令和5(2023)年度収集 収蔵品目録 41
【寄贈】
| 目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 林信博資料(追加分) | 平成28・29・30・令和元年度寄贈資料の追加分。 本資料群は主に福岡市内の飲食店等で配布されたマッチ箱や絵葉書等からなる。配布元は喫茶店、クラブ、キャバレー、ホテル、定食屋など多岐にわたる。 林氏は、黒崎駅前(北九州市八幡西区)で時計店を営み、同地で創業した先々代は、後に先代に店を譲ると、新たに同区筒井町に釣具店を開いた。本資料群は、釣具店を開いた先々代が収集したコレクションの一部とみられる。 |
1157 | 1295 |
| 2 | 野村昌弘資料 |
旧福岡藩士・野村家に伝来した古文書、絵画などの資料群。 野村家は、黒田家の草創期を支えた黒田二十四騎のひとり野村祐勝を祖とする。江戸時代を通じて家格は中老で、歴代当主の多くが家老職を務めた。 本資料群のうち古文書では、黒田忠之(福岡藩2代藩主)・孝政(後の長興、秋月藩初代藩主)・高政(東蓮寺藩初代藩主)からの書状などがあり、野村祐春の次男が秋月藩4代藩主になっている関係から秋月藩3代藩主・黒田長軌からの書状なども見える。なお、江戸時代の古文書については、昭和50年代から調査が行われ、一部が『福岡県史』などの自治体史編さんに利用されている。 近代以降の資料では野村家の経営に関する資料が多く、明治時代後期の黒田家とのかかわりや黒田奨学会の評議員や県会議員として活躍する様子がうかがえる資料がある。書籍類の中には「筑紫新聞」が創刊号から35号まで断続的に残るなど、福岡の明治時代の出版状況を知ることができる資料も含んでいる。 また、野村祐勝が黒田如水から拝領した鞍や江戸時代後期の当主4名の肖像画などの工芸品や絵画資料などもある。 |
936 | 1105 |
| 3 | 佐々木滋寛資料(追加分) | 令和4年度寄贈資料の追加分。 本資料群は、松源寺(博多区千代)の10代住職・佐々木滋寛(1899~1976)が撮影した福岡市とその周辺の民俗写真や収集した絵葉書類からなる。 同氏は昭和3(1928)年から松源寺の住職を務める傍ら、民俗学者柳田國男の影響を受け、昭和4年に九州土俗研 究会を立ち上げ、様々な媒体で郷土の文化を発信し続け、福岡の民俗学草創期を支えた人物である。 民俗写真は主に昭和30・40年代に撮影されたものが多く、内容は各地の民俗行事や市内の街並み、旅先の記録など。絵葉書類は昭和戦前期に作成されたものが多く、内容は博多祇園山笠をはじめ、昭和時代初期の記念絵葉書や十二支の年賀葉書などである。 |
664 | 664 |
| 4 | 平井嘉樹資料 | 福岡藩士で糟屋郡篠栗村に在住した平井家に残された、近世文書や武具、近世・近代書籍、地図類などからなる資料群。 平井家は戦国期には八杉氏を名乗り、黒田家家臣の母里家とも縁戚で、のちに美作国から筑前に移り、福岡藩初代藩主黒田長政の時代に300石で召し抱えられた。その後一族の内から帰農した家が、糟屋郡篠栗村に居を構えて旧姓の平井を名乗る。鉄砲による猟に優れていたため、宝永年間に4代藩主黒田綱政によって召し出され、御猟の際には御薬込御側役を務めた。のち、藩の重臣久野家から養子を迎えたつながりから、在宅のまま御山目付、御開奉行、郡目付などを歴任している。 資料の内容は、近世資料では平井氏がつとめた職務の手控え類のほか、久野氏から入った平井一快の日記や俳諧関係の資料を含む。職務関係では洞海湾の埋め立てに関する絵図類が多く含まれている。書籍では、藩主黒田家の歴史や系譜類のほか、武功物や軍記物などが多く、それに併せて各地の城郭図などの写しが残される。この他に近代の教科書類、謡本などがあり、武具は鎖帷子型の簡易兜などがある。 なお、平井家の系図や屋敷図等、家の歴史に直接関する近世資料や刀剣、鉄砲類、4代藩主から拝領した画巻類は、令和元年度に本館が寄託を受け、本年度にも追加の寄託を受けている。 |
463 | 700 |
| 5 | 日高正幸・井上直樹資料 | 寄贈者らが、昭和40年代前後に、福岡市内各地(東区上和白、同雁ノ巣、同部木、西区野方、博多区板付など)のほか、福岡県小郡市や佐賀県多久市、伊万里市などで採集した石器を中心とする資料群である。旧石器時代・縄文時代を中心に弥生時代に至る石器・剥片など298件 379点、石材原石等22件217点、縄文時代以降の土器・土製品・陶磁器等16件16点、玉類7件16点からなる。 旧石器時代の石器には、ナイフ形石器のほかに、尖 頭器、彫器、削器、台形石器、握斧、細石核などを、 縄文時代の石器には石鏃や剥片石器などを含む。これ らのうち、東区雁ノ巣や部木で採集した石器の一部は、藤木聡2012年「海の中道~奈多砂丘採集の旧石器・縄 文時代資料の紹介」(『市史研究ふくおか』第7号)、および、国平健三・井上直樹1972年「福岡県部木遺跡出 土の石器」(『考古学ジャーナル』70号)に発表されて いる。また、長崎県壱岐市、松浦市牟田、佐世保市針尾島、同淀姫、大分県日田市などの九州各地の黒曜石原石も含まれており、福岡県出土の黒曜石製石器の産地同定にも有効である。 |
343 | 628 |
| 6 | 松本須美子資料(追加分) | 令和4年度寄贈資料の追加分。 松本家は、系図によると紀伊国出身であるが、織田信長に敗れた後流浪し、天正7(1579)年、播磨国姫路で松本勝重(光勝)が黒田家に仕えたとする。勝重の後は長男・勝良(市郎右衛門家)と次男・利勝(主殿家)の 2家に分かれ、以後、両家の歴代当主は福岡藩の船手頭を務め水軍を掌った。 本資料群は次男家に伝来したもので、江戸時代前期の解除船・破損船の書上や弘化4(1847)年9月に藩主が長崎を巡見した際の御用日記、幕末期の海軍伝習の関係資料など船手に関わる文書に加え、明治時代以降の資産に関わる書類などが含まれている。 |
309 | 362 |
