の間で交換用に作成された色刷の千社札を多く含む。 |
569 | 628 |
3 | Douglas J.Price資料 | 寄贈者が古物商から入手した昭和時代戦後の写真。 写真は主として米空軍第38爆撃航空群所属のLT. W.H.Kruegerによって撮影された。同部隊は昭和20(1945)年11月に板付基地に配属されており、同氏は同部隊の写真班に所属していたと思われる。写真の多くは裏面に解説が記されており、おおよその撮影状況を把握することができる。 写真は昭和20年12月から22年2月にかけて撮影されている。撮影場所は福岡県内、特に福岡市周辺が多い。撮影場所が判明したものの中では、第38爆撃航空群が駐在した板付基地、天神地区、櫛田神社周辺の博多地区、進駐軍に接収された九州飛行機の工場があった雑餉隈地区などが多い。これらの場所に関しては、空撮写真も含まれる。 |
417 | 417 |
4 | 十二社神社資料 | 本資料群は、早良区脇山・谷口地区でかつて行われていた谷口神楽に関する資料からなる。資料は同地区の十二社神社に保管されていた面や衣装、模造刀、錫、笛、太鼓等である。同神楽は昭和42~43(1967~68)年頃まで行われていたが、継承者不足のため現在は途絶えてしまった。 早良区飯場では現在も類似した飯場神楽が行われており、復興する際に谷口神楽を参考にしたといわれている。飯場神楽は、明治25(1892)年に高祖神楽(糸島市)を参考に始まったとされ、昭和50年代には後継者不足などもあり中断していたが、平成10(1998)年に飯場の神楽道具が福岡市の有形民俗文化財に指定され、平成16年に復興された。 |
327 | 417 |
5 | 武内公麿資料 | 武内家は香椎宮(東区香椎)の旧社家で、香椎四戸党の一家大膳紀宿祢の子孫とされ、代々が同宮の大宮司を勤めた。内容は近世文書、書籍、文芸作品、絵画類など多岐にわたる。 近世文書は、福岡市立歴史資料館が調査したもので、系図類の他、近世中期~幕末期の叙任位記や裁許状、香椎宮で施行される様々な神事、流行病・疫病、虫追いや祈祷・まじないに関する覚、記録、長崎警備の航海安全や香椎宮奉幣使など福岡藩関係のものがある。 書籍類は江戸時代刊行の『日本書記』、『古事記』の注釈書、『八幡本宮記』など香椎宮由緒にかかわるものがあり、武内氏の書き込みなどが見られ、独自の研究や検証のあとが見られる。また江戸時代の旅行記や読み物、歌舞伎本なども含まれる。近代以降は教科書類のほか、東京で神道を学んだ際のテキスト類が中心。文芸作品は各時代の当主やその周辺の人々の和歌、漢詩などサークル的な作品で、ほかに近代に東京遊学中収集したと推定される江戸情緒的な浮世絵、役者絵、錦絵類も含まれる。 |
250 | 388 |
6 | 鳥越雅美資料(追加分) | 平成25年度寄贈資料の追加分。寄贈者の実家で、近世から近代に福岡で砂糖・油類を扱っていた商家園田家に残された資料。絵画、書跡と生活の資料がある。 絵画、書跡は、二川相近、吉留杏村、斎藤秋圃など江戸時代後期の福岡藩の文化人の作品貼り交ぜ屏風や、吉嗣鼓山・平野五岳の竹梅図屏風などがある。 生活の資料は、園田家で使われた衣類や風呂敷のほか、母の生家・原田家(祖父は博多人形師・原田嘉平)から寄贈者へ送られた節句の雛人形がある。原田家ゆかりの品として寄贈者叔父の博多祇園山笠の法被(土居流・大乗寺前町)も含まれる。 |
138 | 161 |
