令和3(2021)年度収集 収蔵品目録 39
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 春日得資料 | 江戸時代中期から現代まで福岡市西新町地域で商家を営んでいた春日家に伝来した近世・近代文書や写真・書籍等の歴史資料。同家は文政期の庄吉、幕末期~明治初期の弥助、明治中期~大正の熊次郎、昭和前期のぬい、と続き、関連の資料が子孫に伝えられた。 まず近世・近代文書資料は240件のうち,一紙物は、近世後期~幕末期に春日家当主が西新町村役人を勤めた際の年貢収納関係が中心で、商家関連の文書としては、八百屋弥助関連の金銭勘定や金融関係の証文類が残る。帳簿類は近世期にはほとんどなく、熊次郎の活動した明治中期からのものが多数残されている。近代資料の別置分では、明治時代から昭和時代戦後にかけての辞令・書簡などの文書、絵葉書、写真、書籍等がある。写真は明治時代から昭和時代戦後にわたる。福岡市内の写真館で撮影された人物写真や、西新小学校の生徒集合写真、西新地区の町内での防空訓練の写真などが含まれる。 |
734 | 762 |
2 | 小串シズノ資料(追加分) | 平成3年度寄贈資料の追加分。本資料群は福岡市博多区吉塚で「おきあげ」を制作していた小串シズノ氏が保管していた制作用具や型紙、製品などからなる。 おきあげは押し絵の一種で、厚紙を対象の形に切り、その上に綿をのせて厚みを作り、色鮮やかな布で包んで縫い合わせて作る。かつて手芸・裁縫の一つとして「女性の嗜み」とされていた。 小串シズノ氏は明治36年(1903)、福岡県糟屋郡大川村(現・粕屋町)の農家に3女として生まれ、尋常小学校3年生の時に母からおきあげ作りを習い始めた。小学校高等科を終えた後、福岡市社家町(現・冷泉町)の櫛田裁縫専攻学校(福岡市博多区冷泉町)に入学。3年間、校長で日本画家の祝部至善(1882~1974)におきあげ作りを学んだ。卒業後、20歳で結婚し、再び本格的におきあげ制作を始めたのは子育てを終えてからであった。その後、昭和62年(1987)には博多おきあげの技法保持者として「第13回博多町人文化勲章」が贈られた。 |
432 | 462 |
3 | 森脇憲三資料 | 作曲家森脇憲三(本名憲蔵、1916~1996)氏に関する写真、文書などからなる資料群。 森脇氏は、大正5年(1916)に広島市に生まれた。広島県立男子師範学校から東京音楽学校(現・東京芸術大学)甲種師範科に進み、昭和16年(1941)3月卒業、同年4月から福岡男子師範学校(現・福岡教育大学)で教鞭をとった。昭和55年退官。この間、西日本文化賞(昭和28年)、福岡市文化賞(昭和53年)を受賞する。全日本合唱連盟九州支部顧問、福岡文化連盟顧問をつとめた。作曲家としては、福岡県の県民体操、福岡大空襲の歌、福岡県内を中心とする多数の学校の校歌、その他数多くの曲を残した。 本資料群は、森脇が作曲した学校、施設、団体などの歌の楽譜を多く含む。この他、教員免許状などがある。 |
289 | 540 |
4 | 合屋翠雲堂資料(追加分) | 本資料群は、福岡市東区箱崎近辺で表具店・合屋翠雲堂を90年以上営む合屋家が2代にわたって収集した書画199件203点。令和元年度寄贈資料91件93点の追加分である。 収集した資料には家業を通じて培われた人脈や交遊関係が反映され、近世から近代にかけての福岡の画家や書家の作品のほか、福岡県下の僧や政治家の書画を多く含む。特に多いのは寄贈者の父にあたる合屋善吉氏がたびたび食事や遊興の面倒をみていたという嘉穂郡出身の日本画家・小野茂明(1897~1994)、そして小野の京都市立絵画専門学校の後輩にあたる佐藤晴行(1921~1980)の作品である。合屋家寄宿中に制作されたもののほか、彼らが萱島秀峰をはじめとする在福の画家や書家と合作した作品もあり、近代福岡画壇の人的交流を窺うことができる稀有な資料群といえる。 |
199 | 203 |
5 | 半田郁子資料 | 半田家は江戸時代後期に福岡藩に仕えた利惣が、明治3~4年の贋札事件にかかわり、その際の事務方の一人として名前が残っている。 資料は、利惣、盛次郎、寅太郎の3代にわたる時期のもので、子孫にあたる人々が保持していた。内容は利惣以前から伝来した武具・甲冑、什器、収集した絵画、書跡、書籍とその他の徽章類などの歴史資料である。甲冑は兜と胴が一式揃っており、他に陣笠なども含む。什器は半田家家紋入りの物の他に、黒田家藤巴紋などの入ったものある。絵画は福岡藩御用絵師の作品のほか、書跡には盛次郎氏の作品の他、盛次郎氏が参考のため収集したような書法の手本類が含まれる。書籍類は、江戸期では、全100冊が1箱に納められた「太閤記」など、箱入一括セットで残されているものが多数あり、ほかに版本類、半田氏が江戸藩邸で行った写本類、明治期の当主が東京留学した際の法律や語学テキスト類、戦前の実業関係の出版物がある。 |