| 7 | 仲田鞠子資料(追加分) | 平成30年度寄贈資料(書籍)の追加分。 今年度寄贈分は、寄贈者の父中島惣吉氏が収集した絵葉書、書類などの近現代資料からなる。中島氏は大正2(1913)年に福岡市で生まれ、県立中学修猷館、早稲田大学を経て三井金山に入社した。朝鮮半島に居住していたが、昭和20(1945)年に引揚げ、以降も三井鉱山、三井松島に勤務した。平成28(2016)年に亡くなった。中島氏の資料収集は定年後に始まったという。なお、中島氏収集資料の一部は平成29年度に当館に寄贈されている(中島栄二資料)。 本資料群中には、福岡市に関する大正時代から昭和時代の絵葉書のほか、昭和時代戦前期における福岡県の衆議院選挙に関係する文書などが含まれる。絵葉書の中には包紙が残るものもあり、揃いの状態を保持している。 |
299 | 303 |
| 8 | 黒田長久資料 | 本資料群は、旧福岡藩主黒田家の子孫で、親子2代にわたって鳥類の研究をした黒田長禮(1889~1978)と長久(1916~2009)に関わる資料。主な内容は、長禮の著した図書、および長久の描いた鳥類の絵である。 黒田長禮は、東京帝国大学および大学院を卒業し、鳥類学で学位を取得。宮内省狩猟官などを務める傍ら、日本鳥学会の会長となり鳥類の専門書を多数著した。黒田長久は、東京帝国大学で鳥類学を修め、戦後にGHQ水産局野生生物課や米軍の研究機関で技術顧問を務めたほか、山階鳥類研究所の所長を務めた。日本画も学んだ長久が描いた水彩画やスケッチ類は、『鳥類原色大図説』や『鳥の詩 黒田長久・鳥画集』の刊行などに活かされている。 |
256 | 256 |
| 9 | 石橋啓延資料(追加分) | 令和4年度寄贈資料(近世書跡・絵画)の追加分。 石橋家は江戸時代後期に早良郡姪浜村(現 福岡市西区)で廻船問屋、酒造・醸造業を営んだ商家であった。石橋家は同村内の商家早船家と姻戚関係にあったため、同じく早船家と姻戚関係のあった福岡藩の儒学者亀井家の関連資料が伝来していた。その主要なものは「石橋(観)文書」として『福岡市歴史資料所在確認調査報告』(福岡市立歴史資料館、1982年)に収録される。また、石橋家に関する資料は親族によって当館に平成9・17・28・ 30年度に寄贈されている(石橋善弘資料)。 今年度分は、明治時代から昭和時代戦前期における石 橋延三に関する文書、書類、写真、絵葉書などからなる。石橋延三は早船家の出身で、陸軍薬剤官などをつとめた。本資料群中の文書の日付から昭和8(1933)年ごろ石橋 家の養子となり石橋姓を名乗ったと思われる。文書は土 地、金銭関係の証書、書簡などがあり、書簡は平野国臣 や野村望東尼の伝記を著した郷土史家春山育次郎(1866~1930)のものが多い。 |
179 | 859 |
| 10 | 樋口庄造資料 | 寄贈者が撮影した国鉄筑肥線博多駅から姪浜駅までの区間の駅舎およびその周辺の写真。 国鉄筑肥線は、大正時代から昭和10(1935)年にかけて北九州鉄道が敷設した博多 - 伊万里間の鉄道路線が昭和12年に国有化されて成立した。昭和58年に筑肥線は福岡市地下鉄空港線と相互直通運転を開始し、博多 - 姪浜間は廃止された。 本資料群の写真は、筑肥線博多 - 姪浜間の廃止を聞いた寄贈者が、昭和53年から55年にかけて同区間駅舎および周辺を散策して撮影したものを、平成26(2014)年に写真展開催にあたって紙焼きしたものである。被写体は駅舎、線路、踏切、車両にとどまらず駅員や駅利用者、鉄道設備周辺の歩行者にも及んでおり、鉄道だけでなく広く沿線の人々のくらしを記録している。本資料群には写真のほか、ネガ、乗車券(硬券)なども含まれる。 |
142 | 151 |
| 11 | 西村長實・楢崎久矩資料(追加分) | 平成13・17・22・26・令和4年度寄贈資料の追加分。 江戸時代後期から近代にかけて、福岡市西区今宿で酒造業、醸造業を営み、戦後は西村長臣氏が最後の今宿村長を務めた西村家に伝来した資料群。 これまで、近世・近代の経営関係の文書や俳句などの文芸関係資料、教科書その他の教育書籍、さらに甲冑類の寄贈を受けている。今回は令和4年度分と同じく今宿海岸の同家倉庫に一括保存されていた資料群で、①甲冑類、②明治時代前~中期の酒造・醤油倉庫建て増しや昭和時代前期の家屋新築などに関する近代文書、③幕末から明治初年の西村家で学ばれた東山流華道の免状類と昭和時代戦後期の華道師範に関する記録類、及び博多虚無僧寺である普門寺一朝軒による尺八免状など。 ①と②は従来の寄贈資料を補う資料。③は平成17年度寄贈の江戸時代以降の俳諧関係資料と併せて、西村家が今宿周辺における政治・経済活動だけでなく、文化的な活動においても重要な役割を担っていたことをうかがわせる資料。 |
128 | 171 |
| 12 | 鈴木健彦資料 | 寄贈者の曾祖父鈴木市太郎に関する文書、軍服、勲章などからなる資料群。 鈴木市太郎は明治5(1872)年静岡県に生まれ、大工となった。明治28年に海軍に志願し木工となる。日露戦争および第一次世界大戦に従軍した。大正7(1918)年予備役編入。昭和28(1953)年没。 本資料群は、鈴木市太郎の履歴書、辞令書、勲記などの文書が多くを占める。また、勲記に対応する各種勲章類のほか、軍服、軍刀、日露戦争記念のガラス瓶などを含む。 |
90 | 92 |
| 13 | 半田郁子資料(追加分) | 令和3年度寄贈の追加分。 半田家は江戸時代後期に福岡藩に仕えた利惣から始まる。利惣は明治3~4(1870~ 71)年の福岡藩贋札事件に関わり、事務方の一人として名前があがる。一時、福岡を離れるが、明治10年代初めに帰福し、西中洲の地所を取得している。また、利惣の子寅太郎は郡会議員を務め、孫の盛次郎は一時中国の企業に勤務した。前回の寄贈品は半田家伝来の甲冑、什器、絵画、書跡、書籍など多種のものが含まれている。 今回は前回保留分となる。「百人一首色紙帖」は半田 利惣の所持品として明記された、利惣関連唯一の資料。 各色紙の右上には三条西実条、青蓮院尊純、飛鳥井雅胤、八條院智仁など、桃山時代~江戸時代前期の皇族、公家、門跡などの名前が記された札が貼られ、江戸時代前期の 古筆鑑定者である2代古筆了栄の極印「琴山」が押される。 書籍では、明治37~38(1904~05)年の日露戦争時に、博文館から出版された写真入りの実況雑誌「日露戦争実 記」やその特集号がある。ほぼ全号に近い冊数がそろっ ており、博多の書店から半田寅次郎が定期的に購入していたとみられる。 |
83 | 83 |