7 | 森山ヨネ資料 | 寄贈者の大叔母・森山ヨネ(1891~1990)に関する卒業証書、辞令、履歴書、写真、書簡、書籍などからなる資料群。 森山ヨネは明治24(1891)年久留米市に生まれた。大名尋常小学校、福岡高等小学校、福岡高等女学校を経て、大正2(1913)年に奈良女子高等師範学校を卒業した。その後は、鹿児島県、奈良県、福岡県の女学校、師範学校などで教鞭をとり、昭和2(1927)年から3年間アメリカ・コロンビア大学に留学し、学位を取得した。帰国後は福岡県女子専門学校教授となった。昭和21年4月、日本進歩党から第22回衆議院議員総選挙に出馬し、福岡県第1区でトップ当選した。 本資料群中には、教育関係資料として大名尋常小学校および奈良女子高等師範学校の卒業証書、各地の学校での辞令などがある。また、衆議院議員関係として、当選証書や議員バッジ、昭和21年の日本国憲法公布記念式典の写真、教育刷新委員会に関する感謝状などを含む。 |
119 | 123 |
8 | 武田虎雄資料(追加分) | 平成30年度寄贈資料の追加分。寄贈者の祖父・武田虎雄氏(1886年生まれ)が営んだ博多絞の製造販売「武田虎雄商店」および武田家に関連する資料群。 武田家は武田伊兵衛(1662年没)を祖とし、現在の呉服町(博多区)付近で蝋の問屋を営んでいた。明治になって12代伊三郎の早世により衰え、その子・虎雄は絞り染め店で修業を積み、明治45(1912)年に独立し、寿通(現博多区下川端町)に店を構えた。戦時下の昭和19(1944)年に生産続行が不可能になり廃業。戦後、昭和28年に高宮(南区)で事業を再開したものの、工場の再開には至らず、絞り染めの卸売りのみとなった。昭和37年に閉店。 |
109 | 362 |
9 | 豊倉俊行資料 | 寄贈者の父・辰雄氏(1920~2004)が所持した写真、軍事郵便などと、寄贈者自身が撮影した写真などからなる資料群。 豊倉辰雄氏は鹿児島県鹿児島市喜入町に生まれ、谷山青年学校卒業後、国有鉄道(鹿児島本線)の鉄道公安課に勤務した。昭和16(1941)年に応召、中支方面で現地入隊した。19年には広島暁船舶部隊に転属され、下士官教育を受けた後に南方に派遣された。昭和21年本土に復員し、定年まで鹿児島市内周辺で鉄道保安官をつとめた。 辰雄氏が所持した写真は、所属部隊の上官および同僚、都市部の風景などを撮影したもの。この他、転属のため本土に帰還した際に父親にあてた葉書や、中国大陸で販売された煙草のパッケージが含まれる。寄贈者が撮影した写真は、昭和時代末期の西区に関するもの。 |
96 | 96 |
10 | 幸田成孝資料 | 福岡藩士幸田家に伝来した古文書および文芸関係資料。幸田家は、赤松氏支流で播磨国飾東郡駒山村(現 兵庫県姫路市)に住したと伝える駒山次郎兵衛が初代藩主黒田長政に召し出され、志摩郡青木村内(現 西区今宿)に石高250石の知行地を与えられたのを始まりとする。 次郎兵衛の跡を継いだ駒山次郎兵衛利次が一旦筑前国を離れたが、利次の嫡男である駒山弥三兵衛利久が2代藩主黒田忠之の時代に再び召し出されて13石4人扶持を与えられた。以降、幸田姓を名乗り歴代の当主は無足組の藩士として目付役などの役職を勤めた。 資料群は、幕末期から近代にかけての文書類と文芸関係の書籍類に大別される。前者には幕末期の当主・幸田弥右衛門良能が、慶応4/明治元(1986)年の戊辰戦争において関東に出陣した際の日記や、明治6年に良能の家督を継いだ幸田堰が明治初年期に関わった、筑後川から博多へ堀川建設する計画に関する文書などが含まれる。後者には、江戸時代の清元や長唄の稽古本、明治~昭和初年の当主・幸田良介も関わった筑紫国風社に関係する和歌集などがある。 |
72 | 75 |
11 | 牟田節子資料(追加分) | 令和元年度寄贈資料の追加分。今年度は、寄贈者宅に伝来した写真、寄贈者が撮影した写真、寄贈者が学生時代に使用した九州女子中学校のバッジ、寄贈者が収集した郵便うちわなど。 今年度寄贈分の写真は、昭和20年代後半から30年代にかけての寄贈者一家を撮影したものと、平成時代に寄贈者が撮影した博多駅と特急「はやぶさ」に関するものがある。前者は保育園、小学校の行事や、家族と市内で遊ぶ様子を含む。家族写真に関しては、カメラを趣味としていた寄贈者の父が撮影したものと思われる。 |
71 | 73 |
