平成15年2月11日(火・祝)~3月16日(日)
昭和27年3月29日指定 法量 長さ67・8/反り2・4/元巾3・2/先巾2・3 時代 鎌倉時代 造込 鎬造り、庵棟、身巾広く重ねややうすめにして、猪首(いくび)切先 鍛 板目、木目まじり、よくつまる、映り立つ 刃文 大丁字乱れ、重花丁字交じり、蛙子丁字 帽子 乱込(みだれこみ)、先小丸(こまる) 中心 生(う)ぶ、雉子(きじ)股形、先は浅い栗尻、鑢目は筋違(すじかい)、目釘穴三 銘 無銘 付属 金二重桐紋透鍾組はばき、葡萄文蒔絵(まきえ)刀箱 備考 『黒田家御重宝故実』に「日光一文字御刀 弐尺弐寸四歩 白貝、東艦と一同に北条氏直より来りシ也 、北条家伝来之名物也 其時入来し葡萄蒔絵之箱、今に被用也」とあり、さらに別本の『御当家御重宝故実』(福岡県立図書館蔵)にはこの後に「但し御袋も于今添黒繻子ニ大き成舞鶴一ツ金ニ而縫在銘も縫なり」とある。さらに黒田家に伝来した『名物三作』には「松平筑前守 日光一文字 無銘長サ弐尺弐寸四分 無代 日光権現ニ納リテ有シヲ小田原北条早雲長氏申落シテ所持ス 氏綱氏康迄伝ル 小田原陣黒田如水老曖和タンニナリ依之為礼此刀並東艦之正本白貝ヲ遣ス 氏政より五代メハ氏直也 是ヲ小田原北条五代ト申也 関八州ヲ領ス」とありこの太刀が天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めのときに、黒田孝高(如水)が豊臣秀吉と北条氏直との間の労をとった謝礼として、氏直から如水へ陣貝と『東艦』とともに贈られたものであると伝えられてきた。このようにこの太刀が黒田孝高のもとに入った経過が伝えられてきている。なお、黒田家伝来の文書の中に、豊臣秀吉から黒田孝高にあてたとする古文書があり、それに「北条氏照備崩 抽軍功之働 神妙之至ニ候 依之一文字之太刀送之候 猶追而可加恩録之(祿の誤記)者也 三月十一日 (秀吉朱印) 黒田勘解由とのへ」とあり、この太刀が小田原攻めのときに敵将の1人である北条氏照を滅ぼすのに軍功があったということで、豊臣秀吉から黒田孝高へ贈られたものであることがのべられる。なおこのことは黒田家旧蔵の『刀剣類根帳』にも記されている。ただしこの古文書は後世に作られたもので、内容は日光一文字と秀吉をむすびつけるためのものであろう。なお、この太刀には現在は江戸時代初期につくられた葡萄文蒔絵刀箱がついているが舞鶴文がついた黒繻子の刀袋はない。 |