| 14 | 甲斐英雄資料 | 寄贈者が小学校で使用した教科書などの教育関係資料。 寄贈者は昭和31(1956)年福岡市内に生まれ、同38年に福岡市立住吉小学校に入学した。同年中に転居し、別府小学校に転校する。昭和39年4月に原小学校七隈分校が開設され、同校に通学することとなった。同校は翌年 4月七隈小学校となる。 本資料群中には、小学校1年生から6年生までの国語、算数、理科、社会、体育、図画工作、音楽の教科書がある。また、長期休業用の教材である『夏休みの友』『冬休みの友』のほか、絵日記を含む。 |
70 | 74 |
| 15 | 高倉輝雄資料 | 福岡藩の江戸詰(定府)の家臣だった、高倉家の近世文書、絵画・書跡資料。 高倉家は、文化14(1817)年の分限帳で6石2人扶持の高倉留三郎が確認できる。高倉家に残された系譜によれば、高倉天皇の末裔と言い伝わり、筑前遠賀郡高倉村(現 遠賀郡岡垣町)に居住し、江戸時代初期には小早川家に1000石で仕え、浪人の後、黒田長政に仕えた。貞享3(1686)年からは定府の家臣となり、慶応年間まで続いている。 資料内容は近世資料としては、①高倉家系図や由緒書類、各時代の当主等の霊位年忌の表、黒田家の由緒記、後期の藩主事績書き抜き、幕末の様々な幕府沙汰書、風説書写し、幕末当主静衛の福岡までの帰路船中日記などがある。このほか、夫婦や女性の生き方をいろは和歌に仕立てた処世訓なども含む。 近代資料としては、明治8(1875)年に黒田家が明治天皇の臨幸にあずかった後、旧福岡藩主黒田長溥が下した筑前人民への謹書などがある。その他、高倉家は日蓮宗信者であったためか、加藤清正履歴抜書、宗旨に関する檀那寺関係文書などを含む。書跡では楠木正成関係の拓本類のほか、漢詩一行書などの墨蹟を多く含む。 |
67 | 69 |
| 16 | 御田伴廣資料(追加分) | 御田家は、系図および由緒書によれば、香椎宮創建時に香椎廟司(香椎大宮司)に補された膳大伴宿祢範綱(初め友綱)を祖とするという。範綱は大中臣氏、武内氏、清原氏とともに香椎廟司四党の一人として神事を務めた。歴代は大宮司に任じられ、応永3(1396)年以降は権大宮司を務めた。江戸時代に入り、天和3(1683)年8月、福岡藩3代藩主黒田光之が香椎宮に社領80石を寄進した際、御田家は8斗を領すこととなった。また、この時以降、香椎宮の神官は上官・中官・下官に分けられることとなり、御田家は中官に列した。 本資料群には、明治時代に香椎宮の禰宜を務めた御田範廣関係の祝詞や辞令などが含まれる。また、寄贈者が以前居住していた「六月田」(福岡市中央区高砂付近の旧町名)で、住吉神社の祭礼を町内で行った際に使用された法被などがある。 |
64 | 69 |
| 17 | 保坂晃孝資料 | 寄贈者の義父で福岡日日新聞社、西日本新聞社の記者保坂晃孝氏(1942~2022)と、その父で九州日報、西日本新聞社の記者孝氏(1907~1996)の資料。 晃孝氏は、在職中から博多の歴史文化を重点的に取材し、当館の特別展「山笠の力 ハカタウツシ」では図録『博多祇園山笠大全』の執筆も一部行っている。退職後も『博多祇園山笠振興会記念誌』の編纂、博多を語る会や博多謎々の会、博多町人文化連盟などの会員として郷土史研究を続けた。資料は、博多祇園山笠・天神一丁目(飾り山笠のみ)より参加した際の当番法被、各会の活動写真などからなる。 また孝氏は、田川市出身で旧制長崎高等商業学校卒業後に九州日報に入社。その後西日本新聞社に勤務した。資料は、昭和時代初期の福岡県隊区将校団の団員名簿、福岡日日新聞社の沿革と概要が掲載された昭和時代戦中期の小冊子などからなる。 |
63 | 63 |
| 18 | 高橋愼二資料 | 寄贈者が、昭和50年代に、福岡市内各地(西区野方、 同羽根戸原、東区奈多、同三苫、早良区重留、同小田部、南区老司大池、同野多目池など)で採集した縄文時代~弥生時代の石鏃41件41点を中心とする資料群である。ほかに、旧石器時代のスクレイパーである可能性が高い石器2件2点、縄文土器片4件4点を含む。 これらのうち、西区野方4丁目で採集された多彩な石鏃群は、寄贈者自身が雑誌『地域相研究』第25号(1997年刊行)掲載の「福岡市野方四丁目遺跡採集の旧石器資料」において図面とともに紹介している。また、東区奈多砂丘周辺で採集された石鏃は、これまで発掘調査等でも出土資料が少ない希少なものである。 寄贈者は、福岡旧石器文化研究会の会長を務め、長年にわたり福岡の石器研究を続けている。 |
57 | 73 |
| 19 | 藤井高任資料 | 旧福岡藩士藤井家に伝来した武具・甲冑、軍装、刀剣、および古文書、古写真など。藤井家は初め豊後の垣見氏に仕えていたが、関ヶ原合戦の際に黒田如水へ降ったのを機に初代一光が黒田家に500石で仕えた。福岡藩2代藩主黒田忠之の時に浪人となるが、京都で医家として名声を得て、4代高任が3代藩主光之へ帰参し、1500石を与え られた。その後、分家などを出すが、今回対象となった 藤井家は大組に属して町奉行などを務めた。幕末には荒 戸通町(現 福岡市中央区荒戸)に屋敷を構え600石を得 ていた。9代仙成は11代藩主長溥の側近を務め、10代一寛 は戊辰戦争などに従軍した。なお、一寛は東京大学史料 編纂所に勤め、黒田侯爵家の歴史編纂にも関係した歴史 家・藤井甚太郎の父で、寄贈者は藤井甚太郎の孫にあたる。 資料は、藤井家伝来の甲冑、刀剣のほか、采配、軍扇、家紋入りの旗指物などの軍旗、陣羽織などの軍装で、ほかに火事装束(羽織、胸当て)などが含まれる。 古文書は系図のほかに近代の親族関係に関わる記録類、写真類には一寛の戊辰戦争時の洋式軍装や晩年のガラス 写真原版、9代仙成の時に婚姻関係を結んだ家老立花家、野村家などの親族写真がある。このほか家宝とされたお 守りの珠類も含まれる。 すでに本館では、昭和58年度に藤井家資料(近世、近代文書)、63年度に藤井甚太郎関係資料(福岡藩関係の歴史研究書籍類)などを収集している。 |
55 | 55 |
