平成3年1月5日(土)~3月10日(日)
『筑前国続風土記拾遺』の編さんについて
青柳種信は、前回すでに紹介したように江戸時代後期に筑前国が生んだ有名な学者です。彼はもともと日本古来の伝統や文化を深く学ぶ国学者(こくがくしゃ)でしたが、藩(はん)の命により筑前国内の地理や歴史についてくわしく記した書物を編さんすることになりました。それは、かつて貝原益軒(かいばらえきけん)が著した『筑前国続風土記』をはじめとする地誌の系譜を引くものですが、彼独自の内容も多く盛りこまれています。
そこで今回は、彼がその生涯をかけたともいえる『筑前国続風土記拾遣』の編さんについて取り上げ、その作成過程をくわしくたどることによって、彼の地誌編さんにかけた努力と情熱、そして彼が今日の我々に残してくれた大いなる遺産について紹介してゆきたいと思います。
種信画像 |
1、編さんに至るまで
種信の『筑前国続風土記拾遣』の編さんに強い影響を与えたものとして、青年期に鷹取周成(たかとりしゅうせい)のもとで『筑前国続風土記附録(ふろく)』編さんの助手をつとめたことと、幕命をおびてやってきた伊能忠敬(いのうただたか)の地図測量に同行したことがあげられます。彼自身は、本居宣長(もとおりのりなが)を師とあおぎ、「国学」の道を深めることを生涯の目標としていたようですが、藩は「国学」を藩の学問として認めることはせず、その代わりに彼に『附録』の再検討を命じました。こうして彼は、みずからの学問のすべてを地誌編さんにそそぎこむことになったのです。
神社書上帳(飯盛神社蔵) |
廻村記録(福岡県立図書館蔵) |
2、編さん過程
地誌の編さんを命じられた種信は、その準備としてまず筑前国内から「書上(かきあげ)」を提出させ、それが出そろったうえで、実地調査である「廻村(かいそん)」を始めました。その廻村調査はのべ9年にもわたる長いもので、彼は助手をともない筑前国内をくまなく歩きました。廻村と並行して原稿作成も進められていましたが、種信の死によって編さん事業は中断します。しかし彼の子息らがその遺志(いし)を受けつぎ、天保8(1837)年前後にはほぼ成立を見たのです。ただ、完成本が藩に提出されたかどうかについては、今なお定かではありません。
『筑前国続風土記拾遺』 (九州大学九州文化史研究施設蔵) |
3、筑前の三大地誌
福岡藩には、藩の命令によって編さんされた3つの有名な地誌があります。『筑前国続風土記附録』はその名が示すとおり、貝原益軒の『筑前国続風土記』を原典としつつ、その補足・修正をおこなうことに主眼を置いていますが、その一方で編者自身も新たな特色を出すことにつとめています。種信の『筑前国続風土記拾遺』の場合、常に『附録』を意識し、『附録』を超えることを目標としていたようで、それは『附録』以上に数多くの資料を幅広く収録した編集方針からもうかがえます。
4、種信の遺産
種信の『筑前国続風土記拾遺』は、古文書(こもんじょ)や金石文(きんせきぶん)資料を数多く収録しているところに最大の特徴がありますが、『拾遺』以外にも彼はそうした記録をたくさん残しています。原資料をありのままに正確に記録するという彼の姿勢は、残されたこれらの記録の資料的価値をより高いものにしています。こうした記録のなかには、すでに原資料が失われたものも少なくなく、今日の歴史学研究にとってはかり知れない恩恵を与えてくれているのです。