185 | 846 |
6 | 松原ひとみ資料 | 本資料群は福岡市東区松崎の多々良地区で昭和30年代に使用された「松崎第3組」の文書類と生活用具からなる。同地で農業を営んでいた寄贈者の曽祖父・船越市衛氏の納屋から発見されたもの。 「組」は生活の相互扶助のために近隣住民で組織した町内会の下位組織。市衛氏は松崎第3組内で集金などの役割を担っており、文書類には領収証が多く含まれる。中には共同購入していた農業用の殺虫剤の控えや共同墓地の出費控えなどもあり、地域共同体の営みを垣間見ることができる。 生活用具には、カラス除けの案山子や苗代籠などの農具、松崎郵便局の開局を記念して作られた枡などがある。 |
161 | 175 |
7 | 福岡藩御料理方髙橋家資料 | 福岡藩士・髙橋家は、初代七兵衛正次が東蓮寺藩初代藩主黒田高政に御料理方として仕官したことに始まる。黒田高政没後、正次は福岡藩3代藩主黒田光之に召し出され、以降、髙橋家は福岡藩に仕えることとなった。歴代当主は御料理方として御料理人頭取や同頭取格などを務めた。 幕末期~大正時代の当主・髙橋達は、明治12年(1879)、前年に黒田家の家督を相続した黒田長成が慶應義塾幼稚舎へ入るのに際して、長成と起居を共にして学事を監督し、同19年、イギリス・ケンブリッジ大学に在学中の長成に付き従うため渡英、自らも同大学で理財学を修めた。また、福岡藩政時代を回想した記録「老の回想録」(『近世福岡博多史料 第1集』西日本文化協会、1981年)を著したことでも知られる。 本資料群は、江戸時代後期から大正時代にかけての文書類が中心。「髙橋系図」(資料番号2)をはじめ家の系譜に関する資料が数多く残されており、親族間で各家の系譜の遣り取りを行っている様子もうかがい知れる。 |
74 | 74 |
8 | 小松政夫資料 | 博多出身のコメディアン・小松政夫氏(1942~2020)が使用した舞台衣装や小道具、出演舞台のチラシ、写真など。小松氏は昭和36年(1961)に上京し、中古車の営業職等を経て、昭和39年(1964)に植木等氏の付き人となる。その後コメディアンとして活動し、多彩な芸をヒットさせた。平成23年(2011)より日本喜劇人協会の会長を務めていた。 資料には、博多祇園山笠にかかる資料も含まれている。小松氏は、幼少期に生家のある博多瓦町が所属する岡流より参加していた。昭和40年代頃からは中洲流より山笠に参加しており、令和元年(2019)7月13日の「集団山見せ」では台上がり(表・右肩)を務めた。舁き縄や鉄砲はその際に使用したもの。 本資料は、常設展示室における動画「博多手一本」への出演が縁となり、遺族や関係者から寄せられたものである。 |
51 | 68 |
9 | 松尾孝司資料(追加分) | 令和元年度寄贈資料の追加分。博多中島町(現・福岡市博多区中洲中島町)生まれの日本画家・祝部至善(1882~1974)の「博多明治風俗図」や『西日本文化』の表紙絵に関係する下絵などのほか、寄贈者の父母が昭和時代初期から昭和40年代頃まで営んでいた飴屋「太郎飴本舗松尾商店」(大乗寺前町、下川端町ほか)で使用された博多鋏の飴切鋏など。 同店は、大正時代末に片土居町で八代出身の藤本小太郎が始めた「太郎飴」を引き継いだもので、十日恵比須神社(福岡市博多区東公園)の正月大祭で販売されていた「恵比須飴」や櫛田神社(福岡市博多区上川端町)での七五三用の千歳飴なども作っていた。 そのほか、西日本新聞社の記者であった寄贈者が取材先で購入した長崎・松浦郡の郷土玩具である鬼洋蝶(凧)なども含まれる。 |
50 | 50 |
10 | 星野隆資料 | 昭和戦前期に朝鮮半島に渡り、朝鮮米を日本本土に輸送する仕事を行っていた寄贈者の祖父が収集した近代朝鮮、台湾関係の絵葉書。 本資料群中の絵葉書は、明治時代後期から大正時代前半期に発行されたもの。朝鮮・台湾関係は、朝鮮総督府および台湾総督府が発行した始政周年記念絵葉書が多くを占める。この他、大正天皇即位大礼記念絵葉書も含まれる。絵葉書の多くにはスタンプが捺されており、入手時期や場所が判明する。 なお、佐賀県立名護屋城博物館に本資料群に関連する資料がある。これは、寄贈者が同館に寄贈した、明治40年(1907)から大正7年(1918)にかけての朝鮮関係の絵葉書50点である。 |
