令和4(2022)年度収集 収蔵品目録 40
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 亀田均資料 | 令和2(2020)年に逝去した博多人形師・亀田均氏の人形および関係の遺品。 亀田氏は昭和23(1948)年に長崎県江迎町に生まれ。中学卒業後、福岡市で鮮魚店の仕事をしていた16歳のときに偶然小島与一の人形を目にして与一に入門し、与一が亡くなるまでの6年間小島家に住み込みで修業した(小島与一の最後の弟子)。 昭和46(1971)年に独立して博多人形師・博多祇園山笠人形師として活躍し、大相撲力士や歌手、スポーツ選手などの肖像人形の製作でも知られた。資料は人形のほか、デッサンやアルバム、山笠関係、大相撲九州場所関係の資料なども含む。 寄贈者のうち亀田フミ子氏は亀田均氏の妻で、博多人形生地職人であった山田栄氏の次女で、山田修三氏はその兄にあたる。 |
600 | 796 |
2 | 鶴原清二資料 | 江戸時代の前期から幕末まで福岡藩の藩医を務め、近代は福岡出身の政治家として活躍した鶴原定吉を出した鶴原家の近世・近代文書類。 鶴原家は初代喜兵衛が福岡藩主黒田長政に150石で召し抱えられ、2代目の鴈林(400石)以後、幕末の安政期の道至、翠山まで本道(内科)医のトップを務めた(最終500石)。維新期は明治初年の分限帳に、定吉が「一の士籍」として記される。この鶴原定吉は後に明治期の高級官僚として中央で勤めたのち、政党政治家に転身し地元から嘱望された。また野村望東尼のひ孫にあたる野村誠と結婚しているため、明治期の野村望東尼顕彰作業に関係している。 資料内容は、①近世初期から後期の知行宛行状・知行目録などに、鴈林の藩医として活動や職務呼び出し状をふくむ文書群、②近世作成の系図写しやその作成のもととなった記録類、③元亀・天正期の曲直瀬道三による古医学・薬学の伝書類、④野村望東尼が明治24年(1891)に従五位の贈位を受けた後に編纂された、野村望東尼伝の草稿、原稿、⑤鶴原定吉に関する写真、日記・手帳、書類、辞令などの近代文書である。鶴原家は明治期に福岡から東京へ居住地を移し、同地に残された資料は福岡市域の歴史にとって貴重である。 |
538 | 573 |
3 | 黨悦子資料 | 元岡村(西区元岡)にあった造り酒屋・宮本屋の4代目当主・黨又五郎の時代を中心とした近代文書および5代目・幸太郎の時代の法被や包紙からなる。 宮本屋は、宮浦(西区宮浦)の黨又蔵が、文化元(1804)年に前身の酒造を買い取る形で酒造業を始めたと伝わる。2代目市郎以降、又市、又五郎、幸太郎と続いたが、戦時統制の影響を受け昭和18(1943)年に廃業した。戦前には清酒「瑞穂」を醸造・販売していた。近代文書は『新修志摩町史』(平成21・2009年発行)を編纂する際に黨文書として調査・整理が行われた。明治時代の酒類売上帳、掛売り控えなどの酒造の営業に関わるもの、黨家の冠婚葬祭、元岡の信仰・年中行事にかかる記録などがある。 |
270 | 1798 |
4 | 佐々木滋寛資料 | 松源寺(博多区千代)の第10代住職・佐々木滋寛(1899~1976)が収集した小絵馬コレクション。同氏は昭和3(1928)年から松源寺の第10代住職を務める傍ら、民俗学者・柳田國男の影響を受け、昭和4(1929)年に九州土俗研究会を立ち上げ、様々な誌上に郷土の文化を発信し続け、福岡の民俗学草創期を支えた人物である。 同氏は小絵馬に関して、全国誌である『旅と伝説』に「博多祇園山笠の絵馬」(昭和3年8月号)と「博多地方の小絵馬」(昭和5年10月号)を立て続けに発表し、その内容は小絵馬コレクションがもとになっていると考えられる。 その他の資料として同氏が昭和5(1930)年に考案し、櫛田前町(現・博多区冷泉町)に居を構えた絵馬師・吉村百耕(1878~1958)と共同で作成した「博多山笠絵馬郵便」なども含まれる。 |
217 | 217 |
5 | 松本須美子資料 | 福岡藩の船手頭を務めた松本家に伝来した古文書・刀剣類。 松本家は、系図によると紀伊国出身であるが、織田信長に敗れた後流浪し、天正7(1579)年、播磨国姫路(兵庫県姫路市)で松本勝重(光勝)が黒田家に仕えたとする。黒田家が筑前に入った翌年、慶長6(1601)年10月6日付で如水から宗像郡内で知行400石を充行われ、代官分207石3斗9升3合9勺を預けられた。翌7年12月23日には、御牧郡(後の遠賀郡)内にて知行500石、代官分519石8斗4升1合に加増となる。勝重の後は長男吉右衛門勝良(市郎右衛門家)と次男孫九郎利勝(主殿家)の2家に別れ、寛永14(1637)年7月28日付で2代藩主黒田忠之からそれぞれ知行400石と300石を与えられた。以後、両家の歴代当主は船手頭を務め、福岡藩の水軍を掌った。 嫡流家の古文書は、黒田如水・長政発給文書を中心に7件75点を平成25(2013)年度に収集している。一方、本資料群は次男家に伝来した古文書等で以前から存在が知られていたもの。福岡県地域史研究所や福岡市史編さん室等によって調査が行われ、『福岡県史 近世史料編福岡藩初期(下)』(1983年)に81通、『新修 福岡市史資料編 中世1 市内所在文書』(2010年)に33通が翻刻、掲載されている。 資料群には、毛利元就・小早川隆景発給文書など戦国時代の文書の写、黒田如水・長政発給文書など江戸時代初期の文書が含まれている。また、福岡藩の船手支配関係文書も多く、船の運航に関わる冊子・絵図類も残されている。さらに、嫡流家の古文書には残されていない松本家の系図類も含まれており、両家の系譜がうかがえる。 |
198 | 438 |
6 | 藤木聡資料 | 寄贈者が福岡市東区およびその周辺で採集した石器群で、旧石器時代を中心に、縄文時代から弥生時代に至る石器・剥片からなる。 旧石器時代の石器は、ナイフ形石器のほかに、彫器や台形石器などを含む。これらのうち、東区奈多砂丘(周知の埋蔵文化財包蔵地「奈多砂丘B遺跡」周辺)で採集されたものについては、更新世に形成された古砂丘上で人びとが活動がしたことを証する貴重なものである。また、約25,000年前に降灰したAT火山灰(姶良丹沢火山灰)前後の時期に推定される台形様石器やナイフ形石器も含まれており、これらは福岡地域でも最古級の資料と評価できる。 寄贈者は、平成24(2012)年に著した「海の中道~奈多砂丘採Ï集の旧石器・縄文時代資料の紹介」(『市史研究ふくおか』第7号)において、本資料の一部を紹介している。参照されたい。 |
103 | 435 |
7 | 西村長實・楢崎久矩資料(追加分) | 平成13年度(近世・近代俳句関連文書)、平成17年度(農業全書)、平成22年度(近世~近代文書、版本・刊本、道具類)、平成26年度(昭和時代初期謡本)寄贈資料の追加分。寄贈者の実家にあたる西村家は江戸時代中期から志摩郡に居住しており、酒造業を営んだ。江戸時代後期には庄屋をつとめた。昭和時代の当主長臣は今宿村の最後の村長であった。 今年度分は、西区今宿にある西村家の倉庫で保管されていた書籍、文書類など。書籍の多くは明治時代から昭和時代における教科書である。特に尋常小学校用教科書が多い。昭和時代初期の糸島高等女学校(現 福岡県立糸島高等学校)の校友会誌を含む。文書は小作地に関する証書や酒造業組合に関するもので、江戸時代後期の文書を含む。 |