| 20 | 吉村美惠子資料 | 福岡市中央区谷にある国登録有形文化財「吉村家住宅」に残された江戸時代の武具や近世・近代にわたる絵画、書跡資料。吉村家住宅は、寄贈者の祖父吉村磯太郎氏が大正13(1924)年頃に隠居所として建てたもので、同氏が昭和12(1937)年に死去した後も、吉村家の所蔵品を保管してきた。 吉村家には江戸時代以前の系譜が残されていないため、福岡藩士としての活動は不明であるが、明治期に磯太郎氏の父謙吾氏が当時の鳥飼村長から「共有物請負人」に任命され、磯太郎氏も鳥飼村南部の土地整備などに尽力したこと、旧家臣団の団体である報古会員であったことなどから、安政期の分限帳に見える鳥飼居住の城代組吉村伝右衛門(8石3人扶持)の一族と推測される。 資料には、器物として家紋入りの陣笠2頭、和鏡などが含まれる。絵画には、福岡藩御用絵師石里洞秀による鯉図のほか、背振山弁天図などの宗教木版画、尾形愛遠による武内宿禰図などの木版画がある。近代では、磯太郎氏が南画を学ぶ際に集めた大量の画帖があり、当時鳥飼周辺に居住していた半田鶴城、木村鼓崖、ほかに吉嗣鼓山や出光梅屋など福岡県内で活動した南画家、日本画家の作品が含まれる。 書跡には亀井暘洲の漢詩や男爵野村素軒の書が含まれる。また大正11(1922)年に中国文人と思われる趙南喜(石湖)が「南無阿弥陀仏」の文字によって描いた羅漢像や経文、幕末維新期の尊王攘夷運動の中で流行した中国古典漢文、楠木正成の顕彰文を作成し、磯太郎に贈ったものが確認される。 |
52 | 67 |
| 21 | 大濱流灌頂継承保存会資料 | 福岡市博多区大博町で使用されてきた町の共有具。幔幕、什器、幕箱などで、山笠や大濱流灌頂などの年中行事の際に使用されてきた。共有具の多くは博多の年齢集団・若者組によって製作されている。旧町名である「竪町濱」(江戸時代から明治7年)、「大浜町一丁目」(明治8~昭和41年)の文字が見え、町名の変化を知ることができる。 資料中の幔幕にある「あやめ図幕」は、博多では「大浜といえばあやめ」と表現されるほど知られた図柄で、町を象徴するものであった。製作した幔幕(明治2、28、32年)やのれん幕(明治29年)にその図柄が継承されている。資料のうち幔幕11張、幕箱2点、シッポク台は昭和33年に福岡県指定有形民俗文化財に指定されている。類似の資料としては奈良屋町若者組道具(市指定有形民俗文化財・館蔵)がある。 これまで共有具を保管していた旧大浜公民館が解体されることになり、文化財を後世へ伝えていくために博物館に寄贈されることとなった。 |
45 | 45 |
| 22 | 山内信尚資料 | 旧福岡藩士山内家に伝来した甲冑、馬具、刀剣類。山内家は福岡藩6代藩主黒田継高の時に山内小右衛門が城代組12石3人扶持で取り立てられ、江戸詰(定府)の家臣となる。安政期(1854~1860)の分限帳では110石、馬廻組と記載され、明治初年の分限帳では薬院町に居住する山内卯八郎(信造)が120石を拝領していたことがわかる。 内容は、武具では甲冑や采配などのほか、寛永17(1640)年の銘のある鞍および付属の馬具などがある。 刀剣は、「備前長船祐定」の銘を持つ鎧通しや脇差、短刀 など計6振、大身槍1振を含む槍身3振などで、槍柄も残る。刀剣類は寄贈者の祖父で昭和時代前期の当主山内麓氏によって近時まで管理されていた。他に小型の鉈型武器や重藤弓がある。 また、十文字槍や直槍など様々な穂先の形を持つ槍、長刀といった長柄武器のミニチュア風の武具と、これらを立てて飾る木製台がある。 |
32 | 32 |
| 23 | 大鶴家資料 | 旧福岡藩士大鶴家に伝来した甲冑と書跡、絵画類。大鶴家は、家に残された書類によると、福岡藩3代藩主黒田光之の時に大鶴五右衛門が仕官したとされ、寛文期の分限帳には3家の記載がある。その他、文政8(1825)年に大鶴幸太夫に宛てられた弓術免許があり、天保期分限帳とあわせてみることで「無足組17石4人扶持」を得ていたことがわかる。また、明治初年の分限帳には大西東枕丁に移っていた大鶴一(光之代仕官、19石4人扶持、無足組)が見え、近代以降は糸島郡に移住して寄贈者の母の実家となる。 資料のうち、甲冑は桃形兜と桶側胴具足で、特に兜の前立は金泥塗で和鋏を象った前立と、もう一つ黒漆塗の和鋏の形の前立が残されている。書跡では、水戸藩士と推定される「水府相沢霞浦迪」が、弘化年間に「大鶴雅君」に与えた双幅の書があり、他藩の藩士との交流がうかがえる。絵画では、江戸時代中期の幕府御用絵師狩野愛信洞白の落款をもつ仙人乗鯉図のほか、古代の貴族女性像を得意とした岡山県津山出身の日本画家棚田暁山の作品などが含まれる。 |
23 | 23 |
| 24 | 牛尾昌義資料(追加分) | 令和2年度の追加分。今回は、寄贈者の自宅庭にある薬師堂に奉納された絵馬や祈願文、木札など。 薬師堂の創建については不明であるが、奉納された絵馬には天保10(1839)年のものが含まれ、この頃には堂 が建てられていたと考えられる。安政(4 1857)年の英彦山・守静坊の祈祷札があり、英彦山修験との関りもうかがえる。守静坊は英彦山の研究者・長野覚氏が10代目を務めた英 彦山の坊家・宿坊の一つ。 絵馬や祈願文は天保10年から平成26(2014)年までの ものがあり、祈願の内容は厄除け、心願成就、長寿(高砂)、眼病平癒など。祈願者は牛尾家が中心であるが一部親族 外の名が確認できる。祈願文については令和5年度企画展「小絵馬―祈りと願いの図像学―」で展示しており、展覧会を機に寄贈の申し出を受けたもの。 |
22 | 22 |
| 25 | 濵田正雄資料 | 旧福岡藩士濵田家に伝来した古文書および肖像画などの絵画資料。 濵田家は、伊勢国浜田邑(現 三重県四日市市)出身と伝える。初代濵田五郎兵衛が、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、伏見において黒田長政に仕官し、筑前入国後、知行350石を与えられた。濵田五郎兵衛は、寛永14(1637)年に勃発した島原・天草一揆に出陣し、翌15年2月28日の幕府軍による原城総攻撃の際に戦死した。 五郎兵衛の死後、知行350石は、嫡子作兵衛と次男五郎右衛門が分割し175石ずつ相続した。本資料群は次男家に伝来したものと考えられる。 資料群には、福岡藩2代藩主黒田忠之と7代藩主黒田治之発給の知行充行状と知行目録などの近世文書に加 え、戊辰戦争や佐賀の乱、西南戦争に関係する近代文書、家系図が含まれる。また、濵田五郎兵衛の肖像画(騎 馬像)や黒田二十四騎図、山崎合戦図といった絵画資 料に加え、濵田家に伝来した十文字鎗がある。 |
19 | 19 |