39 | 40 |
11 | 水口健吾資料 | 寄贈者が収集したふくおかʼ82大博覧会のパンフレット類からなる資料群。 ふくおかʼ82大博覧会は、昭和57年(1982)3月10日から5月30日にかけて、西日本新聞社主催、福岡県・福岡市の共催で開催された。大濠公園と舞鶴公園を会場とした。同博覧会は、「のぞましい未来 人間賛歌」をキャッチコピーに未来の暮らしを紹介するもので、エネルギーの効率的利用、エレクトロニクスの最新技術、宇宙開発、都市交通に関するパビリオンなどがあった。 本資料群中には、サントリーウォーターランド、交通安全館、あすのエネルギー館などのパビリオンのパンフレットのほか、各パビリオンで配付されたチラシ類がある。 |
37 | 38 |
12 | 上田家資料 | 福岡市中央区唐人町に在住していた上田家で使用されたもの。寄贈者の伯母が使用した、大正時代から昭和時代にかけてのお宮参りや結婚式で着用した着物、玩具など。 また、同家は享保年間(1716~1736)に糸島で酒造業を始めたと伝える。少なくとも大正時代までには唐人町に転居し営業を続け、昭和20年代に廃業した。資料には、頒布用に製作した「上田酒造場」と記された大正時代の暦や昭和時代のタオルも含まれている。 同家に関連する資料に、昭和62年度、平成元年度に寄贈された上田泰三資料がある。上田泰三氏は、寄贈者の伯父にあたる。 |
36 | 37 |
13 | 小河愛次郎資料 | 小河家は福岡藩士で、2代目福岡藩主黒田忠之の側近・小河久大夫の家系で、幕末には馬廻組300石、維新期には明治3~4年(1870~1871)の福岡藩贋札事件に権大参事だった小河愛四郎(政敏)が出ている。 資料内容は,同家に伝来した甲冑や武術書、絵画、書跡などである、このうち甲冑には、桃形兜と桶側胴の当世具足一式で、上級家臣の着用するにふさわしい高級な作りのもの。また銀泥塗の兜は、波頭の形状をした珍しい形状のもので、福岡藩では他に例を見ない変わり兜である。武術書は荻野流の砲術書で、砲図が記載される。絵画は、狩野派や福岡藩御用絵師によるもので、ほかに諸葛孔明の像も含む。書跡には近代の当主が台湾などで職業についていた際の関係者に贈られた書跡がある。 |
19 | 24 |
14 | 小川裕夫資料(追加分) | 明治時代初期から昭和時代前期にかけて、福岡・上名島町(福岡市中央区)で硝子製造業を営んでいた小川家に伝来した資料群。平成18・19年度寄贈資料の追加分。資料は、小川家が居住していた上名島町関係の資料が中心。上名島町は警固神社(福岡市中央区)の祭礼における音楽奉納を担っており、藩からの通達や神社からの感謝状などが含まれている。 また、町有文化財として伝来した清法院大盃(伝加藤清正より拝領)は、明治20年(1887)に崇福寺(福岡市博多区)で行われた福岡博物展覧会に出品され、その関連資料も伝わっている。この他に、明治時代の尋常小学校の教科書や昭和時代の書簡や絵葉書なども残されている。 |
19 | 19 |
15 | Gray Wright Waldorf collection(グレイ ライト ウォルドルフ資料) | 寄贈者の父、GrayWright Waldorf氏(1917~2000)が収集した書籍、絵葉書、写真などからなる資料群。 Waldorf氏はアメリカ人で、昭和21年(1946)から翌年にかけてアメリカ陸軍および空軍の教育機関に勤務するため日本に滞在した。帰国後はジョージア州とテキサス州の学校で教鞭を執り、昭和30年からペンサコーラジュニアカレッジ(現・ペンサコーラ州立大学)に退職するまで勤務した。 本資料群中で多くを占めるのは、来日中にWaldorf氏が撮影した写真である。写真は、アルバムに収納された白黒の紙焼写真と、スライドとして整理されたリバーサルフィルムがある。いずれも福岡、広島、名古屋、横浜、東京などの各都市で撮影されたもの。 |
7 | 333 |