12 | 平田将成資料(追加分) | 平成30年度寄贈資料の追加分。今回寄贈を受けたのは家に伝わった江戸~明治時代の書籍、古銭・貨幣類・昭和時代の軍票、刀剣など。いずれも寄贈者の父親の代から収集を始めたものとされる。 内容は、書籍では、真宗関係の仏教書と儒学書、江戸時代後期の浄瑠璃本が中心である。古銭・貨幣では、江戸時代の銅銭や中国渡来銭、明治~昭和時代前期の1~50銭の少額貨幣が見られる。また軍票は「日華事変軍票」である。 |
44 | 162 |
13 | 西島慎之介資料 | 寄贈者の祖父が収集した貨幣。明治時代から昭和時代に日本政府が発行した貨幣を多く含む。また、中国銭である洪武通宝、康熙通宝、嘉慶通宝の他、江戸幕府が発行した寛永通宝、文久永宝などの古銭を含む。 近代日本では、江戸時代を継承して錯綜していた貨幣制度を一新するため明治4(1871)年に新貨条例が制定された。同30年には貨幣法を施行し、金本位制度を採用した。正貨は金、少額の補助貨幣は銀、銅(青銅)を用いたが、後に白銅や黄銅、ニッケルも使用された。昭和13(1938)年、前年に勃発した日中戦争への対応のため臨時通貨法を公布すると、補助貨幣にアルミニウムや錫合金を採用した。 本資料群中には、新貨条例下で発行された2銭、1銭、半銭銅貨、大正9(1920)年に銀貨から変更された10銭白銅貨、昭和戦時中の10銭アルミ貨、1銭錫貨などがある。また、大阪造幣局で鋳造された大韓帝国の1銭銅貨も含まれる。 |
35 | 75 |
14 | Charnvit Kasetsiri 資料 | 寄贈者は、アユタヤ史やタイ近現代史に大きな業績がある歴史学者で、長年にわたって研究成果の普及や社会への還元に努めてきた。第23回福岡アジア文化賞の受賞を契機に来日した際、博多遺跡群出土のタイ産陶磁器が自身の所蔵資料と類似することを知り、寄贈に至ったもの。 寄贈資料は、スコータイ窯出土の白釉鉄絵皿のほか、シーサッチャナライ窯出土の壺や小壺・合子などの小物類など、博多遺跡群において出土するタイ産陶磁器との比較研究等に役立つ価値の高いものである。また、弥生時代併行期の東南アジアを代表するバンチェン遺跡出土の彩文土器等も含む。 |
33 | 33 |
15 | 植木陽一郎・澄香資料 | 本資料群は、宮参りや百日の祝い、七五三などで身に着けた衣類などからなる。 陽一郎氏は昭和8(1933)年に岡山県で生まれ、親の仕事の関係で東京、広島、福岡(昭和15年)に転居。資料は、陽一郎氏と子・一幸氏が二世代にわたって使用した宮参り、百日の祝いなどの着物や写真等である。 澄香氏は昭和12年に宮崎県で生まれた。澄香氏の母が福岡県在住だったため、福岡県吉井町(現 うきは市)と宮崎県でそれぞれ宮参りを行った。資料には、その際に着用した着物も含まれる。 |
31 | 31 |
16 | 安陪光正資料(追加分) | 令和元年度寄贈資料の追加分。 近世の安陪氏は、福岡藩筆頭家老三奈木黒田氏に仕え、最終的には150石を受けていた。今回の寄贈は、江戸時代前~後期に三奈木黒田氏から与えられた知行宛行状、知行高帳が中心である。このほか貼継がれた江戸時代後期の当主安陪久右衛門あての黒田一誠書状が含まれ、久右衛門母であった乳母と三奈木家当主の絆や、家老家の奥方管理の様子がうかがえる。光正氏は医業の傍ら、三奈木黒田家や三奈木村についての郷土研究の著作があり、これらの文書類はその素材に使われている。 |
19 | 24 |