| 26 | 小呂島町内会資料(追加分) | 令和2年度寄贈の追加分。 福岡市西区小呂島で7月15日に行われる「小呂島の祇 園山笠」(市指定無形民俗文化財)の山笠飾り、法被など。令和5年度に福岡市文化財活用課と共同で実施した山笠行事及び山笠飾りの製作にかかる記録作業の際に寄贈の申し出を受けたもので、今回は主に令和2年度に未収 集だったものからなる。 小呂島の山笠飾りは「サカナ(ブリ)」、「ハタ(船名を書いた紙製指物)」、「タバコ」など博多には見られない小呂島独自のものがある。博多祇園山笠の「杉壁」にあたる「カベ」も島に自生するハチジョウススキが使用されている。 これらの山笠飾りは、少子高齢化による人手不足や材料入手が困難になったことから令和6年度より使いまわしを念頭に置いたプラスチック製に変更になっている。 |
18 | 20 |
| 27 | 高宮貝島家資料 | 昭和時代初期に旧高宮貝島家住宅(福岡市南区高宮)で使用されていた五月人形。 旧高宮貝島家住宅は、麻生・安川とともに「筑豊御三家」と呼ばれた炭鉱王・貝島太助の弟である嘉蔵が大正 4(1915)年に直方市で建てた邸宅。その後、太助の三男であった健次が跡を継ぎ、昭和2(1927)年に現在地に移築された。さらに、平成17(2005)年に福岡市に寄附され、平成29年に福岡市登録文化財に登録された。 本資料は、江戸時代の明和年間に京都で創業した「丸平大木人形店」の4代目・大木平蔵(1860~1939)が大正時代末期から昭和時代初期にかけて制作したものと思われる。健次の孫にあたる壽夫(昭和8年生まれ)・明夫(昭和10年生まれ)の初節供の際に三越百貨店で購入したものと伝えられている。 |
18 | 18 |
| 28 | 山本真木資料(追加分) | 令和4年度寄贈資料(教員辞令、講習証書、卒業証書、通告表等教育関係資料)の追加分。 今年度分は、寄贈者の祖父母一家に関する書類。令和4年度寄贈分の関連資料となる。寄贈者の母方の祖父山﨑喜雄は明治32(1899)年福岡県糸島郡前原町(現糸島市)に生まれ、大正8(1919)年に福岡師範学校を卒業し、小学校教員免許を取得した。糸島郡内の尋常高等小学校で訓導をつとめた後、大正14年に台湾での教員免許を得て台北州へ出向した。祖母ミツノ(旧姓池松)は明治37年生まれで福岡女子師範学校を卒業し小学校教員免許を取得、糸島郡内の尋常高等小学校で訓導をつとめたが、結婚に伴い依願免職して台湾に移住して学校に勤務した。 本資料群には、祖父山﨑喜雄と祖母ミツノの台湾教員免許状のほか、ミツノ宛ての辞令書、子どもの種痘済証などが含まれる。 |
17 | 17 |
| 29 | 生田是秀資料 | 旧福岡藩士生田家に伝来した絵画、書跡類。生田家は、黒田如水の家臣で、武勇で知られた生田木屋之介重勝(隅 田小助、元和元(1615)年没)の次男正勝の系統である。明治初年分限帳によると福岡藩2代藩主黒田忠之の代に召し抱えられ、馬廻組200石となっている。明治の当主 は是懿。生田家に残る系譜で確認すると、忠之時に20石 新規に拝領し、光之期に150石の加増を受けている。 その後、各代の当主は浦奉行、足軽頭側筒、本丸御櫓奉行、大奥御用聞といった職を歴任した。江戸時代中期の知篤は、6代藩主黒田継高の息子重政、その弟長経の側役となった。明治時代以降は糟屋郡に居を移している。 資料内容は、絵画では御用絵師尾形洞霄による生田木屋之介重勝像があり、福岡県立美術館の尾形家絵画資料にある白描下絵と構図が一致する。同図には、如水が生田森における小助(木屋之介)の戦功を賞して与えた陣羽織と家紋入りの旗が描かれている。 他に4代藩主黒田綱政の作と伝える笹を持つ若い武士図、11代藩主長溥が描いた竹図と西洋画風の彩色木蘆図などを含む。また、近代の絵画では博多中洲に住んだ四条派の画家荒木墨仙(日本画家水上泰生の師)の作品なども含まれる。 書跡では、黒田重政の7歳時の書「燕」があり、和歌、漢詩など多岐に及ぶ。 |
15 | 21 |
| 30 | 飯田家文書 | 福岡市早良区脇山の飯田家に伝来した古文書。同家の古文書は、文政元(1818)年9月中旬付で青柳種信が直筆で写し取った「早良郡飯田氏所蔵古文書」上・下(当館蔵青柳種信関係資料(山崎家資料)1977・1978号)によって24通の中世文書と系図1点の存在が知られていたが、原本は長らく未確認であった(東京大学史料編纂所蔵謄写本2071.91-29「飯田家文書并系図 全」は、青柳種信写本を写した江藤正澄本を謄写したもの)。本文書群はその原本である。ただし、現存するのは中世文書24通中9通(内1通は写)と系図1点で、その他の15通は、現在、飯田家の手を離れ、所在不明となっている。 飯田家は、室町時代においては、大内氏の早良郡代・安楽平城督が在城した安楽平城(福岡市早良区内野)に城衆として勤番した。弘治3(1557)年、大内氏が毛利氏に滅ぼされると、毛利氏に仕え、飯田筑後守隆朝は弘治3年8月26日付で毛利隆元から長門国豊東郡田部村(現 山口県下関市菊川町上田部・田部)内20石足・同郡大野庄(現 同市菊川町上大野・下大野)内厚中務丞先知行10石足・同当知行15石足を充行われている(No.2)。このことを反映し、家伝の文書は、毛利氏およびその家臣の発給文書が8通を占める(No.2~9)。系図(No.10)によると、隆朝の孫で毛利元就の偏諱を受けた新介就為が文禄・慶長の役で没したとする。江戸時代になると帰農し、安楽平城所在の荒平山の南麓に位置する脇山村に在住し福岡藩の代官下代を務めた(青柳種信関係資料1929号「古文書写」文政12(1829)年11月付青柳種信奥書)。 |
15 | 15 |
| 31 | 永松厚子資料 | 寄贈者の祖父が、福岡県苅田町で炭鉱に勤めていた際に収集した貨幣類。江戸時代のものは寛永通宝と文久永宝。中国銭は清の嘉慶通宝、乾隆通宝を含む。明治~昭和終戦直後の日本銀行兌換券は、5銭、10銭、1円、10円などで、いずれも状態は良い。終戦を境に紙幣のデザインは楠木正成などの愛国的なものから、平和的な鳥類や植物などに変わる様子が見て取れる。その他、明治初年発行の龍20銭銀貨、中華民国及び満州国の貨幣、昭和17(1932)年発行のマレー方面用の日本軍票も含む。 | 13 | 60 |