16 | 五十川静子資料 | 本資料群は寄贈者の義母・静子氏(大正10年生まれ)が残した振袖などからなる。 五十川家は代々、下竪町(現・福岡市博多区下呉服町)で商売を営み、8代目・勘平は大正11年(1922)まで丸五足袋の製造を、9代目・勘助は昭和13年(1938)まで肌着シャツ類の製造を、10代目・良明は平成4年(1992)まで衣料品の卸小売業を営んでいた。途中、昭和32年頃に福岡市城南区鳥飼に移転した。静子氏は勘助の娘にあたり、良明は静子氏の夫にあたる。 振袖は昭和13年(1938)に行われた結婚式で着用されたもので、その他にも茶道や華道の習い事の際にも着用していたようである。 |
6 | 6 |
17 | 関守資料 | 寄贈者の父・関守氏(1916~2003)に関わる資料で、博多祇園山笠で着用された岡流の当番法被と昭和戦前期の出征旗および写真からなる。岡流は昭和24~41年(1949~1966)にあった流である。 関家は、昭和10年代までは博多瓦町にあって、昭和20年(1945)頃には同社家町に、昭和37年(1962)頃には糟屋郡粕屋町に転居しており、守氏が瓦町の出身者として転居後も山笠に参加していたことがうかがえる。 また、出征旗は瓦町7丁目町内会から贈られたもの。守氏は昭和13年(1938)9月に招集、同18年に解除されている。本資料に含まれる写真は、昭和13~16年(1938~1941)頃の中山大学付近(広東省広州市)が写されており、出征先での生活の様子を伝えるもの。 |
6 | 6 |
18 | 宮川安隆資料(追加分) | 平成30年度寄贈の追加分。資料は福岡市西区玄界島で使用された漁労具のほか、贈答時に使用される熨斗(タツノオトシゴ)、魔除け(ハリセンボン)である。 釣道具箱は、昭和40~50年代に釣漁の際に使用されたもので、船大工が製作したもの。タツノオトシゴの熨斗は玄界灘沿岸に特徴的なもので、ほかに魚の鰭やハコフグなども用いられる。これらは不祝儀ではない贈答の際に使われた。またハリセンボンも熨斗の一つであるが、家によっては魔除けとしても用いられている。 |
6 | 6 |
19 | 牟田節子資料(追加分) | 平成31年度(令和元年度、昭和時代戦後の写真類)、令和2年度(昭和20~30年代の写真、中学校のバッジ)寄贈資料の追加分。今年度分は、昭和30~40年代にわたる小学校から高等学校までの卒業証書と音楽の教科書。本資料群中の卒業証書は4通で、寄贈者とその姉が通学した冷泉小学校、九州女子中学校、九州女子高等学校のもの。冷泉小学校は大正10年(1921)、上呉服小学校が移転・改称して成立した。昭和戦前、戦後を経て平成10年(1998)に奈良屋小学校ほか3校と合併して博多小学校となった。九州女子高等学校は、明治40年(1907)に釜瀬新平が創立した九州高等女学校が昭和戦後の教育制度改革に伴い改称したもの。平成22年(2010)に学校法人福岡大学と合併し、福岡大学附属若葉高等学校と改称した。 | 6 | 6 |
20 | 井手重光資料 | 福岡市西区小田で使用された提灯と大皿。 提灯は、寄贈者の母・井手ヨシ子(1916~2006)の初盆の際に親類がお金を出し合って贈ったもの。当地では、初盆の際に「博多提灯」とよばれる大型の提灯を贈る風習があり、盆の期間中縁側に吊しておき、送り火とともに燃やされた。本資料は、寄贈者が記念にと保管していたもの。大皿は、盆や正月時に親類があつまる際に使用した磁器の皿。 |
4 | 5 |
21 | 津上禮三資料(追加分) | 平成3・9・令和2年度寄贈資料の追加分。本資料群は江戸時代に廻船業で栄えた筑前五ヶ浦の一つ、福岡市西区宮浦の津上家に伝わる海上安全の祈祷札やホーロー製の鍋、火起こし器からなる。 祈祷札は、明治2年(1869)・同4年(1871)に金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)から航海安全を願って授与されたもの。古来、金刀比羅宮は金毘羅大権現と称した海神あるいは水神を祀り、海上交通の守り神として信仰され、海事関係者の崇敬を集めた。 ホーロー鍋は昭和40年代に流行し、一般家庭に普及した。火起こし器は中に木炭を入れ、竈や囲炉裏の残り火で炭火をおこす道具。その多くは鉄製であるのに対して、素材はホーロー製。ガス火が家庭に普及して以降に生産されたものと思われる。 |
4 | 4 |