17 | 中村滝雄資料 | 福岡県伝統工芸品の一つである博多鋏の製作工程見本。博多鋏は、南宋から中世博多に伝えられたものがルーツとされている。幕末に鍛冶屋の安河内宇助が現在に近い形に仕上げ、宇助の弟子だった髙栁亀吉が商標登録「宇印」を継ぎ、明治25(1892)年には博多鋏の名称が用いられるようになった。刃に鋼を付ける技術が特徴で、刀鍛冶の技術との関連がうかがえる。 博多鋏の製作技術は、平成29(2017)年3月3日、「国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されたが、唯一の技術保持者であった髙栁晴一が令和2(2020)年11月に他界している。本資料は、富山大学芸術学部教授である寄贈者が、金属造形に関わる研究の中で、平成17年、髙栁晴一氏に博多鋏の工程見本製作を依頼してつくられたもの。 |
17 | 42 |
18 | 湊敏郎資料 | 九州大学で国史を学んだ寄贈者が約50年前の学生時代に採集した考古資料を中心とした資料群。 資料のうち、平安時代のものとみられる銅鋺2点は九州大学箱崎キャンパス工学部(東区)の工事現場において入れ子状に重なった状態で採集されたもので、錫を多く含むいわゆる佐波理(響銅)である。そのほか、大野城跡で採集された炭化米、福岡市内や太宰府周辺などで採集された瓦や土器、および太宰府周辺の史跡等を撮影した写真などがある。 |
16 | 296 |
19 | 中西眞由子資料(追加分) | 平成24、27、28年度寄贈資料の追加分。本資料は寄贈者の母が使用していた着物や風呂敷、名古屋帯。 寄贈者の生家は博多旧片土居町(現 博多区上川端町)にあった博多織元中西家の分家にあたり、着物や風呂敷は同家と取引のあったとみられる博多絞製造有限会社(中央区大濠)のもの。着物は寄贈者の母が購入した反物を仕立て屋に依頼し作成したもので、村雲絞りや鹿の子絞りなどの技法が施されている。名古屋帯は母の箪笥に保管されていたもの。 |
11 | 11 |
20 | 安松奈津子資料(追加分) | 平成21、26、29、令和元年度寄贈資料の追加分。博多旧片土居町(現 博多区上川端町)にあった博多織元中西家関連の資料。 中西家は中西久吉が天保11(1840)年に博多織元富屋の徒弟となって博多織業に関わり始めたとされる。久吉の三男金次郎(初代)は明治24(1891)年に中西博多織工場の跡を継ぎ、各地の織物技術を取り入れながら多くの技術開発を行った。 本資料群は、中西金次郎家に生まれた中西金作が発明した電気紋織技術に関する記録写真や会社パンフレット、その他に寄贈者が仕立てた着物、母が使用していた絞り染めの布地を仕立て直した帯、姉が使用していた夏用の着物などの生活の用具等からなる。 中には、大正11(1922)年博多祇園山笠4番山笠土居流飾り山の写真が含まれ、中西金次郎が作成した高旗(当館蔵)が写っている。 |
10 | 10 |
21 | 結城九州男資料 | 本資料は、毎年7月29日に大山積神社(西区金武の乙石地区)で行われる「ワゴシノマツリ」で使われる茅の輪を分割したもの。令和2(2020)年7月29日の行事に向けて作成。 この行事は、まず茅や藁ではなく真菰で作った「茅の輪」を設置し、それをくぐることによって穢れを落とす。 その後、神事を執り行った後、茅の輪を切り分け、お札や幣束、注連縄などを取り付ける。そして、氏子宅の門前と集落の東西南北の入口四か所に据え付けることで、魔除けとする。 |
8 | 12 |
22 | 川島秀子資料 | 寄贈者の夫・川島虎雄氏が所持していた、学徒出陣で出征した兵士の書画および昭和天皇の写真。 川島氏は、大正15(1926)年、台湾生まれ。台北高等学校を経て、昭和20(1945)年、東京帝国大学(東洋史専攻)に進学。戦後は、GHQ関係の仕事や経営コンサルタント業などに従事した。 本資料群は、「特攻隊員筆跡」と墨書された封筒に一括された書および墨画で、昭和20年1月から6月にかけて作成された。それぞれ作成者の名もしくは姓が記される。川島虎雄氏が東京帝国大学入学以降に、台北高等学校周辺の人間関係の中から入手したものとみられる。 |
8 | 9 |