| 32 | 岩﨑美枝子資料 | 寄贈者の生家「カフェーふじ」(福岡市中央区清川2丁目)の軒先にあった電飾看板、祖母フジヱの調理士免許、祖父音之助の勲記など。 「カフェーふじ」は、フジヱと母徳子が経営していた店で、教員をしていたフジヱが終戦後に新柳町の遊郭だった同家屋で始めた特殊飲食店を前身とする。昭和31(1956)年に売春防止法が制定(33年施行)されるのに伴い、水炊き店「カフェーふじ」へと内容を変更しながら昭和50年代後半まで営業を続けた。電飾看板には「清川社交業連合加盟店」とあり、昭和37~50年代にあった組合に加入していたことが分かる。店舗は老朽化により令和5(2023)年6月に解体された。寄贈者は清川を舞台にした小説「清らかな川の町」で平成25(2013)年に福岡市民芸術祭文芸部門で福岡市長賞を受賞している。 祖父音之助は昭和5(1930)年に佐賀高等学校第十五臨時教員養成所を卒業し、昭和7年に九州大学医学部医学科入学。12年に耳鼻咽喉科教室の副手となった。昭和 11年に召集され(昭和14年『九大医報』)、昭和14年には長崎県下県郡厳原町協立厳原病院に耳鼻科医として在籍している。戦中は軍医としてパプアニューギニアに赴き 29歳で戦死した。昭和17年の官報によると海軍少佐勲六等の叙勲を受けている。 |
11 | 11 |
| 33 | 遠藤龍二資料 | 旧博多横町(現 福岡市博多区下呉服町)の博多織元・遠藤織工場(遠藤織物有限会社)で使用された布見本、博多の年齢集団における老人組・百老会の老人番付、博多祇園山笠の山笠図など。 博多織の布見本は昭和時代戦前期に使用されていたもの。寄贈者の生家である遠藤織工場は、明治39(1906)年に旧博多横町に遠藤次平が創業、以降、次助、文次、嘉汎、龍二と受け継がれ、現在は西区田尻に工場を構えている。 老人番付は明治9年の製作で館蔵資料の中では最も製作年が古い。百老会は博多の老人クラブ博多高砂連以前の老人組で、その活動の在り様が窺える。 山笠図は江戸時代から昭和時代にかけての計5図が伝わる。古いものに寛政7(1795)年に石堂(現 恵比須)流が3番山笠を務めた際のものがある。同年の当番町は金屋町下、標題は「久清軽捷」である。江戸時代後期の山笠は、中央部が細い「鼓」型と呼ばれ、館・岩山・滝などの表現が充実してくるのが特徴。本資料もこの頃の特徴がみられる。当館は、同時期の山笠図として寛政8年の山笠図屏風を所蔵している。 |
11 | 11 |
| 34 | 湯原荘柴田多惠子牧家)資料 | 若宮市の旅館湯原荘に保存されていた資料。幕末期に福岡藩の攘夷派が建設を進めた犬鳴山別邸の板戸と加藤司書関連資料、及び牧家関連の資料からなる。 牧家は幕末期に鞍手郡湯原村で質屋を営んでおり、そこに生まれた佐兵衛(佐平)は21歳となる安政4(1857)年から28歳まで、福岡藩犬鳴山鉄山役所(日原鉄山)に在地任用の下役として務めた。 犬鳴山別邸は元治元(1864)年より建設が始まるが、別邸に関する風評に端を発した、慶応元(1865)年の弾圧で加藤司書、建部武彦などが失脚し一時中断した。その後、建築が再開され、復権した建部が完成した邸を管理した。牧家の記録では、佐兵衛は別邸でも御役を務めたとされるが、建物自体は明治17(1884)年の大風で倒壊した。佐兵衛は明治時代に本家を継いで養蚕業を始め、昭和9(1934)年に息子の二一が全国の養蚕篤志家に選ばれている。その間、牧親子は犬鳴山別邸跡地で司書の顕彰を行い、昭和時代前期の『加藤司書伝』にも紹介されている。戦後は二一の息子で寄贈者の祖父が養蚕家屋を転用して旅館業を営み、寄贈者の母である多惠子氏まで続いた。 板戸は、明治時代に牧家へ移された後、牧家を訪れた学者文化人が、漢詩、山水画などを描き加えたと思われる。旅館では、客間の一部に使われ、犬鳴山別邸の6畳の敷畳と伝える居間と併せて地元の名所とされた。なお、湯原荘は令和5(2023)年12月に閉館した。本資料は他 に加藤司書の書跡、犬鳴山別邸跡で行われた顕彰祭事の 写真、牧二一の自叙伝がある。旅館関連としては、客間 に飾られた江戸時代中期の俳人宝井其角の大石宛書状などがある。 |
9 | 16 |
| 35 | 西新発展協議会資料 | 西新発展協議会西新町100年記念事業実行委員会が製作したサザエさん博多人形とその型などからなる資料群。西新発展協議会は福岡市早良区西新地区の商店街や大 型商業施設からなる団体。同会は西新町が福岡市に編入されて100年を迎えるにあたり、サザエさん一家をモチーフとしたまちづくりを事業目的とする西新町100年記念実行委員会を発足させた。事業期間は令和3(2021)年4月から4年12月までであった。 本資料群のサザエさん博多人形(No.1,2)は、西新町100年記念実行委員会が事業の一環として制作したもののひとつ。事業資金募集のためのクラウドファンディングの返礼品として活用された。作者は博多人形師小副川太郎氏。この他、同会が刊行した西新町100年記念行記念誌(No.7)がある。 |
7 | 7 |
| 36 | 湊敏郎資料(追加分) | 令和2年度寄贈資料(考古資料)の追加分。 今年度分は、寄贈者の父湊浅次郎に関する文書。浅次郎は明治31(1898)年に福岡県八女郡古川村(現 筑後市)に生まれた。大正10(1921)年に朝鮮半島に渡航し、忠清北道で土木技手などをつとめた。第2次世界大戦後の昭和20(1945)年11月舞鶴港に引き揚げ、以降は八女市役所に勤務した。 本資料群中には昭和20年11月付けの引揚証明書のほか、昭和30年代に発行された引揚者国庫債券、引揚者給付金認定通知書など、引き揚げ関係の文書からなる。 昭和32年4月に制定された引揚者給付金等支給法(法律第109号)は、昭和20年8月15日までに6ヵ月以上日本本土以外の地域に生活の本拠を有した者およびその遺族に給付金を支給するものであった。本資料群中の昭和30年代の文書は、同法に基づき作成された。 |
6 | 11 |
| 37 | 竪町浜田中家資料(追加分) | 令和4年度寄贈の追加分。江戸時代の博多竪町浜(現福岡市博多区大博町)に居住の田中家に残された資料。前回寄贈分には田中家が江戸時代後期の竪町浜の年寄六右衛門として、藩普請への献納、捨て子養育の世話などにより藩から与えられた褒状(御書出)類が含まれる。 今回は新たに田中家の仏壇の裏などから発見された古 文書類で、町奉行所から田中家に与えられた褒状(御書出)の補足分。加えて、田中家が信仰していた浄土真宗関係の資料があり、同家に伝わった「南無阿弥陀仏」の念仏尊号の掛軸が含まれる。 |