96 | 200 |
8 | 正木昌陽関係資料 | 正木昌陽(木鶏)は江戸時代後期の儒学者で、幕末~明治初年の福岡藩校・修猷館の教官を務め、明治初年段階で14石3人扶持を受けている。その後は鳥飼神社(現中央区鳥飼)横の自宅で私塾・不狭学校を開いて幼少年の教育にあたった。 資料内容は①刀剣類、②近世~近代文書や書籍、③木盃・賜杯、④褒章・記念章関係、⑤正木および関係者の書跡類、である。①は正木家伝来品とされ「肥前忠吉」があり、拵も残る。②は正陽が明治8年(1875)頃から香椎宮神官を勤めた際の記録や明治期の教育関係の記録、明治31年(1898)9月に藍綬褒章を受けた際の関係資料。②は受勲記念品として贈られた書籍「佩文韻府」収納の為に作られた本箱に収納されていた。③は同じく②に関連した記念盃、④は藍綬褒章ほか赤十字記念章等で、一括で箱に収納されていた。⑤の書跡は旧藩主の黒田長知が、昌陽に与えた書「至孝化群生」や、昌陽の自身の作品。ほかに明治31年に弟子の金子堅太郎が褒章受任の記念として関係する著名人から集めた寄せ書帖「文園」がある。 |
87 | 118 |
9 | 石橋啓延資料 | 江戸時代後期、早良郡姪浜村で廻船問屋(屋号紙屋)、酒造・醸造業を営んでいた石橋家に残された福岡藩の学者・亀井南冥ほか亀井家関係者の書跡、絵画など。 石橋家は姪浜の商家早船家と姻戚関係があり、早船家が亀井照陽の妻の実家でもある事から、石橋家も亀井家関係の書跡や関連資料がのこされたとされる。すでに本資料の一部は昭和57年(1982)の福岡市立歴史資料館「福岡市歴史関係資料所在確認調査報告」でも調査報告がなされていたが、今回新たな資料も含めて寄贈された。 資料内容は①屏風、額装の書跡類、②掛幅類、③めくりの書跡・絵画類、④近代文書・書跡・絵画、⑤民俗資料、に分けられ、①~③はいずれも亀井南冥、その子の照陽、南冥の孫娘・少琹とその夫・雷首の作品が中心。④では石橋家の近代経営関係、石橋家先代当主観一氏や親類の学業関係資料も含む。 なお姪浜石橋家の資料は、平成9年度、17年度、28年度にわたり、別の親族から、幕末の石橋家の当主善右衛門が藩より拝領した藤巴紋入裃、袴、木盃などや、近代の書籍が本館に寄贈されている。 |
65 | 89 |
10 | 嶺知己・さえ子資料 | 宗像大社の旧社家・嶺家に伝来した近世文書や書跡・絵画類。嶺家は中世以来、嶺村(宗像郡光岡村内)を本拠とした社家で、寄贈者の父・春雄氏の代まで大社の社家を務めた。 内容は、①福岡藩儒学者・貝原益軒から嶺隼人宛の書簡、益軒の兄の貝原存齊(元端)からの書簡をそれぞれまとめた巻子2巻、②嶺家系図(写し類)を含む近世・近代文書、③益軒その他の書跡や絵画、④什器類からなる。とくに①で益軒兄の存齊は三代福岡藩主光之に学者して仕え、致仕後は遠賀郡に隠棲した人物で、関係資料は貴重。②は江戸時代末に写され、近代・春雄氏まで書き継がれた。③は宗像大社関係の、特に南北朝時代の歴史的な文書の写や、それに関して益軒が感想、解説を記した書跡、益軒筆の大社の神号などがある。また木下順庵など、当時の儒学者の書状を掛軸にしたものなども含む。 これらは福岡藩の儒学者・貝原益軒と筑前国の社家との交流を示す資料であり、益軒やその一族の新出の書状がまとまっており貴重である。 |
60 | 70 |
11 | 山本真木資料 | 寄贈者の祖父一家に関する書類。 寄贈者の母方の祖父山﨑喜雄は明治32(1899)年福岡県糸島郡前原町(現 糸島市)に生まれ、大正8(1919)年に福岡師範学校を卒業し、小学校教員免許を取得した。糸島郡内の尋常高等小学校で訓導をつとめた後、大正14年に台湾での教員免許を得て台北州へ出向した。祖母ミツノ(旧姓池松)は明治37年生まれで福岡女子師範学校を卒業し小学校教員免許を取得、糸島郡内の尋常高等小学校で訓導をつとめたが、結婚に伴い依願免職して台湾に移住して学校に勤務した。一家は昭和15 (1940) 年に福岡県に戻り、ミツノは福岡市内の国民学校(戦後は小学校)の教諭をつとめた。 本資料群中には山﨑喜雄、ミツノの辞令の他、教育講習会の講習証書、子の卒業証書や通告表などがある。 |
59 | 59 |
12 | 松尾孝司資料(追加分) | 令和元、2、3年度の追加分。本資料群は、寄贈者の父母が昭和時代初期から昭和40年代頃まで営んでいた飴屋「太郎飴本舗 松尾商店」(旧博多大乗寺前町、下川端町ほか)の営業に関わる帳簿や領収書、寄贈者の幼少期の玩具などからなる。同店は、大正時代末に片土居町(博多区下川端町)で八代出身の藤本小太郎がはじめた「太郎飴」を引き継いだもので、十日恵比須神社(博多区東公園)の正月大祭で販売されていた「恵比須飴」や、櫛田神社(博多区上川端町)で授与する七五三用の千歳飴なども作っていた。昭和29(1954)年には柴田邦夫氏が、早良区西新に太郎飴本舗西新支店としてのれん分けしている(58.柴田邦夫資料参照)。 | 44 | 44 |
13 | 当仁校区自治協議会資料 | 中央区荒戸にあった銭湯「荒戸湯」(昭和元~令和2年)の浴場および脱衣所に掲示されていた1960~70年代の映画や歌謡ショー等のポスター。銭湯の廃業の際に当仁校区自治協議会が譲り受けたもので、その後当仁校区自治協議会・当仁公民館設立70周年記念事業「当仁校区ふれあい文化祭 in 大当仁」(令和4年11月3日)の際に、当仁小学校にて展示された。当館が同事業へ協力する過程で自治協議会より寄贈の申し出を受けた。本資料には、ポスターの下部に同時上映の紙が付いており、すのこ東映(東湊町)、宝塚劇場(東中洲)など、福岡の映画最盛期に営業していた映画館の名が見え、1960~70年代の市内の映画館の様子を伝えている。 | 41 | 42 |
14 | 柴田徳商店資料 | 柴田徳商店(東区馬出)で製作された博多曲物の製品および製作用具。 博多曲物の起源は明らかではないが、馬出の曲物職人は古くから筥崎宮に仕える神人として祭具の生産と奉納に携わり、江戸時代の儒学者・貝原益軒が記した『筑前国続風土記』には、「檜物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に捲を作る。皆羅漢松材を用ゆ。」と記録が残る。 曲物に使われる材木は杉や檜が主流だが、昭和29(1954) 年頃に先代の柴田徳五郎氏が樅材を使った曲物を実用化、昭和51(1976)年に樅もみで作った「曲物盆」がGマーク商品(通産省グッドデザイン選定商品)に選ばれた。その後、昭和54(1979)年に福岡県知事指定特産工芸品に指定され、昭和56(1981)年に福岡市無形文化財に指定され、同時に徳五郎氏が技術保持者として認定された。 資料にはポッポ膳やユリ、茶道具などの生活用具のほかに、曲物の工程見本などが含まれる。 |
38 | 39 |