23 | 山王宮日吉神社資料 | 博多区比恵町の山王宮日吉神社の夏越祭で使用された人形(ヒトガタ)、茅の輪、ポスター、切麻からなる。同社では、毎年7月31日に夏越祭として、氏子(比恵町、山王、東比恵駅前の一部)が茅で製作した茅の輪を境内に設置し、祭壇を設け、祭典を行っている。拝殿および社務所にて人形の紙が配布されており、願い事を記した人形は、大祭当日に集められ後日火にくべられる。また、茅の輪の脇には、刈られた茅が置かれており、参拝した氏子が持ち帰る姿が見られる。これは各自で一年間の魔除けとする小さな茅の輪をつくるためのもので、つくられた茅の輪は玄関や神棚に飾られる。 | 6 | 7 |
24 | 飯盛神社資料 | 本行事は、同社の古い年中行事の一つで、同社伝来の古文書(元亀4・1573年)にも記述が見られるほか、天保9(1838)年の伝書も残されている。例年は、神社前の参道にて行われ、数代にわたり射手を務めている家筋の3名が白扇をつけた網代的、及び白木の的をそれぞれ射抜くものである。令和2(2020)年は、新型コロナウイルス感染症の影響で、三密を避けるために馬を疾走させての騎射は行わず、境内にて木馬から矢を放つ「騎馬木馬の型」での流鏑馬奉納が行われた。「コロナ感染症鎮静祈願」として網代的のほかに、表に新型コロナウイルスをイメージしたイラスト、裏に「鬼」の文字をあしらった3種類の的が準備された。 | 5 | 5 |
25 | 森弘子資料 | 博多区上川端町の櫛田神社の例祭「博多祇園山笠」の期間中に境内等で販売される、博多の菓子店石村萬盛堂「祇園饅頭」の包み紙。祇園饅頭は、京都祇園祭の際に頒布される「厄除けちまき」に発想を得てつくられたとされる。同店では30年ほど前、櫛田神社から神紋の使用を許可されて饅頭を作っていた川端の饅頭店が製造をやめた際、権利を得て、販売をはじめたといわれている。現在は同店のほか、松屋菓子舗、鈴懸の計3店舗のものが縁起菓子として櫛田神社から公式に認められている。令和2~3年は新型コロナウイルス感染症の影響で延期になった博多祇園山笠であるが、疫病退散の願いを込めて、「番外」というかたちで同店および鈴懸が期間限定で祇園饅頭を販売している。 本資料は、番外祇園饅頭の包紙で、デザインは、唯一飾り山を建てた櫛田神社の山笠飾りの下絵。作者は、博多人形師・中村信喬、中村弘峰。 |
3 | 9 |
26 | 今宿上町天満宮資料 | 西区今宿上町天満宮の夏季大祭「オシオイトリ」で使用された灯籠絵。昭和35(1960)年頃まで使われていたと伝わる。大祭の前夜(7月24日)、天満宮前の通りに、上町町内の4つの組のうち1・3・4の組によって1基(2枚1組)ずつ、計3カ所設置されていた。2の組は提灯を飾っていたといわれている。 本資料は、6枚の灯籠絵の内の3枚である。その内の2枚の裏に、補修のために別の灯籠絵を用いた跡がみられる。作者は白水耕雲。博多の絵馬師・吉村百耕の弟子で、旧大学通り(現 博多区千代町)で白水絵馬店を営んでいた。 |
3 | 3 |
27 | 川上幸衛資料 | 寄贈者の母方に伝来した、江戸時代の法螺貝の流派であった清正流の秘伝書、および無我流捕手術の目録など。 清正流秘伝書は、法螺貝の各部分を指示した精密な絵図のほか、吹口の操作や吹き方を示すと思われる図が多数載せられる。また流派を伝えた喜多村武蔵は、福岡藩安政分限帳で10石3人扶持の無足組に属し、陣貝を家業としていた。福岡藩の法螺貝の流派の秘伝書として、ほぼ初めて現存が明らかになったもので貴重である。 なお無我流捕手術目録は文政3(1820)年に渋谷又兵衛が、城戸忠助に伝えたもの。 |
3 | 3 |
28 | 村上妙祥資料 | 資料は江戸時代の博多の遊郭であった柳町の大門の鍵として伝来した、鍵・錠前一式と、供養のため造られた箱。近世から近代初期にかけ、遊郭のおかれた博多柳町の正門は、大門と称され遊女管理のため開閉は厳重であったとされる。 本資料はその大門の鍵として伝わり、現代になり供養のために善光寺(香川県善通寺市)に納められ同寺のものとなった。鍵・錠前はいずれも長さが20㎝、幅も15㎝以上あり、重量は総計で5㎏近くある。本来の威圧的な形状が十分うかがえる。 |