6 | 6 |
| 38 | 小河愛次郎資料(追加分) | 令和3年度寄贈資料の追加分。福岡藩2代藩主黒田忠之の側近小河久大夫に始まる旧福岡藩士小河家に関する資料。 小河家は幕末期に馬廻組300石で、明治時代になり福岡藩の権大参事として登用される小河愛四郎(政敏)を輩出している。 今回は、掛幅装の文芸資料となる。和歌書幅は野村望東尼ほか1名の和歌短冊を貼り付けた掛幅で、内容は尊王攘夷の思いを鼓舞するもの。絵画では、福岡市に生まれ明治時代中期から昭和時代前期まで活躍し、帝国美術院展覧会の委員になった日本画家・水上泰生の作品がある。また、小河家が昭和時代前期に台湾で仕事を行っていた関係で、現地台湾の人から贈られた絵画なども含まれている。 |
4 | 4 |
| 39 | 西島慎之介資料(追加分) | 令和2年度寄贈資料(貨幣)の追加分。 今年度分は、令和2年度寄贈資料と同様に寄贈者の祖父西島友樹氏が収集した貨幣3点。仏壇の抽斗から新たに見つかった。令和2年度寄贈資料の残余分と考えられる。 「天保通宝」(No.1)は天保6(1835)年に金座で鋳造が開始された銅銭で、百文通用と定められた。私鋳銭が多く出回ったため価値が下落した。「菊穴ナシ50円ニッケル貨」(No.2)は日本初の50円貨幣で、昭和30(1955)年から33年にかけて製造された。これに続いて製造されたのが「菊50円ニッケル貨」(No.3)である。 |
3 | 3 |
| 40 | 秦邦浩資料 | 寄贈者宅に伝来した江戸時代から昭和時代の掛軸3点。秦家は昭和時代まで朝倉郡杷木町(現 朝倉市)に邸宅を構えていた。 書「独有」(No.1)は江戸時代後期の福岡藩の儒学者亀井昭陽の子、蓬洲の作。蓬洲は幼名聞可をいい、字は虞である。21歳で早世した。 書「静堂」(No.2) は明治28(1895) 年に雷権太夫(本名小江藤太郎)が認めたもの。小江藤太郎(1845~ 1928)は筑前国上座郡志波村(現 朝倉市)の出身。力士梅ヶ谷として江戸時代後期から明治時代前半の大阪相撲、東京相撲で活躍し、横綱に昇進する。引退後は雷権太夫を襲名し、相撲界の発展に尽力した。入手経緯と梅ヶ谷の来歴を記した秦芳草の文章とともに表装される。 三行書(No.3)は行司二十三世吉田追風による七言絶句。天長節に天覧相撲を行った際の感慨を記す。 |
3 | 3 |
| 41 | 白水佳代子資料 | 白水家伝来の短刀2 口。白水家は筑前国早良郡内野(現 福岡市早良区内野)において在村の眼科医として福岡藩に仕えた。江戸時代後期には福岡藩における天保改革を立案した白水養禎(1781~1849)を輩出した。本資料を所蔵していた白水家はその分家筋にあたり(本家との詳細な系譜関係は不詳)、短刀2口は本家から譲られたものと伝える。 | 2 | 2 |
| 42 | すの一町総代資料(追加分) | 本資料は、大黒流・旧上鰯町、旧上洲崎町(現 福岡市博多区須崎町1区)でそれぞれ使用されていた引幕。主に、博多祇園山笠の際に設けられる詰所に張り巡らせて使用した。 昭和41(1966)年2月に住居表示(町界町名整理)の実施に伴い、どちらも須崎町1区になったが、上須崎は昭和60年まで、上鰯町は昭和60年以降もこれらの引幕を使用していた。それ以降は町内の共有具として保管していたが、管理者たちが高齢になり、維持することが困難になったため当館へ寄贈された。 |
2 | 2 |
| 43 | 田中岱子資料(追加分) | 平成21年度寄贈資料の追加分。 本資料は博多絞製造有限会社(中央区大濠)から譲り受けた博多絞の反物。反物は染織前の状態で、糸で括る総疋田絞りが用いられ、制作工程の一部が分かる資料になっている。 博多絞は昭和時代に博多織や博多人形と並ぶほどの福岡市を代表する工芸品の一つであったが、戦時下に生産続行が不可能になり全ての製造業者は廃業を余儀なくされた。戦後に製造業者として再興を果たしたのは同社のみであった。 寄贈者の生家は博多旧片土居町(現 福岡市博多区下川端町)にあった博多織元中西家の分家にあたり、普段から同社と取引や親交があったようである。そのため、同社が平成8(1996)年に廃業する際に、寄贈者の母が同社から本資料を譲り受け、現在まで寄贈者が自宅で保管していた。 |
2 | 2 |
| 44 | 石橋善弘資料(追加分) | 平成9(近現代文書)・17(火鉢ほか)・28(裃、木箱、木盃ほか)・30年度(碇石ほか)寄贈資料の追加分。 石橋家は早良郡姪浜村(現 福岡市西区)の廻船問屋で、酒造業・醸造業も営んだという。なお、同家に関する文書群は能古博物館に寄贈されている。 今年度寄贈分は昭和11(1936)年に作成された旅行日記。作者石橋善次郎は寄贈者の祖父にあたる。本資料からは、国勢調査員拝観団245名が同年6月7日から10日程度の期間で、宮島、大阪、伊勢、東京、日光、京都などを旅行したことがわかる。また、謄写版の団員名簿から、参加者が福岡市内在住者であることが確認できる。 |
1 | 1 |
| 45 | 大木克孝資料 | 寄贈者の母が昭和11(1936)年に結婚した際、親族から結婚祝いとして贈られた博多人形。 資料は、桃山時代の遊女をモチーフとした「美人もの」で、底には金泥で「戯れ」「四代目裸木」と銘があるほか、博多人形の商標ラベルが貼られている。戦時中の疎開な どで損傷していたが、近年博多人形師の武吉国明氏に依頼して修理を施したという。 |
1 | 1 |
| 46 | 木村和男資料(追加分) | 平成21・28・令和3・4年度資料の追加分。 本資料群は、寄贈者が収集した美術・歴史資料からなる。 今年度寄贈資料は、江戸時代後期の福岡藩御用絵師で江戸詰めしていた2代目石里洞秀の絵画1点。2代目洞秀は、福岡藩御用絵師の中では狩野昌運、小方守房(狩野友元)に次いで法橋に叙せられた実力派で、その晩年作と思しき富士雲龍図は、小品ながら巧みな画技がみてとれる。 |
1 | 1 |