15 | 八尋シノブ資料(追加分) | 平成27年度(襖・欄間)、平成29年度(掛軸)、令和元年度(方位磁石)の追加分。寄贈者の実家である八尋家は、江戸時代に早良郡片江村(現 城南区)で庄屋を務めたという。 今年度分は、寄贈者が保管していた、元は八尋家にあった文書類である。昭和戦中期の戦時債券および株券、明治時代の土地証文などの文書類などからなる。昭和戦中期には、戦費調達のための国庫債券が多数発行され、国民には債券の購入が奨励された。債券には償還の際に売出価格に加えて割増金が支払われるものや、抽選で懸賞金が付与されるものもあった。文書類は八尋茂三に土地を売り渡す明治時代前半の証書が多くを占めており、地主による土地の集積を示す資料である。 |
36 | 54 |
16 | 御田伴廣資料 | 香椎宮(福岡市東区)の神官であった御田家に伝来した古文書群。 御田家は、香椎宮創建時に香椎廟司(香椎大宮司)に補された膳大伴宿祢範綱(初め友綱)を祖とするという。範綱は大中臣氏、武内氏、清原氏とともに香椎廟司四党の一人として神事を務めた。歴代は大宮司に任じられ、応永3(1396)年以降は権大宮司を務めた。天和3(1683)年8月、福岡藩3代藩主黒田光之が香椎宮に社領80石を寄進した際、神官は上官・中官・下官に分けられることとなり、御田家は中官に列した。 本資料群には、前年に病死した戸次道雪を継いで、立花統虎(宗茂)が立花城督となる旨を、香椎大宮司に報じた天正14(1586)年2月3日付の大友義統感状が含まれ、大友氏と香椎宮の関係性がうかがえる。また、江戸時代中期から幕末期にかけての神道裁許状や宣旨など、江戸時代の御田家に関わる文書類が残されている。(髙山) |
36 | 36 |
17 | 西川正夫資料 | 福岡藩士・西川家に伝来した古文書等。 西川家の家譜類は、豊臣秀吉・秀頼父子に仕えた西川善兵衛正範から記載が始まる。正範の子・正次も豊臣秀頼に仕えて四条流の庖丁道を相伝し、慶長15(1610)年7月、秀頼と千姫の婚礼饗膳などを担ったという。 慶長20(元和元)年の大坂夏の陣後、正次は西本願寺の下間家を頼り、同3年に有馬豊氏の仲介により福岡藩主黒田家に仕えることとなった。以降、正次は四条流庖丁道をもって黒田家の饗膳を取り仕切り、他の料理人の指導も行った。また、歴代の当主は福岡藩の御料理人頭を務めた。 本資料群には、庖丁式など儀式の作法や調理法をまとめた四条流庖丁道の伝書が含まれ、庖丁式における鯉や鶴の切形を図示した資料が多く残る。また、家譜や系図類に加えて、豊臣秀吉所用と伝わる茶碗など料理人として桃山時代から江戸時代にかけて活動した西川家の由緒を物語る資料がまとまって残されている(髙山) |
35 | 37 |
18 | 18.加藤フサ子資料 | 昭和戦中期・戦後期の国民学校の児童が描いた絵、答案用紙などからなる資料群。寄贈者とその姉が書いたもの。 寄贈者は昭和10(1935)年、福岡市に生まれた。昭和17年春吉国民学校(現 春吉小学校)に入学する。昭和20年の終戦時には4年生であった。姉・桂子は昭和7年生まれで、寄贈者と同様に春吉国民学校に通学した。 本資料群中の絵は、慰問袋、神社奉仕、国旗掲揚など、昭和戦中期の「銃後の国民」に求められた行動が描かれる。答案用紙は読方、地理、理科、算数など各科目がある。国民学校は国民の基礎的錬成を目的として昭和16年にそれまでの尋常高等小学校を改称したものであるが、答案用紙が「国民錬成用紙」と呼称されていたことがわかる。 |
33 | 33 |
19 | 山上静子資料 | 寄贈者の父森部半次が昭和戦時期に入手した文書、写真類からなる資料群。 森部は、福岡県朝倉郡大福村(現 朝倉市)に生まれ、福岡県立福岡工業学校(現 福岡工業高等学校)、広島高等工業学校(昭和24年広島大学に包括)に学び東邦電力に就職した。日中戦争期に応召して中国大陸に派遣された。昭和21年4月に引き揚げた後は、九州配電に復職した。 本資料群中には、昭和14年ごろから昭和21年の引き揚げまでに森部半次が入手した文書、写真、拓本などが含まれる。多くは中華民国28(1939)年10月に開催された「安徽省政府成立初週紀念典礼」に関する文書類である。安徽省政府は、日本軍が主導した地方政権である中華民国維新政府の行政区画の一つで、昭和13年10月に成立した。中華民国維新政府は昭和15年には汪精衛が樹立した南京国民政府に合流する。 |
29 | 30 |
20 | 西岡弘晃資料 | 寄贈者の祖父が使用した昭和戦前期の軍服その他からなる資料群。 寄贈者の祖父西岡三郎(1906~1979)は、福岡県出身で旧制福岡高等学校から海軍兵学校にすすみ、海軍軍人となった。勤務地や所属は不明であるが、一時は新兵教育に従事したという。太平洋戦争終了後に退官した。 本資料群中には、西岡三郎が着用した海軍軍服の正装、肩章やベルト等の装身具がある。いずれも日中戦争期の昭和13年(1938)まで使用されたものである。この他、従軍記章などの記章類、日中戦争期の海軍の訓練風景を収めたアルバムを含む。 |
26 | 28 |
21 | 占部朝子資料 | 寄贈者の母・朝子(大正7年生まれ)が寄贈者の祖母から譲り受けた櫛・簪・笄などの装身具。資料は祖母が東京都京橋区銀座尾張町(現銀座4丁目)にあった小間物屋・白牡丹で購入したものと、鞍手郡宮若町金生(現・宮若市金生)の生家に伝わるものに分けられる。ハレの日やよそ行きの場などで身に付けていた。 | 21 | 21 |
22 | 大楠冨美子資料 | 昭和4~8年に福岡市議会議員を務めた大楠淸氏宅に伝わる博多祇園山笠復興記念の扇子などの用具類。 昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲で博多の3分の2が瓦礫の山となり、博多祇園山笠は中断を余儀なくされたが、昭和23(1948)年に復活し、七流の舁き山が櫛田入りを果たした。本資料はその際に、櫛田神社より復興記念として作成されたものと考えられる。このほかに、同氏が使用していた着物や博多織の袱紗などの生活用具も含まれる。 |
19 | 47 |
23 | 吉原章資料(追加分) | 平成17年度(レコード)および令和元年度(蹴りロクロ、平和台球場ベンチ)寄贈資料の追加分。今年度分は、寄贈者宅に伝来した昭和時代の地図、書籍類と明治時代の文書類からなる。 『福岡地典 29年度限定版』(1)は積文館書店が発行した福岡市の住宅地図。地図の欄外には商店・百貨店の広告が掲載される。寄贈者が親戚の遺品整理で譲り受けたもの。 昭和時代の政治家緒方竹虎(1888~1956)関連の資料(3~16)は、所有者の妻の家に伝来したもの。学生時代の答案用紙が主である。修身、読書科などの科目から、福岡師範学校附属小学校在学時のものとみられる。 |
17 | 38 |
24 | 株式会社 UACJ 金属加工資料 | 平成2年度の寄託(日本アルミニウム工業株式会社資料)から、寄贈への切り替え。切り替えにあたり、一部の資料については返却している。昭和時代のアルミニウム製の日用品からなる。日本アルミニウム製造所(現・株式会社 UACJ 金属加工)の製品は、昭和時代に福岡で開催された博覧会にも出品された。昭和21(1946)年に商号が日本アルミニウム工業に変更されているが、本資料群中の製品は、多くは日本アルミニウム製造所時代のものである。 | 16 | 17 |