3 | 3 |
29 | 牛尾昌義資料 | 本資料は、毎年7月29日に大山積神社(西区金武の乙石地区)で行われる「ワゴシノマツリ」で使われる茅の輪を分割したもの。令和元(2019)年7月29日から翌年まで寄贈者宅の門前に添えつけられていた。 この行事は、まず茅や藁ではなく真菰で作った「茅の輪」を設置し、それをくぐることによって穢れを落とす。その後、神事を執り行った後、茅の輪を切り分け、お札や幣束、注連縄などを取り付ける。そして、氏子宅の門前と集落の東西南北の入口4か所に据え付けることで、魔除けとする。 |
2 | 2 |
30 | 大坪幹人資料 | 寄贈者の亡夫・大坪幹人氏が収集した刀剣2口。 幹人氏は、会社勤務の傍ら、居合を始め、日本居合道連盟の錬士6段となる。刀無銘伝備前大宮は、60歳の退職記念として、刀剣商より購入したもの。 |
2 | 2 |
31 | 袈裟丸良子資料 | 本資料は寄贈者の母・良子(1935生まれ)が使用していたヘラ台と書籍『和服裁縫』。良子は西区周船寺に生まれ、嫁入りや引っ越しを契機に博多区御供所町、嘉穂郡稲築町、早良区次郎丸へと移り住む。その際に、本資料を必ず持って行き、嫁入りの際に購入した箪笥の中に保管していたという。 ヘラ台は昭和40年代頃にアイロン掛けを行っていたという。裏には着物の背に魔除けを意味する「背守り」の縫い方見本が付いている。また、着物を縫うことも多かったようで、書籍『和服裁縫』を参考にしていたと推測できる。 |
2 | 2 |
32 | 二川秀臣資料 | 福岡藩の御料理人頭を勤めた二川家に伝来した料理書と肖像画。 美濃国出身の二川五郎右衛門を初代とする二川家は、福岡藩初代藩主黒田長政の時代に黒田家に仕官し、歴代の当主は御料理人頭(文化分限帳:家業・知行高280石)として仕えた。江戸時代後期、福岡藩の書家・歌人として著名な二川相近(1767~1836)は分家(文化分限帳:家業・切扶高14石4人扶持)にあたる。 「料理并仕置物万覚書全」は様々な料理や菓子の材料や調理法などを書き上げたもの。巻末の記載から二川家と同じく福岡藩の御料理人頭を務めた西川家の当主が写したものと分かる。 肖像画は、画面左下に「寛政六年甲寅五月二十四日五世孫相近謹写」と落款があることから二川相近が描いたもので、像主は初代・二川五郎右衛門と考えられる。 |
2 | 2 |
33 | 久野隆志資料 | 婚礼儀礼のひとつである結納の際に使用された結納品。宮若市出身の寄贈者が、平成16(2004)年の結納の際に、中央区赤坂にある上野屋赤坂本店で買い求め、妻の生家・池田家(春日市)に納めたもの。結納品は、目録、熨斗、小袖料、寿栄広、松魚料、結美和、友白髪、二見ケ浦(子生婦・寿留女)、家内喜多留、御知家、高砂人形の11品からなる。 福岡の結納品は「お茶」「結納茶」ともよばれ、結納品にお茶(御知家)が含まれるのが特徴。茶は、壺茶型(おもに福岡地方)や筒茶型(おもに筑後地方)など地方により違いがみられる。 |
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34 | 小呂島町内会資料 | 西区小呂島で7月15日に行われる小呂島祇園山笠の飾り山笠の飾り。上部には「ノボリ」、「サカナ(ブリ・タイ)」、船名を書いた紙製指物、側面に「キュウリ(祇園神紋)」、「ボタン」、「モミジ」「タバコ」、「エマ」、「コブ」、「ナミ」、「ヤ」、上部から下部に大きく下がる「サガリバナ」などからなる。飾りは、島に自生する植物(エノキやツバキ)などを用い、造花はプラスチック(かつては紙)で製作している。自生していない竹や藁は西浦などから調達している。「サガリバナ」と「ヤ」は、祭礼後各戸に配布され、玄関(サガリバナ)と床の間(ヤ)に魔除けとして一年間飾られる。小呂島の祇園山笠行事は、令和元(2019)年に市の無形民俗文化財に指定された。 | 1 | 7 |