| 47 | 中川雅彦資料 | 寄贈者が令和4(2022)年に購入した西島伊三雄(1923~2001)のパステル画。かつて旧岩田屋本館(現 福岡パルコ)の美術サロンが保有していた作品で、1988年当時の管理票が付属する。 西島伊三雄は博多出身のグラフィックデザイナーで、愛らしい童画で人気を博した。福岡市地下鉄の駅のシンボルマークや市民ホールの緞帳など、まちの歴史と深く関わる仕事も多く残している。本図の主題は7月 15日早朝の追い山行事で、舁き山には桃太郎の山笠人形が描かれる。特定の年や流に取材したものではなく、あくまでも「山笠らしさ」を表現したもの。デザイナーという職業上、その絵の多くは複製されて流通するが、西島の描く山笠図にはしばしば桃太郎が登場する。 |
1 | 1 |
| 48 | 中村譲治資料 | 医薬の神とされる「神農」を象った素焼き人形。寄贈者は、江戸時代に糟屋郡須恵村内橋(現 糟屋郡須恵町)に居住していた福岡藩医(眼科)中村家の子孫にあたり、神農像は、近代以降も代々医業を続けた中村家で、大切に守り伝えられてきたものだという。 本資料は、型ものとみられる作品で、像底には空気抜きの孔があり、表面には褐色の塗料がかけられている。背面には「美雄」の陰刻銘と「美雄」の印がある。作者とみられる美雄については不詳ながら、同落款の人形がいくつか現存し、江戸時代後期に福岡周辺で活動した人物と考えられる。江戸時代の福岡では正木(宗七)家や中ノ子家などが陶製の人形制作に関わっていたことが知られるが、本資料は未知の人形師の作品であり、当時の人形制作の裾野の広さを物語る資料として注目される。 |
1 | 1 |
| 49 | 森秀喜資料 | 昭和48(1973)年に行われた「唐原の祇園山笠行事」(福岡市東区唐原)の様子を撮影した8㎜フィルム。寄贈者の父秀喜氏の親類松尾信夫氏が撮影したもの。撮影時間は約3分で、約7メートルの山笠が、須賀神社を出発し、神社前の通りを行き来し、再び須賀神社に舁き入れ、祝いめでた(博多祝い唄)をうたう様子が映されている。この映像はデジタル化され、一部は平成26(2014)年度に福岡市文化財活性化実行委員会が製作した「博多うつしの山笠」にも収録されている。 「唐原の祇園山笠行事」は、7月に須賀神社で行われる 夏の祭礼で、大正時代には既に行われていたようである。博多人形を使用する点や山笠の構造などから、博多の影 響を受けた山笠の一例と考えられる。影響の背景として は、唐原が戦前までは農閑期に集落にあるアカマツを燃 料として博多に供給していたことや、松茸狩りなど博多 の人々の行楽地であったこと(『香住ヶ丘校区沿革史』) などが関係していると思われる。同行事は平成31年度に 福岡市無形民俗文化財に指定された。 |
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| 50 | 藪智二郎資料 | 寄贈者の父・藪信男が所蔵していた小冊子「神武天皇と北九州」。 藪信男は明治41(1908)年兵庫県神戸市に生まれ、広島高等師範学校を卒業後、島根、小倉、名古屋女子の各師範学校で教鞭をとった。本資料は小倉師範学校勤務時に入手したものと思われる。 本資料は昭和9(1934)年に福岡県社会教育課が発行した小冊子である。福岡県学務部による「はしがき」によれば、神武天皇東遷2600年祭が宮崎市で挙行されるにあたり、福岡県と神武天皇との関係を調査して小冊子を作り県下に配付することを企図したという。調査を委嘱された永島芳郎は福岡市史編纂嘱託をつとめた人物として知られる。内容は、神武東遷および神武天皇と縁のある町村や神社を紹介するもの。 |
1 | 1 |
【寄託】
| 目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 平井嘉樹資料(追加分) | 令和元年度に寄託された資料の追加分。平井家は糟屋郡篠栗村に在住した旧福岡藩士で、幕末では切米扶持13石4人となっている。先祖は播州以来の武家で、黒田氏の筑前入国に従ったが、その後一時帰農した。福岡藩4代藩主黒田綱政の時に再度召し抱えられて篠栗に居住し、藩主の狩猟の御用などを務めた。 前回の寄託による収集分は、平井家自体の系譜(平井氏→八杉氏→平井氏)のほか、親族の母里氏系図、江戸中期に養子入りした久野氏の情報が記された系図など。また綱政自身の手による大部の図巻は、平井氏に下賜されたもので、山水・草木・花鳥など様々な絵画が網羅される。さらに、藩主の猟と平井家のつながりをしめす火縄銃も含まれる。 今回の寄託分は、主に近世文書のうち、家の系図記述に対応するような領知宛行状類等など、前回の寄託分を補う古文書類が中心である。他に書籍類では関ヶ原合戦や大坂の陣など全国的な戦乱に関するものなど。 |
31 | 31 |
| 2 | RKB映画社資料 | 本資料群は、平成18~26(2005~2014)年度の期間に RKB 映画社が福岡市の依頼を受けて製作した市内の無形民俗文化財の映像の完成原版、白素材、素材テープからなる。素材テープなどには、完成原版に含まれなかった市民の声や映像のほか現在では行われていない行事なども記録されている。 RKB 映画社は、昭和32(1957)年12月に RKB 毎日放送のテレビジョン放送開局(昭和39年)に備えて設立された「九州テレビジョン映画社」を前身とする(昭和59年より RKB 映画社と改名)。昭和46年より同社に映画事業部が設けられ、以降福岡県・佐賀県を中心として官公庁や自治体、企業などの広告映画やテレビ CM の製作のほか、RKB 毎日放送局の番組制作などに携わってきた。令和5(2023)年5月に番組・映像制作やイベント制作、広告業、人材派遣業などを担ってきた「RKB ミューズ」と合併し「RKB CINC」となった。 |
23 | 249 |
【購入】
| 目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 黒田家中袖珍便覧 | 福岡藩士が利用したと推定される携帯用の袖珍本 類。「田畠検見覚帳」「勤年月覚」中の記載から、西小姓町に屋敷を構えた木村家(馬廻組、180石)に伝わったものと推定される。 内容は、①藩主家の系譜や年譜・年表の抜粋 ②「黒田家臣伝」のうち有力家臣の抜粋、3代藩主黒田光之期の分限帳、③家臣統制に関する法令、規則類覚書、④職務の勤書、城下屋敷帳、⑤田畠検見など民政関係の覚書、に分類することができる。 藩主や有力家臣の由緒など藩士として持つべき基本情報のほか、個別の職務の情報なども合わせて、これらの情報が福岡藩士によって携帯されていた実態をうかがわせる。 |
2 | 11 |