22 | 豊田大資料 | 本資料群は板絵馬と籃胎漆器などからなる。 板絵馬は寄贈者の曾祖母が収集し、福岡市南区寺塚の家で保管していたもの。昭和11年(1936)に行われた相撲の11月場所(九州場所)の番付表が記されており、開催を記念して制作されたものと考えられる。裏面には『日本書紀』垂仁天皇7年7月条に記された野見宿禰と當麻蹴速が相撲をとった故事が描かれる。 籃胎漆器は、竹で編んだ器に漆をかけ、幾重にも研ぎ出して装飾加工を施し仕上げた工芸品。江戸時代に久留米藩のお抱え塗師であった川崎峰二郎が明治時代に創製したのが始まりとされる。本資料は明治時代後期に川崎家から製作権を譲渡された赤松商店(通称・赤松社)が製作した文箱と応接台。寄贈者の曽祖父は裁判官を務め、福岡地方裁判所久留米支部を訪れることが多かったため、その際に入手したものと思われる。 |
4 | 4 |
23 | 松村緑資料(追加分) | 秋月藩士松村家に伝来した資料群で平成17・20年度寄贈資料の追加分。 松村家は豊前国出身で、松村良勝が中津で黒田孝高に仕官し、黒田家の筑前入国時には黒田長政から知行高100石を与えられた。良勝の子・勝成は秋月藩初代藩主黒田長興に仕え、御手廻頭を勤め、島原の陣で戦死した。歴代当主は秋月藩の御台所奉行、御館奉行、御手廻頭、黒崎御蔵奉行、大坂御蔵在番、勘定奉行等を歴任しており、幕末には、以心流剣術師範役を勤めた10代方成と11代美成を輩出した。 今回の資料群は、機械式計算機や計算尺、棹秤、ナイフの4点。機械式計算機は、タイガー計算機株式会社製造の手廻し式計算機。昭和40年(1965)製造のもの。寄贈者はこの計算機を仕事で使用していた。 |
4 | 4 |
24 | 神谷守正資料 | 寄贈者宅に伝来した書画。寄贈者の実家は鞍手郡若宮町にあり、裕福な家だったという。 日下部鳴鳳二行書(資料番号1)は、書家・日下部鳴鳳の作。日下部の生没年に関しては不明であるが、鞍手郡の「加藤司書頌徳碑」(福岡市総合図書館が拓本を所蔵)や、直方市に大正15年(1926)に建設された「広甲橋之碑」の文章を書いたことから、大正時代から昭和時代に福岡県で活動した書家であったと考えられる。 競馬図(資料番号2)は幕末に活動した大和絵の絵師、宇喜多一蕙の作。宇喜多は寛政7年(1795)に京都に生まれ、田中訥言に師事して土佐派の画風を習得した。のちに土佐光孚にも学んだ。 |
3 | 4 |
25 | 舟越正子資料 | 本資料群は、寄贈者の母・舟越正子氏(1938~2019)とその両親(いずれも当時福岡県在住)が大切にしていた書画2件4点。 双鶴図は川合玉堂作品の複製画で、当初貼交屏風だったものを掛軸に改装したもの。元の屏風は戦前裕福だった正子氏の生家が有し、戦後唯一焼失を免れた家財として大切にされた。転居のたびに携行して門司の狭小な県営住宅の玄関でも使用していたという証言がある。また菊図は亀井少栞(1798~1857)筆で、同じく正子氏が寄贈者姉妹に大切にするよう言い遺したもの。正子氏が合屋翠雲堂(福岡市東区)で表装を替えた形跡がある。いずれも地域のくらしと調度が垣間見える貴重な資料である。 |
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26 | 後藤耕二資料 | 本資料群は手動按摩器と和文タイプライターからなる。手動按摩器の内部構造は不明だが、筐体は木製で胴部についたハンドルを回転させて振動を起こす。使用していた場所は大分県大分市佐賀関町で、30年ほど前に寄贈者の祖母から母へ形見として譲り渡されたもの。 和文タイプライターは、昭和50年(1975)頃に作られた東京電気株式会社の「東芝和文タイプライタ」。回転するドラムに活字をはめ込み、レバーを操作すると目的の活字がせり上がり、ハンマーで叩いて印字する。昭和55年(1980)頃に福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)の「図書部」(現・福岡県立図書館)で使用していたものを、同館に勤務していた寄贈者が不要になったタイプライターをもらい受け、現在まで保管していた。 |
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27 | 許斐友太郎資料 | 江戸時代後期の儒学者・亀井南冥(1743~1814)とその孫・少琹(1798~1857)の書画作品。亀井南冥は姪浜出身の医家で徂徠学を学び、漢詩に優れた人物。小琹は南冥の長子で儒学者・昭陽の娘で、幼い頃から漢詩や絵画に勝れ、才能を絶賛された。今回寄贈を受けたのは南冥晩年の百道での蟄居時の漢詩作品と、文政元年(1818)に博多を訪れた広島藩出身の儒学者・詩人・歴史家の頼山陽(1780~1832)が、小琹の画に賛を入れたもの。 | 2 | 2 |