35 | 畑田由布子資料 | 諺「見ざる・言わざる・聞かざる」をあらわした猿の根付。柘植とみられる材から3躯を彫り出し、うち1躯(「言わざる」)には2箇、ほか2躯には1箇の孔が開けられており、紐で数珠状に連ねて用いたと思われる。銘記はないが、猿の毛並みをあらわす細やかな彫技や飄逸な猿の姿などから、本格的な根付師の手になると思われる。寄贈者の曽祖父は博多織の家元である中西金次郎(初代)で、その妻エイ(1874~1958)は博多上市小路で仏師業を営んだ城戸家から嫁入りしている。エイの兄は幕末~明治期に活動し、多くの後継者を育てた仏師・根付師の城戸仁平であり、本資料も仁平の手になる可能性がある。 | 1 | 3 |
36 | 髙橋郁資料(追加分) | 寄贈者が収集した近世絵画で、今年度は平成30年度寄贈資料の追加分。 本資料は、福岡藩御用絵師であった狩野昌運(1637~1702)筆の「深山古松図・月に薄図」。各幅とも寂びた風情の淡彩画に和歌を添える。賛者は不明だが、選ばれた和歌は『太平記』の中で帥宮(のちの後醍醐天皇)が詠んだ恋歌と『新勅撰和歌集』所載の藤原定家の秋の歌である。昌運の遺作で和歌賛を伴うものは珍しく、確認できるわずかな例も藩主との合作をはじめとする公的な画事ばかりであることから、本図は貴重な作例といえる。 |
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37 | 郡田純一資料 | 幕末福岡藩の尊王攘夷派で急進派とされた月形洗蔵の作「俲正気歌併序」の写本。旧福岡藩士で企業家・安川敬一郎所蔵の原本を、大正時代に写したものと伝わる。 「正気歌」は、中国・南宋末の文天祥(文山)が、元軍に大都に連行された際に作った憂国の詩。洗蔵は、その「正気歌」に倣って長編の詩を獄中で作ったとされる。月形家は祖父以来の漢学者の家系で、洗蔵も詩文に優れていた。また洗蔵の師・吉留杏村は、文天祥の生涯も記された浅見炯齊「靖献遺言」に心酔し吹聴するなど、筑前勤王派と漢学、漢詩の関連がうかがえる。 |
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38 | すの一町総代資料 | 本資料は、博多区住吉の古着屋に保管されていた博多祇園山笠で使用される大黒流・旧上鰯町(現 須崎町1区)の当番法被。古着屋に持ち込まれた経緯は不明。古着屋の店主が町総代であった寄贈者に連絡し、寄贈者の手に渡ったもの。 昭和41(1966)年2月に住居表示(町界町名整理)実施で上鰯町は須崎町1区になったため、本資料はそれ以前に使用されていたものと推測できる。 |
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39 | 津上禮三資料(追加分) | 平成3年度寄贈資料の追加分。本資料は、寄贈者宅で使用されていた家庭向け電気炊飯器。炊飯容量は1L(5.5合)。 電力によって炊飯する電気炊飯器は、東京芝浦電気株式会社(現東芝)から昭和30(1955)年に発売された。翌年には松下電器産業株式会社(現 パナソニック)も製品化に成功した。1960年代後半には保温機能を持つ電気炊飯器が開発・発売された。1990年代には小型コンピュータを搭載し、電子制御で炊き加減の調節などが可能となった。現在は、内釜に金属以外を用いて、遠赤外線の効果によって炊飯する高級機種が登場している。 本資料は、松下電器産業株式会社が昭和40年代から50年代にかけて製造・販売した電気炊飯器である。正面にダイヤル式のタイマーを設ける。炊飯だけでなく、保温機能も有する。 |