25 | 水口健吾資料(追加分) | 令和3年度寄贈資料の追加分。寄贈者が収集したふくおか ʼ82大博覧会のパンフレット類からなる資料群。 ふくおか ʼ82大博覧会は、昭和57(1982)年3月10日から5月30日にかけて、西日本新聞社主催、福岡県・福岡市の共催で開催され、大濠公園と舞鶴公園を会場とした。同博覧会は、「のぞましい未来 人間賛歌」をキャッチコピーに未来の暮らしを紹介するもので、エネルギーの効率的利用、エレクトロニクスの最新技術、宇宙開発、都市交通に関するパビリオンなどがあった。 本年度分は、九州電力が運営した「あすのエネルギー館」、日本専売公社が運営した「たばこと塩のものしり館」などのパビリオンのパンフレットが含まれる。 |
16 | 17 |
26 | 竪町浜田中家資料 | 江戸時代後期に、博多新流の竪町浜年寄を務めた田中家に残された近世文書。 田中家は近世初期の状況は不明だが、資料中に元和9年(1693)の博多年行司衆あて小河内蔵充、栗山大膳、井上周防の連署状の写しがあり、江戸中期までには上層町人となった可能性がある。さらに「博多商船持六右衛門」とあり、この時期から博多浜部で海運関係にもかかわったことや、延享5年(寛延元、1748)の一族の財産譲与の覚がのこされ、家屋敷等を所持する有力町人であったことがわかる。近世後期の資料のほとんどを占めるのは、竪町浜の年寄六右衛門として、藩普請への献納、捨て子養育の世話などにより藩から与えられた褒状(御書出)類である。なお近世後期の「筑前国続風土記附録」には竪町浜で醤油屋を営む「田中六右衛門」が挙げられている。 |
15 | 15 |
27 | 廣川熊吉・太助資料(追加分) | 平成26年度の追加分。博多区千代で代々大工職を営んでいた廣川家の明治時代~昭和時代の写真。おもに寄贈者の祖父・廣川熊吉および父・太助の時代のもので、写真から、近隣の神社や商店の建築だけでなく、戦後には大博劇場(1920~1972年・博多区上呉服町)の大道具を担当するなど様々な活動をしていたことがうかがえる。そのほか、どんたくや崇福寺観音講などの年中行事や信仰、初正月や結婚式、慰安旅行といった生活の様子が写されている。 | 14 | 14 |
28 | 田中清重資料 | 寄贈者が収集した明治時代から昭和時代の書籍。いずれものみの市等で購入したもの。 「ヘルマン䠄外弾道学」(1)を発行した九州兵器(株)は、明治19(1886)年創業の渡辺鉄工所の、水雷や魚雷部品の製造を行う部門が分離独立して昭和18(1943)年に成立した。本社工場は雑餉隈にあった。「中等国語読本」(5~13)は中学校用の国語教科書。歌人・国文学者の落合直文(1861~1903)が明治35(1902)年に編纂し、明治書院から出版された。明治44年には森鴎外による改訂版が刊行された。以後、大正10(1921)年まで改訂を繰り返し刊行された。本資料群中の「中等国語読本」は最終版にあたる。 |
13 | 13 |
29 | 中間令三資料 | 旧博多下東町に縁のある寄贈者が収集した博多祇園山笠および博多松囃子の絵葉書。山笠の絵葉書は、写真中の標題より大正時代末期から昭和時代初期のもの。大正時代は、電灯線の架設(明治30・1897年)や路面電車の開通(明治43・1910年)により、昔のままの高い山笠はそのまま飾り、舁く時に下の台を引き出し、別の飾りを取り付けるなど、現在のように山笠が飾り山笠と舁き山笠に分かれていく変化の時期である。 | 11 | 11 |
30 | ライオン株式会社資料 | 平成2年度の寄託から、寄贈への切り替え。大正時代から昭和時代にかけてのライオン歯磨の製品からなる。小林商店(現・ライオン株式会社)の製品は、昭和時代に福岡で開催された博覧会にも出品された。本資料群は、小林商店が製造した歯磨およびそのパッケージで、時代ごとの意匠の変遷を確認することができる。 | 10 | 14 |
31 | 武内公麿資料(追加分) | 令和2年度に寄贈された武内公麿資料の追加分。近代の写真グラビア雑誌類からなる。竹内家は香椎宮の旧社家で、古来よりの香椎四党の子孫として代々が同宮の大宮司などを務めた。前回の寄贈は社家の活動に関する近世文書、近世~近代の書籍、地域での文化活動をしめす絵画・書跡、収集された浮世絵・錦絵類が中心であった。 今回の寄贈資料の内容は、大正末から昭和初期の皇室の動向についてのグラビア雑誌で、ほかに昭和2(1927)年に福岡で開催された東亜勧業博覧会に関するものが中心。後者には会場の大濠公園上空を行く飛行機が描かれたグラフィック的にも斬新なものもある。 |
10 | 10 |
32 | 永井光清資料 | 明治維新の戊辰戦争で、筑前福岡藩兵として東北地方を転戦した藩士・永井家に残された古文書と刀剣。永井家は福岡城下の南側、谷に屋敷を持ち、分限帳では安政期の小平が100石、明治初年には藤次郎が170石を受けている。 資料内容は、戊辰戦争で筑前藩兵の銃手頭として従軍した永井小平に関わる古文書類の写しまたは複製品を顕彰用に掛軸としたもの。明治元 (1864) 年から翌年の帰国までの間の、総督府から出された参戦中の諸藩兵士への慰撫の布達(明治元年6月)、京凱旋時の政府行政官から福岡藩兵への褒状、福岡帰還時の藩府から感状、下賜品沙汰などがある。総督府の布達などは、福岡藩のこの時期の公式記録「綱領」に収録されないもの等を含む。他に明和6(1769)年に永井氏の習得した安陪流の極意書がある。ほかに刀剣としては江戸中期の刀工・駿河の島田義助作がある。 |
9 | 9 |
33 | 毛利通友資料(追加分) | 平成20年度収集資料の追加分。 寄贈者の父・毛利通友氏が室見川や金屑川ほか福岡周辺の河川で使用した漁撈用具の鰻掻きと投網。同氏は早良区小田部で農業を営む傍ら魚取りを趣味としてきた。ウナギ、ボラ、コイ、ハヤ、モクズガニなどが主な獲物であったが、特に鰻掻きと投網の腕前については周辺の人々によく知られる存在だった。 鰻掻きは泥の中に潜むウナギを竹の先に取り付けた鈎状の金具で掻き取る漁法で、福岡でもかつては盛んに行われていた。投網は捕獲対象魚種や季節によって目の大きさなどが異なり、何種類もの網を使い分けた。 |
7 | 7 |
34 | 秀村研二資料 | 九州大学名誉教授秀村選三氏の父君で寄贈者の祖父の時代に収集されたとされる甲冑と書跡、および寄贈者が収集した西鉄福岡市内線に関する道具、切符など。 甲冑は黒漆塗の唐冠兜と、黒漆塗紺糸威二枚胴の桶側胴で、籠手などの小具足も残される。唐冠兜は変わり兜の一種で、中国の王侯や高官などの冠を象ったもの。纓と呼ばれる左右の飾りが横につきだすなど、その形の奇抜さと高級感から、安土・桃山時代の大名などにこのまれた兜。書跡は明治・大正期の政治家松方正義によるもの。薩摩藩出身で明治14(1881)年から25年まで大蔵卿、蔵相を務め、日清戦争後には2度内閣総理大臣となった。2度目の内閣では大隈重信と連携し入閣させている。 路面電車の福岡市内線は、昭和戦中から戦後まで長く市内交通の中心であったが、昭和48(1973)年から54年にかけて全線が廃止された。本資料群には、城西橋停車場の看板、レール、廃止記念乗車券などが含まれる。 |
