平成16年2月25日(水)~3月28日(日)
江戸時代の福博と周辺世界
黒田長政によって建設された福岡は、戦国期に国際的な流通、商業都市であった博多とともに、城下町として繁栄しました。当時の福岡と博多のようすは、『筑前福岡城下図』や、『博多図』で知ることが出来ます。都市では庶民の経済活動が発展するとともに、庶民の文化的活動も盛んになります。特に博多では、夏祭りの祇園(ぎおん)祭礼には盛大な山笠(やまかさ)が作られました。庶民の寺社巡りなども盛んとなり、そのようすは「筑前三十三カ所札所絵図」に描かれた多くの寺社の様子からも知ることが出来ます。博多湾周辺では、浦が漁業だけでなく、船運による経済活動の拠点ともなり、大漁や商売繁盛をねがう人々の生活がありました。
筑前三十三カ所札所絵図 |
北部九州の美術・工芸と学者文化人
歳主の図 |
北部九州の筑前(ちくぜん)や肥前(ひぜん)では中世から名刀の産地として知られていました。しかも江戸時代になると北部九州の諸藩の城下町には、刀工、鉄砲師など、武士に対する武器などを生産する職人が集められ、技術が伝えられました。展示資料の中にも、肥前の刀匠忠吉(ただよし)、肥後熊本の林(はやし)氏制作の火縄銃、現在でも名匠とされる人々の作品があります。絵画の世界でも代々藩に仕えて、御用を勤める絵師が技術を伝え、江戸時代中・後期の福岡藩の御用絵師・尾形(おがた)家は、『雪松図』、『龍門登鯉図』などの作品を残しました。在野の絵師も多く、小倉に住んだ村田応成(むらたおうせい)は、写実的な円山(まるやま)派の絵師で、『歳首の図』を描きました。このほか福岡藩の儒学者竹田定直(たけださだなお)が、藩が顕彰した孝子を紹介した著作、同藩の儒者で漢学者の亀井(かめい)家や書道家二川相近(ふたがわすけちか)などの残した漢詩や書跡を展示します。
近・現代の福岡の歴史と暮らし
明治維新(いしん)(1868年)となり、福岡市域も、次第に文明開化の波にあらわれ、新たな歴史を生み出していきます。この時代の日本のようすは、当時盛んであった、殖産興業(しょくさんこうぎょう)のための博覧会の錦絵(にしきえ)などで見ることができます。
錦絵「蒙古賊船退治之図」 |
明治20年代には、博多出身の俳優で演劇家の川上音二郎(かわかみおとじろう)が、日清(にっしん)戦争を舞台とした演劇で注目を集めました。それとともに福岡では、大陸との関係の歴史がクローズアップされるようになり、鎌倉時代の元寇(げんこう)を取り上げ調べる動きも見えます。
明治37(1904)年には、日露戦争がありました。展示では明治10~20年代に西洋的な制度を模した、新制度で教育を受けた福岡出身の軍人の戦争参加の記録や、新たな軍事制度下での軍服(騎兵)などを紹介します。またこのほか明治の末期に行われた韓国(かんこく)併合に関する資料もあります。
大正時代から昭和初年は、福岡市域でも、つかのまの穏やかな時代で、福岡市も近代化が進み、新たな観光名所が生まれ、それらは名所絵はがきや、昭和2(1927)年に作られた愛宕(あたご)山のロプーウエイの写真などで見ることができます。また昭和(しょうわ)天皇即位の関係では、大嘗祭(だいじょうさい)(昭和3年)に使うお米を作るため、当時の早良郡脇山に設けられた主基斎田(すきさいでん)の写真、その際の神事等に着た博多織の帯などが残されています。またこの時期に、義務教育を受け、いわゆる職業女性の先駆的な働きをした人の資料も紹介します。
昭和6(1931)年の満州(まんしゅう)事変に始まる15年戦争の大きな波は、福岡市域の人々も、余すことなく呑み込まれて行きますが、その痕跡(こんせき)となる資料を紹介します。まず昭和前期の海軍に関する食器類、日中(にっちゅう)戦争関係の記章、民間用の防毒(ぼうどく)マスクなどから、戦時色の濃くなっていくようすが窺えます。太平洋戦争初期の資料としては、前線(ぜんせん)への慰問品(いもんひん)に対する当時の東条(とうじょう)首相からの感謝状、さらに空襲の激しくなった昭和19(1944)年後半から戦争が終わる昭和20年にかけての資料としては、供出したアルミ製弁当箱に替えて作った木製の代用弁当箱、戦争が終わっても使われていた布製リュックサックなどが展示されます。これらによって、戦地や銃後の苦しく、また悲惨な状況が伝わってきます。
なお近・現代の福岡の民俗的な資料としては、明治40年代から大正初めに掛けての、博多オキアゲや袱紗(ふくさ)、和洋裁教育に関する資料、大正から昭和初めの「お食(く)い初(ぞ)め」の儀式などに備える膳等のほか、大工の使用する墨壺のコレクション、福岡市の今宿で近年も続いていた瓦製作に関する資料など盛りだくさんです。