平成21年11月17日(火)~12月13日(日)
開催にあたって
ポスター(大正のころの二代目博多駅) |
福岡市博物館は、昭和58年(1983)に発足した博物館建設準備室以来、福岡市民をはじめとして、数多くの皆様のご協力をいただきながら資料の収集を続けてまいりました。その成果として、考古・歴史・民俗・美術の各分野にわたる収集資料数がこれまでに12万件にも及ぶ膨大なコレクションへと成長いたしました。
収集した貴重な資料を後世にまで確実に保存し、展示や研究に有効活用するため、当館では新たに収蔵されるすべての資料について、整理と調査の結果をリスト化し、収集年度ごとに『収蔵品目録』として刊行しております。
また目録刊行に合わせて、博物館の資料収集活動を広く市民の皆様に知っていただくため、毎年このような『新収蔵品展』を開催し、新たにコレクションに加わった品々を実際にご覧いただける機会を設けております。22回目を迎える今回は、平成18年度にご寄贈、ご寄託いただいた1869件の中から、「歴史とくらし」というテーマに沿った選りすぐりの資料をご覧いただきます。
展示内容
一、ふくおかの歴史滑石経片(4) |
経典を粘土板に刻み焼き締めたものを瓦経(がきょう)といいます。平安時代後期、末法(まっぽう)思想の影響で人々は経典を後世に残すため瓦経を作りました。福岡市域には幾つもの瓦経出土地があって、その数は全国でも有数といわれます。「愛宕山(あたごやま)出土瓦経片」(2)「飯盛山(いいもりやま)出土瓦経片」(3)はその代表的なもので、郷土史家の人々によって採集されたものです。
石鍋(いしなべ)は平安時代末から中世にかけて流通したもので、当時はとても貴重なものとされていました。博多遺跡群をはじめとする中世の遺跡からも多く見つかっています。この「石鍋未製品」(8)はその製作途中で廃棄されたものとみられます。
さて、時代はぐっと下って江戸時代。黒田家が福岡藩を統治し、その家臣たちによって武士の町・福岡が発展していきました。
「黒田光之知行充行状・知行目録(くろだみつゆきちぎょうあてがいじょう・ちぎょうもくろく)」(10)は、長崎で三代藩主光之の持病を治療したことがきっかけで黒田家に仕えた塚本道庵(つかもとどうあん)(初代)に、裏糟屋郡庄村(うらかすやぐんしょうむら)、下府村(しものふむら)の二百石を与えた書状と目録です。以後、塚本家は外療(がいりょう)(外科)医の筆頭として活躍しました。、同家では海外の技術を積極的に導入しており、「塚本家に伝わった医学書」(11)には、オランダの医学書を書き写したものが見受けられるほか、東洋医学に基づいて体中の壺(つぼ)を描いた図や、喧嘩(けんか)でけがをした人の診断書のようなものも含まれています。
経絡の図(11) |
「貝原益軒書状(かいばらえきけんしょじょう)」(17)は、福岡藩を代表する儒学者(じゅがくしゃ)貝原益軒(1630~1714)が、孫弟子にあたる櫛田琴山(くしだきんざん)(1675~1742)に宛てた手紙です。櫛田家は関ヶ原の戦い以来、黒田家に仕えてきた儒学者の家系で、琴山は朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)の応接に功績のあった人物として知られています。
江戸時代前期の儒学者山鹿素行(やまがそこう)の著作を写した「武家事紀」(24)は、足利義晴(あしかがよしはる)が室町幕府第12代将軍となった大永(だいえい)元年(1521)から、徳川家康(とくがわいえやす)が没する元和2年(1616)までを中心とした武家の歴史や伝記、儀礼、生活習俗などを記した歴史書です。