7 | 7 |
35 | 﨑村英生資料 | 唐原(東区唐原)の祇園山笠で使用された成人用、子供用、乳児用の法被。戦前は上半身裸で締め込み姿であったが、昭和30年代に白い短パンが着用されるようになり、昭和40年代前半には現在の法被に短パン姿が定着した。乳児用の衣装は、生後初めて山笠に参加する「初山笠」の際に着用するもので、博多と同様に化粧まわしを着ける。唐原の祇園山笠行事は、7月に須賀神社(祇園宮)で行われる夏の祭礼である。行事の起源については、大正時代以前には行われていたと考えられる。唐原の山笠は、博多人形を使用する点や構造のほか、戦前までは農閑期に集落にあるアカマツを燃料として博多に供給していたこと、さらには松茸狩りなど博多の行楽地であったなどの記録等から、博多の影響を受けた山笠の一例と考えられる。同行事は平成31年度に福岡市無形民俗文化財に指定された。 | 6 | 10 |
36 | 青木富美子資料(追加分) | 本資料群は、壱岐神社(福岡市西区)神官の末裔である青木家に伝来したもので、令和元年度の追加分にあたる。 今年度寄贈されたのは6件の書画で、いずれも近世~近代の福岡ゆかりの人物による作品である。具体的には、福岡藩御用絵師の尾形家第6第当主・尾形守厚(?~1781)、大宰府の文人画家・吉嗣拝山(1846~1915)、博多聖福寺の第128代住職・東瀛自関(1848~1921)、旧福岡藩主黒田家の明治時代の当主・長成(1867~1939)、福岡県知事・斎藤守国(1884~1945)、そして寄贈家の大正~昭和期の当主で長垂寺(福岡市西区)の開山にかかわりその総代を務めた県会議員・青木真五郎などが、書画や漢詩の作者として確認される。一部はその制作背景にも福岡の歴史的な事象が絡んでおり、弘安の役や、昭和天皇の即位大礼に際した主基斎田(早良区脇山村)にちなむ画題が確認できる。福岡の文化的動向を知る資料として、また在地名士の活動を物語る資料として、貴重なものである。 |
6 | 6 |
37 | 西村英俊資料 | 寄贈者が平成10年代に製作したタペストリーや収集した錦絵。 寄贈者は昭和42(1967)年に設立した「おびぜん織物株式会社」の2代目社主にあたる。その後、同社は西村織物株式会社(現・筑紫野市)と合併。 資料には、寄贈者が仕事で収集した博多織の端切れを繋ぎ合わせて作成したタペストリーや、男物の五色献上柄の博多帯といった博多織関係資料がある。そのほか、寄贈者が収集した江戸時代後期から明治時代初期にかけて作成された大判錦絵も含まれる。 |
5 | 5 |
38 | 梅木昭和資料(追加分) | 寄贈者が福岡市東区の奈多砂丘で採集した、漁労用の石製の錘である。採集地点は、周知の埋蔵文化財包蔵地「奈多砂丘B遺跡」の北東部。なお、寄贈者が、同じ地点から採集した土器等については、平成28年度に寄贈をうけている。 寄贈資料は、近現代の網漁との比較から、魚の通り道に仕掛けて魚を捕る刺網漁などで、網が動かないよう固定する錘として使用されたと考えられているものである。同様の資料は、早良区西新町遺跡、東区唐原遺跡、博多区比恵遺跡群などからも出土しており、古墳時代前後の漁労活動を解明する資料として重要である。 |
4 | 4 |
39 | 向野也代資料 | 江戸時代から明治・大正・昭和に直方市域の素封家であった向野家に伝来した刀剣。 寄贈者の曽祖父が所持していたとされ、平成20年度の収集資料(寄託)・向野堅一資料中の刀剣類と関連する資料。向野堅一は直方出身で、修猷館に学び中国・上海に渡たる。日清戦争後には現地で商社などを起し活躍した人物で、寄贈者の曽祖父と血縁の人物。資料内容は薙刀1本、脇差3本の4点。薙刀は銘から日向飫肥出身で京都・堀川派で学び、大坂新刀の祖といわれた江戸時代前期の刀工・井上(藤原)和泉守国貞の作。脇差の銘の判明するのは、作刀の集団で栄えた豊後高田(細川藩飛び地)で活動した江戸時代中期の刀工・藤原則行の作。なお薄茶色の精巧な革の菱巻柄の拵がつく。 |
4 | 4 |
40 | 安本研二資料 | 寄贈者の祖父で写真家の安本江陽が使用したカメラ、撮影した写真を収録した書籍などからなる資料群。 安本江陽(1888~1944)は明治43(1910)年に開催された第13回九州沖縄八県連合共進会の写真展覧会に出品して一等銀牌を受けたことをきっかけに博多に写真館を開いた。人物写真などを生業としながら九州帝国大学(現 九州大学)の依頼を受けて学術的な写真の撮影も行ったという。芸術写真の撮影も続け、海外の写真展でも入選した。昭和3(1928)年には昭和天皇即位大礼に際して早良郡脇山村に設けられた主基斎田の各種行事の撮影を担当した。昭和6年から翌年にかけて欧州・アメリカを視察した。一方で、多くの弟子を指導し、東京写真研究会、日本光画協会に所属し、写真技術・文化の普及につとめた。 |
4 | 4 |
41 | 久保堅二資料 | 日本画家であった寄贈者の父が描いた頭山満像と印判。寄贈者の父久保厚助は、明治31(1898)年福岡市大工町(現 中央区)に生まれた。幼少期から福岡日日新聞の挿絵画家から絵画を学び、「雪峰」と号し求めに応じて美人画や花鳥画を描いた。86歳で死去した。 頭山満(1855~1944)は福岡出身で、士族結社玄洋社創設に関与した人物。本資料は昭和時代に作製されたものであるが、壮年の頭山を描く。久保雪峰は頭山と面識がなく、写真等を参考にして描いたものと思われる。印判はいずれも「雪峰」と彫られる。一部は昭和13年、14年の年月日が確認される。 |
4 | 4 |
42 | 吉倉慶子資料(追加分) | 平成28年度の追加分。本資料群は寄贈者の祖母・吉倉慶子が使用した昭和時代の足袋・靴下(底部)の型紙および修理器のほか、曽祖母・吉倉ツルの手巻きタバコ巻器からなる。手巻きタバコ巻器は、戦中戦後の極度の物資不足のなかで考案された手製の喫煙道具。ベルトの上に葉となるものを入れ、ローラーで挟み込み紙を巻き付けてつくった。 | 3 | 15 |
43 | 小屋松儀晃資料 | 寄贈者の祖父・小屋松與三吉(よさんきち、刀工名忠重。明治27(1894)年7月14日生、昭和38(1963)年10月19日没、69歳)が45歳の時に鍛刀した刀。大日本刀匠協会(昭和10(1935)年10月設立)主催の新作日本刀展覧会の入賞メダルが一緒に伝えられているので、あるいは本刀がその受賞作品であるかもしれない。與三吉は、後に、福岡県八女地方野鍛冶工業協同組合理事長を務めた。 | 2 | 2 |
44 | 小山田榮資料(追加分) | 平成30年度寄贈小山田榮資料の追加分で鎗身2点。 小山田氏は、江戸時代後期に槍術家であったという伝承が子孫である寄贈者に残されており、福岡藩士大音家に付属した武士だったが、江戸時代後期には槍術や抱え大筒を学んで収得し、幕末・維新期の活躍で明治4年に福岡藩の士籍に入っている。 前回寄贈された資料は、甲冑、陣羽織、槍柄のほか、抱え大筒の免許状などで、今回は前回寄贈資料を補う、鎗柄の穂先の鎗身である。いずれも穂先は短い15センチ程度の直鎗身で、刺突に特化した実戦的なもの。 |