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40 | 三苫亨資料 | 本資料は博多七輪と呼ばれる18~19世紀頃の土師質土器とみられる。博多七輪とは、江戸時代後半以降に旧瓦町などで生産された「博多素焼」の中心的な製品のひとつで、明治時代には福岡の物名(名物)陶器に数えられた。約50年前に西区西浦沖、机島近くの海底で採集された資料で、表面に多くの貝が付着している。欠けがない完品である。漁船や廻船での調理や暖房器具として使用されたものである可能性があり、博多七輪の様々な用途や流通範囲を示す資料である。 | 1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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清岩寺資料 | 平成29年度寄託資料の追加分。清岩寺は福岡藩筆頭家老三奈木黒田氏の菩提寺で,今回の寄託は、近世初期より伝来した三奈木黒田家と関係する古文書や文芸作品等、寛永~明治時代中期の供養のための日捲帳、郷土史家安陪光正氏に関わる資料からなる。 中心となるのは文芸作品で、黒田家当主から同寺の住職に送られたもので、元禄期の当主で漢文に優れたとされる一貫の実作品や、6代黒田一誠が同寺ゆかりの風景を詠んだ和歌など。古文書類は初代黒田一成、2代一任の宛行状である。また三奈木黒田家の家臣連名の証文類からは、当主菩提寺の運営状況がうかがえる。 |
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【購入】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 越知家文書 | 福岡藩士越知家は幕末に19石4人扶持、谷六軒屋に住んでいた。越知氏は伊予河野氏の末流で、藩士大野家から養子に入って3代光之の時代に召し抱えられ、以下数家の分家が出ている。六軒屋家の初代次右衛門は事務方を勤めその実績が認められ、6代継高の時代に二代与左衛門が新規召し抱えとなった。資料では、近世中期の先祖の系図、明細書、相続一件書類、切米・扶持米関係文書などが揃っている。越知氏の藩職務上での具体な記録などはないが、業績に対し藩の褒賞金を下賜された一件がまとまる。それに関連して御笠郡に壱作地や建山を拝領した記録が、ほぼ抜けなくそのまま保存されている。福岡近郊に土地を収得し櫨栽培もおこない、また預山も持つなど、下級藩士の珍しい多角的な経営がうかがえる。 | 245 | 248 |
2 | 第13回九州沖縄八県連合共進会写真 | 明治43(1910)年3月に撮影された第13回九州沖縄八県連合共進会の会場およびその他福岡市内建築物の写真。撮影者の伊藤長兵衛商店は、近世期から近江国犬上郡八目村(現 滋賀県犬上郡豊郷町)で農業と兼業して呉服太物商を営んでおり、幕末には西日本に販路を拡大した。博多店は明治5年、博多下川端町に開店する。明治12年には掛町、同39年には行ノ町に移転した。大正10(1921)年には伊藤忠商店と合併し、丸紅商店(現 丸紅)となる。 九州沖縄八県連合共進会は、九州・沖縄の八県が持ち回りで開催する各地の農産物・工業製品等の物産の展示会で、第1回は明治15年に長崎県で行われた。福岡県は第5回(明治20年)、第13回(明治43年)の2度開催地となった。第13回は、3月11日から5月9日にかけて福岡市因幡町の佐賀堀埋立地(現 中央区天神)で開催された。 本資料には、共進会の全景写真のほか、共進会正門、本館、第2館、呉服商組合展望閣、音楽堂、演舞館を撮影したものがある。これらの写真は、現場作業員が写っていることから共進会開催前の記録写真であると考えられる。また、博多駅、中島橋、箱崎水族館などの市内名所の写真も含まれる。 |
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