28 | 平山なな子資料 | 寄贈者の父が福岡市内で開業したクリーニング店に関する免許証と表札。 寄贈者の父平山四郎は大正9年(1920)熊本県天草郡に生まれた。出征、復員を経て昭和26年(1951)頃福岡市に転居し、「諏訪屋クリーニング店」を開業した。 ドライクリーニング師免許証(資料番号1)は、石油質溶剤を使用して繊維および皮革製品を原型のまま洗濯する事業者に1名以上置かれるドライクリーニング師に与えられるもの。免許を得るためには都道府県が行う試験に合格する必要があった。ドライクリーニング師については昭和25年に公布されたクリーニング法(法律第207号)で定められたが、同法は昭和30年に改正され(法律第154号)、クリーニング師と名称を変更した。 |
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29 | 槇美智子資料 | 本資料群は寄贈者の祖母(明治32年生まれ)が福岡市博多区堅粕の家で使用していた鏝および電気裁縫鏝からなる。鏝は着物などの布地の皺を伸ばすための用具。火鉢などに炭火をおこし、鏝を熱し、あて布の上からあてて使用する。電気裁縫鏝は松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)が発売したもので、電力で鏝を熱して使用する。「入/切」のスイッチのみで、温度調整はできない。また、専用の木箱に収められており、その蓋の裏には熱された鏝を掛け置くための金具が取り付けられている。 | 2 | 2 |
30 | 松熊功資料 | 写真(資料番号1)は、明治時代後半の博多中島町を撮影した立体写真。2枚の画角の異なる写真を並べ、それぞれを左右いずれかの目で見ることで立体感を得る。電信柱があり、西中島橋の欄干が木造であることから、明治30年代から40年代に撮影された写真である。 写真(資料番号2)は、明治29年(1896)の下新川端町(大黒流)の山笠を撮影したもの。画像は精細で、法被姿の人々の表情や街頭の時計の針、山笠の標題が確認できる。写真台紙の写真館の住所が門司市であることから、同市が成立した明治32年(1899)以降に印刷されたと見られる。明治時代の博多の街と博多祇園山笠を記録した貴重な写真である。 |
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31 | 日高三朗資料 | 令和3年(2021)度の博多祇園山笠のポスター。博多祇園山笠振興会が発行しているもので、例年は前年に1番山笠をつとめた流の舁き山の写真が用いられる。令和2年度は新型コロナウイルス感染症対策のため延期となり、翌3年度は飾り山笠といくつかの神事のみが執り行われた。よって本資料には飾り山笠の写真と文字が用いられている。 | 1 | 2 |
32 | 安陪光正資料(追加分) | 令和元度および同2年度に寄贈された安陪光正資料の追加分。 安陪氏は、江戸時代は福岡藩筆頭家老三奈木黒田家の家臣であった。戦後の当主・光正氏からはすでに令和元年度に刀剣や書画等、同2年度に近世の古文書等を寄贈されている。光正氏は中国北部の古代仏教文化と歴史に興味を持ち、関連の資料を収集された。寄贈される資料はその一つで、内容は昭和17年(1942)当時の中国・山西省を中心とした名所旧跡が写真入りで特集された、日本人向けの旅行案内記で、各所に残る仏教寺院なども見られ、日本人による編さんがうかがえる。 |
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33 | 小澤憲二資料 | 寄贈者が平成元年(1989)に使用した、アジア太平洋博覧会の業務用車両入場証。 同博覧会は、福岡市制施行100周年を記念して市内地行・百道埋立地(「シーサイドももち」)で開催された。会期は平成元年3月17日から9月3日までの171日間で、入場者は822万9399人、海外37の国と地域、2国際機関、国内1056企業・団体が参加した。 同博覧会では、業務用車両は東・西・南の3ヶ所に設けられた業務用ゲートから入場できるようになっており、入場には車両入場証の掲示が求められた。 |