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45 | 福岡藩御料理方髙橋家資料(追加分) | 令和3年度に寄贈を受けた福岡藩御料理方髙橋家資料の追加分。 福岡藩士・髙橋家は、初代七兵衛正次が東蓮寺藩初代藩主黒田高政に御料理方として仕官したのに始まる。黒田高政没後、東蓮寺藩は本藩である福岡藩に一旦還付されたため、以降、髙橋家は福岡藩に仕えることとなった。歴代当主は御料理方として御料理人頭取や同頭取格などを務めた。 幕末期~大正時代の当主・髙橋達は、明治12(1879)年、前年に12才で黒田家の家督を相続した黒田長成が慶応義塾幼稚舎へ入るのに際して、長成と起居を共にして学事を監督し、同19年、イギリス・ケンブリッジ大学に在学中の長成に付き従うため渡英、自らも同大学で理財学を修めた。また、福岡藩政時代を回想した記録「老の回想録」(『近世福岡博多史料 第1集』西日本文化協会、1981年)を著したことでも知られる。 今回寄贈を受けた資料は、黒田長溥の描いた「竹図」など。「竹図」は、高橋達の箱書によれば、イギリスから帰国後、黒田長成が長溥の遺品として達に贈ったもので、表装の裂も黒田家から供されたものという。(髙山) |
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46 | 竹内陽子資料 | 寄贈者の祖母・石橋イチ(1881~1933・西区姪の浜出身)が嫁入りの際に仕立てた布団。自ら織機で布を織り仕立てたと伝わる。布団は井桁紋に貝箱があしらわれている。ハマグリは殻が他の個体と形が一致しないことから貞淑や夫婦和合の象徴とされ、婚礼道具などの図柄に用いられた。戦後、掛布団は寄贈者の母(イチの息子の妻)・セツ子が東京にて現在の形に仕立て直した。イチは、針仕事や機織が得意だったと言われ、旧博多中浜口町で油屋を営んでいた石橋辰四郎に嫁ぐ際には織機を持ち込んだという。辰四郎の生家は今宿(西区今宿)にあり、明治大正期の女性解放思想家・伊藤野枝の母が乳母として石橋家で働いていた。 | 2 | 2 |
47 | 髙宮八幡宮資料 | 南区高宮にある髙宮八幡宮で6月の最終土曜日に行われる夏越祭・獅子まつりにかかる資料。人形(ひとがた)は夏越祭の人形祓いに使用されるもの。御守りは、獅子まつりの際に参加者が身に着けるもので首から下げて使う。 髙宮八幡宮獅子まつりは、江戸時代より夏越祭とともに行われてきたとされ、夏越祭後に、太鼓をならしながら、子どもたちが神輿に乗せた獅子を担いで周辺の家や店に「カドヅケ」に訪れる。「家内安全、無病息災」に続き、「イオーター(祝うた)」と声をかけ、訪問先では神輿の下をくぐる姿が見られる。平成31年度に福岡市登録無形民俗文化財となった。令和3年に文化財活用課との共催事業「おしし、しっとーと?~福岡市の祓い獅子行事~」(令和4年3月15~4月3日)の獅子頭修理記念展を機に寄贈の申し出を受けた。 |
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48 | 森幸次資料(追加分) | 平成27、30年度収集資料の追加分。寄贈者が収集した高取焼の陶器ポンプ(長沼式)や博多人形。 寛保元(1741)年に、福岡藩は小石原の陶工である柳瀬三右衛門に西皿山(現早良区高取)の地で開窯させた。その際、一門の陶工であった長沼、早川、中川、原、樺島も移り住んだ。長沼式の陶器ポンプは、後に長沼氏の子孫が考案したもの。 明治時代以降、高取焼は日用雑器、茶器、置物から産業、建設用と幅広い製品を生産した。中でも陶器ポンプは釣瓶の井戸に代わって形に狂いが少なく、安価であることから九州一帯に普及し、高取焼の主要な製品の一つとなった。 |
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49 | 笠置美枝子資料(追加分) | 令和元年度収集資料の追加分。 豊州炭鉱(田川郡川崎町)の経営者宅に伝わる布団類。豊州炭鉱は明治23(1890)年頃に池尻炭鉱として始まり、その後経営主の変遷と共に宮崎豊州炭鉱、福田豊州炭鉱、豊州炭鉱等と名称が変わり、最終的に上田尊之介氏の経営となる。昭和35(1960)年に閉山。 資料は、閉山後に、田川郡出身であった寄贈者が豊州炭鉱経営者から譲り受けたもの。生地は朱の絹地に鶴と竹梅、紫の絹地に鳳凰と菊・桐の吉祥柄。宿泊などで客をもてなす際に使用していたもの。 |
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50 | 木村和男資料(追加分) | 本資料群は寄贈者が収集した書画からなり、平成21・28年度、令和3年度の追加分である。 今年度寄贈となったのは、書画2点。1点目は、名筆家として知られる博多承天寺113世・龍門円舒(1754~1828)による七言絶句で、大宰府の宝満山を観音菩薩に見立て称えるもの。その背景には、宝満山が古くは竈門山と称し、竈門神社の祭神である玉依姫の本地仏が十一面観音とされたことが影響していると考えられる。仙厓と並ぶ博多の著名僧による書跡としても、また近世後期における福岡の文化の一端を示す資料としても、貴重といえる。2点は「守辰」落款の「楠公桜井駅図」で、儒学者・伊藤東涯(1670~1736)によって享保14年(1729)に着賛されている。「守辰」は福岡藩御用絵師・小方守房(?~1732)の若年期の名乗りにあたるが、若年期の画業や落款書体については資料が少ないため、まだ作者の比定には至っていない。今後の福岡藩御用絵師研究の参考資料として活用が期待される。 |
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51 | Sonoka Fukuma Gozelski 資料 | 本資料群は、寄贈者が2022年8月にアメリカ・ニューヨーク州シラキュース(Syracuse)のアンティーク市で入手した博多人形2件からなる。 ここに含まれる博多人形は、ともに底部に「Hakata Mimasu Dolls Japan」のシールを伴い、戦後まもなく輸出向けに制作されたものと考えられる。福岡では終戦後にアメリカ進駐軍の購買部向けに「PX 人形」と称される日本風俗人形が好評を博し、昭和30年代から40年代まではアメリカのバイヤーとの間で取引がおこなわれるなど輸出も盛んであった。博多の代表的な伝統工芸品である「博多人形」の歴史的な一面を物語る、貴重な資料といえる。 |
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52 | 小金丸昌子資料 | 寄贈者の弟・伊勢田晃嗣(昭和13・1938年生)の誕生に伴い父が誂えた鎧兜。生家のある上奥堂町(博多区御供所町)町内の職人に仕立ててもらったもので、初節供で飾られたほか、櫛田神社で昭和15年10月に行われた「須賀大神御鎮座一千年祭御幸式」における稚児鎧兜の参列に姉・礼子が着用した。その後、晃嗣の長男・治(昭和43年生)に引き継がれ、初節供や櫛田神社の第47回式年遷宮(昭和49・50年)の際にも使用された。 | 1 | 26 |
