平成16年12月17日(金)~平成17年1月30日(日)
近現代の福岡の歴史
明治維新に続く社会の変革は、学校という新しい制度を作りました。しかし明治前期は、子ども達が小学校へ通うのも難しい状況でした。当時小学校の教員になるためには中学校か師範学校を卒業しなければなりませんでした。長野菊次郎氏は県立福岡中学卒業後、福岡県内の小学校や大阪・東京などの中学校の教壇に立ちながら、植物学や昆虫学の研究をすすめました。明治28 (1895)年、糟屋(かすや)郡で学校に勤めていた氏が京都で開催された博覧会に植物標本を出品し、授与された 第4回内国勧業博覧会褒状(ほうじょう) や、その業績を窺うことができる 長野菊次郎氏関係の文書 が展示されます。その他に明治末期から昭和初期にかけての 教科書 や 参考書 、福岡師範学校附属小学校で使用されていた 児童用椅子 も展示します。文政13(1830)年に発刊された、江戸時代の和算の教科書 算法新書 は、明治時代に入ってからも版を重ねたベストセラーでした。 また、 帝国いろは辞典 は明治43年に発行された国語辞典です。
近代社会の発展は、新しい都市の形を生みました。新首都東京では国会議事堂建設に際して議院建築意匠設計競技が行われ、吉木久吉氏の設計案が2等に入選しました。彼が描いた カーテンデザイン集から、 洋風建築の内装に関する氏の才能が窺えます。
福岡では明治21年代後半に、博多・下川端町で漬物屋「金山堂」を経営していた商人八尋利兵衛らが中心となり、那珂川を東京の隅田川になぞらえ、当時「六丁縄手」と呼ばれていた那珂郡住吉村 ( 現在の博多区住吉1・2丁目 ) の那珂川沿いに、東京・向島をまねた公園を造りました。 住吉堤防増築創立画集 は、その事業を記録したものです。そのおよそ百年後、平成7年8月に福岡市で開催されたユニバーシアード福岡大会組織委員会から寄贈された、 ユニバーシアード福岡大会関係資料 も展示します。こうした都市造りは日本国内にとどまらず、戦前に日本が領有した近隣の国にも及びました。日本統治下の朝鮮・釜山 ( 現大韓民国釜山直轄市 ) や満州国の首都新京 ( 現中華人民共和国吉林省長春 ) の 市街地図 や ポスター「大連」 からは、それらの都市では、日本国内では実現が難しかった都市計画が実施されたことがわかります。
写真「今津 元寇防塁」 |
19世紀後半に発明された写真技術は、近現代の社会のその時々の様子を写し取りました。日本でも早くは幕末から明治時代にかけて来日した外国人の好みに応じ、日本の風俗を撮影した写真が売り出されました。「横浜写真」と呼ばれるこれらの 明治期の写真 は、蒔絵を施した漆塗りの表紙を付け、豪華なアルバムに仕立てられて、日本の土産とされました。その後写真は、さまざまな印刷物にも使用されるようになりました。特に絵葉書は、明治33年に日本で私製葉書が許可されてから使われるようになり、葉書として使用する他、収集の対象ともなりました。各地の名所・旧跡や催しの絵葉書も数多く発行され、 東京名所の絵葉書 や、昭和11 ( 1936 ) 年の 博多築港記念大博覧会の絵葉書 などはその1例です。 「世界探検家菅野力夫」の絵葉書 は、大正時代に自ら「世界探検家」と称し、日本各地で講演を行っていた菅野力夫が制作・販売したものです。さらに 第 13 回九州沖縄8県連合共進会紀念写真帖 や 九州帝国大学写真帖 、 承天寺写真帖 など、写真を主体とした印刷物も発行されました。 今津元寇防塁 の写真は、大正時代の撮影と思われます
昭和6年の満州事変をきっかけに、日本は15年に及ぶ長い戦争へと進んでいきました。戦時下には国民の志気を高め、戦争を肯定的にとらえるよう、広報・宣伝・教育活動が行われました。その中で強く主張されたのが日露戦争の必要性です。特に満州国を巡る中国との戦争の背景には、日露戦争後のロシアとの確執がありました。 日露戦役31年 、 日露戦争を語る 、 非常時と国防 など、日露戦争終戦30周年にあたる昭和10年の出版物から、その状況が窺えます。 ポスター「輝く海軍記念日」 は、日露戦争で日本がロシアのバルチック艦隊を迎撃した日本海海戦に因み、海軍記念日とした5月27日を祝うものです。また、昭和15年は神武天皇に由来する日本の紀元2600年に当たるとされ、さまざまな催しが行われました。この年発行されたのが 国を挙げて です。しかし、神に守られていると宣伝されていた日本も、昭和16年末アメリカやイギリスなどとの戦争になるとまもなく戦況は悪化し、物資も不足しました。 陶製手榴弾(しゅりゅうだん) は、軍備不足を補うために製作されたものと考えられます。昭和20年8月15日、戦争は終わり、日本は戦後の新しい時代へ入りました。
人々のくらしのかたち
野北浦沿革 |
民俗資料は大正・昭和初期の人々のくらしに関する資料です。今回展示される資料から、福岡市とその近郊地域での生活の状況を知ることができます。大正5 ( 1916 ) 年から昭和11年にかけて、家族8人分の足袋を縫った時の 足袋型紙 や、昭和1年代に使用された 晴れの日の装身具 からは、当時の衣生活の様子を窺うことができます。また、昭和1年頃の刺繍教材である フランス刺繍基本縫 は、既製品が少なく、多くの衣料品を女性が手作りしていた様子がわかります。
生業に関する資料としては、広告看板を製作した「いわしや画房」で接着材として使用された 布海苔(ふのり) が展示されます。また、大正天皇の御大典を記念して執筆された 野北浦沿革(のぎたうらえんかく) は、大正6年編纂の『筑豊沿海志』の基礎資料となりました。
福岡の郷土芸能である博多にわかは、太い眉と下がった目を描いた半面という面を着けて演じられます。今回展示される 博多にわか半面 は、演者が自ら制作したものです。
昭和戦後期になると、民芸品をテーマに沿って収集するコレクターが現れました。張り子人形や土鈴を中心とする 郷土玩具 や 土鈴 のコレクション、さまざまなタイプの笠を収集した 笠 コレクションの一部が展示されます。