平成2年10月18日(木)~11月18日(木)
一の谷兜・黒糸威胴丸具足(黒田長政所用) |
道朴居士像 (左が春屋宗園、右が道朴居士(黒田長政)) |
「黒田氏の筑前入国」について
1600(慶長5)年、黒田長政が筑前の大名となり、城下町を建設し、以後の江戸時代約268年間にわたり、福岡と博多は黒田氏52万石の中心部市として栄えることになりました。現在の福岡市の原型はこの時でき上がったといえます。今回の展示は福岡市の江戸時代の出発点となった黒田氏の筑前入国について紹介してゆきたいと思います。
さて黒田氏は戦国時代播磨国(兵庫県)姫路に住んでいました。しかし孝高(如水、1546~1604)のとき豊臣秀吉に仕えて軍師として知られ、豊前国(大分県)中津の大名となりました。その子長政(1568~1623)は歴戦の武将で、豊臣秀吉の死後におきた関ケ原の戦い(1600年)では、徳川家康の東軍に属して戦功をあげ、筑前一国を与えられました。長政は博多の西隣の福崎の地に新しい城下町を築き、備前国(岡山)にある黒田氏ゆかりの地にちなみ福岡と名付けました。
年表
1568(永禄11)年 | 黒田長政、姫路城に生れる。 |
1582(天正10)年 | 本能寺の変。 |
1587(天正15)年 | 豊臣秀吉、九州を平定。黒田孝高(如水)、豊前中津を与えられる。 |
1592(文禄元)年 | 文禄の役。(1597年、慶長の役) |
1600(慶長 5)年 | 関ケ原の戦い。長政筑前入国。福岡築城に着手。 |
1603(慶長 8)年 | 徳川家康、征夷大将軍となる。 |
1615(元和元)年 | 豊臣氏、滅ぶ。長政、幕府より50万余石の知行判物を得る。 |
作品解説
一(いち)の谷兜(たにかぶと)・黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく) (重要文化財)
一の谷兜は檜(ひのき)の薄板を使用し、上部を前方に曲げ表面に銀箔が張られ、ひよどり越の崖を現している。この兜はもと福島正則の愛用の兜であったが、朝鮮出兵の折に不仲になった正則と黒田長政の仲直りのしるしに互いの愛用の兜を交換した時、長政が手に入れたものである。
道朴居士像(どうぼくこじぞう)
道朴とは黒田長政の号であり、絵の右側が長政にあたる。左側に座している僧は春屋宗園(しゅんおくそうえん)といい、大徳寺11世、三玄院開祖、龍光院勧請開山、堺・南宗寺3世、博多・崇福寺77世など歴任した。宗園の帰依者には長政、千利休(せんのりきゅう)、小堀遠州等がいる。