53 | 兼松隆之資料 | 福岡藩の家臣で幕末期に中老職を務める家格であった、毛利家(3631石余、孫十郎元愛)に伝来した脇差。毛利家の近世文書関係の資料は現在、毛利(レ)文書として福岡市総合図書館に寄託されているが、本資料はレイ氏の弟・故兼松末夫氏に伝えられた。 福岡藩中老・毛利家は毛利元就の弟・元網の家系といわれ、初代元辰が黒田長政に仕えて後、孫の元知、その子元義が御納戸役を勤めた功績で中老に格付けされ幕末に至ったとされる。 資料は、「極メ師光」との銘をもつ脇差。師光は14世紀後半の永和~応永の初期に活躍した、備前長船の刀工・師光がおり、その作とされる。また拵は、鞘が縦にも湯が巻かれ、漆が懸けられた笛巻と呼ばれる細工で保存もよい作品。 |
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54 | 大田文恵資料 | 幕末期~近代にかけて、博多中島町で提灯屋を営んだ伊藤家に残されたギヤマングラス。伊藤家は近世には菱屋の屋号を持ち、福岡藩黒田家御用を勤めたため、このグラスを藩からの拝領した、と伝わっている。本資料が入った箱書きには「壱合入 ギアマン キ 菱喜」と読め、これらは菱屋の伝来品という伝承を裏付けている。当時ギヤマングラスが西洋文物の下賜品として珍重されていたことが窺え、また当時藩は中洲にガラス製造工場などを建設していたこととの関連品である可能性もあり貴重。 | 1 | 1 |
55 | 草場七生資料(追加分) | 所蔵者の実家に伝わった福岡藩士梶原家の家系図。すでに平成28年度に梶原家の甲冑と鐙が寄贈されており、今回はその追加分である。 寄贈者の実家の梶原氏は明治初年に130石を得ていた馬廻組・梶原寛家にあたる。その祖は源平合戦の登場する鎌倉武士・梶原景季で、景季の子が播州に下着し、以後同国内で勢力を保ち、戦国末期から江戸初期の当主・景次が黒田長政に100石で仕えたことに始まり、以下幕末維新期の寛(影英)まで続いた。 |
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56 | 大山宣夫資料 | 寄贈者宅に伝来した大正時代~昭和時代の政治家中野正剛の書。中野は明治19(1886)年に福岡市に生まれ、県立中学修猷館を経て明治42年に早稲田大学を卒業した。その後は東京日日新聞社、東京朝日新聞社で記者となり、大正7(1918)年に雑誌『東方時論』の経営者となった。大正9年に衆議院議員に初当選し、以後8回連続当選した。当初は無所属だったが、革新倶楽部、立憲民政党、東方会などに所属した。新体制運動を推進して大政翼賛会総務となったが、翼賛会改組に反対して辞任。昭和17(1942)年の翼賛選挙には非推薦候補として当選した。東条内閣の官僚統制に反対姿勢を取り検挙され、昭和18年10月に死去した。 本資料は寄贈者の父(佐賀県出身)が福岡市内で会社を経営していた昭和戦前期・戦中期に入手したもの。中国唐代の詩人韋応物の漢詩の一節を書く。 |
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57 | 池田節子資料 | 寄贈者の家で使用されていた菱足とよばれる博多鋏。博多では、夏の時期に各町内にある神仏の夏祭り(千灯明や地蔵盆など)が行われており、なかには有志が品々を持ち寄って福引をしている町(赤間町の寿福院など)があった。本資料は、桶屋町(博多区御供所町)出身の寄贈者が幼少期(昭和20年代)に自身もしくは家族が夏祭りの福引の景品としてもらったもの。鋏は、裁縫時など日常使いの道具として使用された。また鋏は「宇」の刻印があり、鋏の入手年代を考慮し、髙栁商店(博多区冷泉町)の髙栁宗一郎の製作と考えられる。 | 1 | 1 |
58 | 柴田邦夫資料 | 太郎飴本舗西新支店(早良区西新)で使用された飴切鋏。類例として松尾孝司資料(令和3年度収集)の博多鋏の飴切鋏がある。寄贈者が店主を務めた同店は、松尾孝司氏の生家・太郎飴本舗 松尾商店(旧博多櫛田前町ほか)から昭和29(1954)年4月にのれん分けし、平成3(1991)年3月まで営業を行っていた。本資料は、鋏の形状等から博多鋏の飴切鋏と考えられる。また、博多鋏の製造技術保持者であった髙栁晴一氏が保管していた資料によると、髙栁家では定型の3種以外に古賀商店形、阿部商店形など各飴屋専用の飴切鋏を製作していた。これまで飴切鋏の現物は前述した松尾孝司資料(追加分)のみが確認されていた。 | 1 | 1 |
59 | 深川克彦資料 | 博多の東端を流れる御笠川(通称「石堂川」)にかかる石堂橋付近にまつられている石堂地蔵尊(博多区千代)の地蔵祭り(8月23・24日)の際に、堂前の通りに飾られていた「大灯籠絵」。同地では「トウロウエマ」「エマ」と表現される。同地の「大灯籠」の歴史については詳細は不明である。市営千代大学通住宅建設以降、「大灯籠」。は飾られていない。石堂地蔵尊は、仏教説話「刈萱道心行状記」の主人公・石堂丸(加藤繁氏)の父・加藤繁昌が、香椎宮(東区香椎)に子授け祈願をして、夢枕に現れた神のお告げに従って訪れたところで、霊石を授かった後、石堂丸をもうけたという伝承がある。本資料には先述した地蔵尊の由来が描かれている。市営住宅建設以前の千代校区の各町内で飾っていた「大灯籠絵」では唯一現存が確認されているものであり、市内最小の「大灯籠絵」。 | 1 | 1 |
60 | 西嶋竹廣資料 | 西区姪の浜3丁目2区町内(旧宮前町)で飾られる注連縄。注連縄は、毎年6月30日に同町内で行われる「姪浜の獅子まわし」の際に町内の住吉神社でお祓いをし、行事後に各戸に配布される。各家では6月30日以降に取り付け、1年間そのままで過ごす。 「姪浜の獅子まわし」は、福岡市内で6~7月頃に夏越の祓いの祭りに併せて行われる、主に近世から近代にかけて地域に定着、継承されてきた祓い獅子行事のひとつ。平成31年度に福岡市登録無形民俗文化財となった。令和3年度に文化財活用課との共催事業「おしし、しっとーと?~福岡市の祓い獅子行事~」(令和4年3月15~4月3日)の獅子頭修理記念展示を機に寄贈の申し出を受けた。 |
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61 | 上魚町 城地蔵尊保存会資料(追加分) | 平成14年度の追加分。本資料は、旧博多上魚町(博多区上呉服町)にある 城地蔵尊の御札。毎年30~40枚ほど正月に版木を摺ってつくられ参列者に配布される。資料は令和3年度のもの。1年間神棚などに貼り心願成就を願う家もある。 葛城地蔵尊は、延喜年間(901~923)地中より発見された梵字が刻まれた石を、富士見坂(糸島富士がみえる場所)の地に祀ったといわれている。後年、参拝者の信仰を得るために立像が製作されている。昭和33(1958)年、市道拡張にともない現在地に地蔵堂が移った。以前は旧上魚町の住民によって祀られてきたが、町内の環境変化を受け平成5(1993)年に保存会が設立、現在に至る。現在でも正月、5月、9月の地蔵の縁日(24日)に法要が行われている。 |