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34 | 川副剛之資料 | 江戸時代後期の福岡藩の文化人で、二川流を創始した書家として知られる二川相近(1767~1836)の書が刻まれた扁額。 相近は藩の料理方の家に生まれたが、両親の影響で漢学、国学を学び、のちに書道により藩に仕え、博多東長寺の空海真筆とされる書などを学んで独自な筆法を編み出した。相近の木製大型作品としては、藩の書道方として福岡藩主宿泊時の本陣・御茶屋の看板の文字を実際に書いたものが知られ、現存数は少ないが筑前各地の仏閣等の額も手がけていたとみられる。本資料も依頼された額作品の一つで、相近の書いた吉祥的な文言を額にしたものと思われる。 |
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35 | 木村和男資料(追加分) | 平成21年度(近世絵画、古文書・書籍類)、平成28年度(近世絵画、古文書)、平成29年度(歴史資料)寄贈資料の追加分。今年度分は、寄贈者が収集した、中洲検番の線香順番。 検番とは芸妓と座敷(料理屋・待合など)の取次や、代金の精算を行う事務所のこと。中洲検番は明治30年(1897)に成立した、相生検番に次ぐ市内2番目の検番である。 本資料は中洲検番が発行した線香順番である。線香代とは、芸妓の代金(揚げ代)のことで、花代、玉代とも呼ぶ。線香順番は、中洲検番に登録する芸妓の名前を、線香代が高い順番に紹介するもの「。昭和十三年十二月中」と印刷され、右下部に昭和14年1月29日の日付で博多駅印が捺されていることから、昭和13年(1938)末から翌年1月に発行されたものと推定される。 |
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36 | 髙橋郁資料(追加分) | 本資料群は寄贈者が収集した資料で、平成30・令和2年度寄贈資料に続く追加分。 本資料は横幅約6mの巨大な博多古図絵。貿易で栄えた中世博多の街並みを海側から一望する構図で、29枚の金地付箋に景物の名を記し、西は「荒津山」から東は「筥崎宮」までを描く。史実の描写とはいえないが、福岡で博多古図関連の出版が相次ぐ昭和40~50年代頃の動きとの関わりが窺われ、近代福岡の歩みを物語る貴重な資料である。 |
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37 | 寶満神社資料 | 福岡市早良区重留を流れる金屑川沿いに設置された竹製の棚。近隣の水神祭等の事例から、本資料は水神棚と考えられる。この棚は、毎年7月に行われる寶満神社の夏季大祭に合わせて氏子が製作し、川沿いの3ヶ所に設置する。神事の後、氏子が各棚に酒・魚・塩を供える。棚は1年間据えられる。 | 1 | 1 |
38 | 前田満子資料(追加分) | 本資料群は、地元資本による証券会社「前田証券」を立ち上げ地域経済に貢献した前田家に伝わる資料で、昭和59年度・平成7年度・同19年度・同25年度に寄贈された前田家関連資料の追加分にあたる。 本資料は前田家が収集した金地の六曲一隻屏風で、昭和31年(1956)に開設された前田証券日田営業所の最上階にある研修室の壁面に展示されていた。前田証券が福岡銀行と株式交換を行いFFG証券となった平成24年(2012)以降も引き続き同室に継続展示されていたが、令和3年(2021)の会社ビル解体に伴い寄贈が実現した。多くの人の記憶に残っているであろう作品であり、また福岡の実業家のくらしと調度が垣間見える資料でもある。 |
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【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 小川幸子資料 | 本年度寄贈資料の14.小川裕夫資料(追加分)と一連の資料群。 小川家は、明治時代から昭和時代前期にかけて福岡・上名島町(福岡市中央区)で硝子製造業を営んでいた。福岡藩における硝子製造は、天保3年(1832)に小川卯平が豆徳利や水玉かんざしなどの製造を始めたのが最初で、筥崎宮(福岡市東区)の放生会で売り出したチャンポンが大人気となり、卯平は「びいどろ屋卯平」と称されたとする先行研究が数多くあるが、不明な点が多い。 一方、安川厳氏は、弘化4年(1847)、福岡藩によって博多・中島町(福岡市博多区)に開設された精錬所で、硝子製造の研究に小川卯平の長男・六三郎が添役として携わっていたことから、明治初年頃、六三郎が上名島町に硝子工場を開いたものと推測している(「チャンポンと博多」『西日本文化』74号、西日本文化協会、1971年)。 本資料群は、小川家に伝来した硝子製品と硝子製造に関わる覚書などからなる。硝子製品は、明治時代以降に小川六三郎が製作したと推定されるもの。また、覚書は硝子製品の製造法や使用する薬品の調合法などに関するもので、いずれも福岡市における硝子製造の最初期の一端をうかがい知れる資料である。 |