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62 | 東田敬子資料 | 本資料は、筑前琵琶奏者の高峰筑風(1879-1936)に師事した寄贈者・祖父(明治20年生まれ)が所有していた筑前琵琶。その後、筑前琵琶奏者の中村旭園(1917-2021)に師事した寄贈者の母に受け継がれ、平成時代初期に工房で修理を施した。工房は不明。 筑前琵琶はもともと盲人の僧が琵琶を奏でながら経文を唱える「盲僧琵琶」として始まり、明治時代中期に語りと芸能向けの「筑前四弦琵琶」が生まれ、さらに明治時代後期から大正時代初期にかけて「筑前五弦琵琶」が発明された。本資料は四弦の筑前琵琶である。 |
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63 | 中村由美子 ・ 島本脩資料 | 本資料群は、八女郡広川町で久留米絣問屋を営んだ中村家に伝来した屏風1件からなる。中村姓で最後の所有者となるのはフミ氏だが、フミ氏の娘で他家へ嫁いだ由美子氏と、フミ氏の甥でフミ氏の生家である島本家を継いだ脩氏が、補修を施しながら大切に保管していた。 本資料は6曲1隻の銀地押絵貼屏風で、第1・2・3・5扇に亀井少琹画賛「四君子図」、第4・6扇に亀井少琹画・雷首賛「葡萄図」「松図」を貼り込む。おそらく元は別個に揮毫された作品が、いつの時点かに、吉祥性を企図して合装されたものと考えられる。江戸時代後期の筑前で活躍した亀井少琹および雷首の保存状態の良い作例として貴重な資料である。 |
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64 | 河野麻知子資料 | 肥前鹿島鍋島家の出身であった寄贈者の曽祖母・慶(鍋島茂彬六女・1897~1981)が大正5年(1916)に福岡市の河野家に嫁いだ際に持参した人形1件。 はいはいをする乳幼児を象ったこの人形は「這子」と呼ばれ、「天児」とともに日本の人形の古い形式を伝える。『古事類苑』所収「御産之規式」によれば、頭体は白い練絹に綿を入れて糸で縛ってつくり、目鼻を筆で描き、衣装を着せるものとされる。また子の誕生時に縫い、僧侶などの加持祈祷を経て子どもの枕元に魔除けとして置かれるほか、女性が婚礼に際して持参し一生涯身の回りに置くものとされた。本資料は上記規式に即して制作・使用されたもので、立てて飾るための支え棒と畳が付属している。来歴の明らかな旧大名家ゆかりの資料として、また人形史や、女性の人生儀礼にまつわる伝統文化を物語る資料として、貴重なものといえる。 |
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【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 松田好喜資料(追加分) | 30年以上前に玄界島沖西方約2kmの地点で底引き網にかかって引き揚げられた石製の片口鉢。 蒙古襲来の際の元軍の船が発見されたことで有名な鷹島海底遺跡(長崎県松浦市)に4点類似する資料があるほか、時期の近い韓国の新安沈没船資料の中にも類品がある。蒙古襲来等に関わり博多湾に沈んだものである可能性が考えられる。ただし、鷹島海底遺跡資料に比べ本資料はやや小型で、底縁部が角ばっている点なども異なる。また、類似資料がもつ特徴にもそれぞれバリエーションがあり、全ての特徴が一致する例はないため、今後も類似資料の捜索などを通して、本資料の年代なども検討していく必要がある。 なお、中世の貿易都市遺跡として知られる博多遺跡群には、類似する資料はみられない。 |
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2 | 幻住庵資料 | 博多・聖福寺の塔頭の一つ、天目山幻住庵が所有する梵鐘。 鐘身に袈裟襷文をあらわさず、単頭の龍頭とする模造朝鮮鐘。鐘身に2つの陰刻銘文があり、元禄2年(1689)に香椎廟(香椎宮)の梵鐘として磯野慶貞・慶永・正慶によって鋳造され、明治2年(1869)に神仏分離により、幻住庵の檀度奥村氏が浄財を喜捨し、幻住庵に施入したことがわかる。近世の博多鋳物師の手になる佳品として、また現在はほぼ散逸してしまった香椎宮の仏教遺品として、非常に貴重な資料である。 磯野氏は中世の芦屋鋳物師の系譜を引く代表的な博多鋳物師。慶貞はその2代目で、慶長年間(1596~1615)に黒田長政の命により英彦山の三所権現像を制作している。ただし、慶貞は貞享4年(1687)に没しており、完成後に子らが父の名を刻んだとみられる。 慶永は慶貞の嫡男、正慶は次男で、それぞれ本鐘と同形式の博多聖福寺鐘、太宰府戒壇院鐘を鋳造している。なお、追刻銘も慶貞の後裔で、後に福岡市長を務めた磯野七平が記している。 |
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目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 筑前福岡藩早良郡西新町城野家文書 | 江戸時代後期の早良郡西新町の商家・鰯屋(城野家)の文書。西新町は唐津街道沿いの町場で、商人居住の商業地として栄えたが、支配上は郡方支配の村として扱われた。鰯屋は明治期まで乾物商売に関係していたが江戸期には町や村の借財整理などに絡んでいるため、質屋などの金融業も兼ね、土地集積なども行っていた可能性がある。文書の大半は、鰯屋文蔵と次代・平助が藩から受けた褒状で、文蔵代には捨て子養育や災害年の相互扶助などに対する沙汰書付から、西新町借財仕組、藩への献金・献米銀に対する料理頂戴、松原出仕御免などがあり、大庄屋格・城野の苗字御免の待遇になった。平助代は、捨て子養育や居村の貧民救済での米等差出、地下普請出資、村借財仕組などで、脇差御免の待遇となる。なお平助が明治9年(1876)、学校設立などで県へ献金している文書が、現時点では最後のものである。 | 28 | 28 |
2 | 石里洞秀関係資料 | 江戸時代後期の福岡藩御用絵師・石里洞秀の作品および肖像画。なお先行研究によって石里洞秀は父子二人存在することが知られるが、本件はすべて二代目洞秀(以下、洞秀)に関する資料である。 ここに含まれる洞秀作品は、雅号などから画業の中~後期の作とみられる。これまでの所蔵資料は画業後期の作例が多かったため、洞秀の画業中期~後期にかかる署名や画風の変遷を考えるうえで有用な資料となることが期待される。また「蛙図」は比較的カジュアルな画題・画体の作例として、洞秀には珍しい作例であったことを付言しておく。 残る洞秀の肖像画は、蕙志斎秀川美純の作。画歴不詳ながら通字より洞秀弟子筋の人物と考えられ、特筆すべき点として、洞秀の享年を記すことが挙げられる。これまで洞秀は生年不詳とされていたが、画中墨書の享年から従来よりも確からしい生年が逆算でき、ここから数多くの行年書き作例の制作年が推定できる。作者の詳細をはじめ研究課題は多々あるが、福岡藩御用絵師研究への活用が見込まれる一幅である。 |
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3 | 絵画 | 5 | 7 | |
4 | 書跡 | 1 | 2 | |
5 | 古文書 | 1 | 1 |