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2 | 筥崎宮資料(追加分) | 平成5年度に福岡市博物館に寄託された、瓦経(仁王般若波羅蜜経35枚、摩訶般若波羅蜜多心経1枚)の追加分(備品番号93D13・15・23の3点については平成27年に寄託解除)。これらは、平成元年7月、筥崎宮境内に建設された会館「清明殿」に付帯する放生池の掘削の際にまとまって出土したものである。 今回寄託された資料2点は、仁王般若波羅蜜経の巻上十、巻上十三がそれぞれ刻まれており、寄託されていた資料に欠けていた個所を補うものである。 筥崎宮から出土したこれらの瓦経は、福岡市西区飯盛山山頂から出土した、永久2年(1114)銘の瓦経と大きさが同一であるだけでなく、つくりや書体が類似することから、同時期につくられたものと考えられる。 平安時代後期の人々の信仰や思想を知る上で、価値の高い資料である。 |
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3 | 清岩寺資料(追加分) | 清岩寺は福岡藩筆頭家老三奈木黒田家の三奈木における菩提寺で、平成29年度、令和2年度の二度にわたり、黒田家と同寺の関わりに関する資料の寄託を受けている。 今回の追加分は大相撲九州場所の、座席特別券の半券、会場案内等、九州場所優勝力士紹介のパンフレット類が、ほぼ年度ごとに張り付けてある保存帳。内容からは現在取り壊された九電体育館時代の見取り図や、新会場となった平成時代の福岡サンパレスの見取り図、座席券のデザインが昭和から平成、令和に代わる様子など、西日本の中四国、九州地方では唯一の開催を誇っている大相撲九州場所の会場の変遷がうかがえる。 |
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【購入】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 大谷家文書 | 江戸時代後期から昭和時代における文書類からなる資料群。資料の多くは大谷真幸に関するもの。 大谷家は、大正時代に編まれた系図の写(資料番号17)によると、寛永期には那珂郡志賀大明神の祠官をつとめており、享保期以降は席田郡立花寺村に居住して近隣の神社の神職をつとめた。大谷真幸は明治27年(1894)に八幡宮・老松神社などの社掌に補された。一方で、席田尋常小学校に訓導として勤務した。 本資料群は神社関係資料と教育関係資料に分かれる。神社関係は、幕末から明治時代にかけての神社の由緒を調べたものや、神器の書上、神職会に関する嘱託状などを含む。教育関係資料は席田尋常小学校の教案、学校日誌、生徒出席表、大谷真幸の各科目の講習証書などがある。 |
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【令和元年度収集 寄贈資料】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 財部一雄資料 | 寄贈者の父財部一雄氏(1927~1994)に関する文書・写真などからなる資料群。 財部氏は福岡市上名島町(現・福岡市中央区)に生まれ、大名小学校から県立中学修猷館にすすみ、昭和19年(1944)に卒業した。同年から美術教師として平尾国民学校に奉職、その後は高宮中学校教諭、能古中学校教頭、姪浜中学校長を歴任した。また、士族結社玄洋社の武道場を起源とする柔術道場明道館の運営に関与した。『明道館史』(編著、明道館、1984年)、『大名界隈史』(柳猛直と共著、海鳥社、1989年)の著作がある。 資料群のうち、書籍、賞状類、文書、写真の一部の目録は『令和元(2019)年度収集収蔵品目録37』(福岡市博物館、2022年)に掲載した。今回は財部一雄氏に関する写真等の目録を掲載する。 |
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