平成3年6月4日(火)~7月14日(日)
弘化4年「天宮梦裏賜」 |
博多祗園山笠について
祗園(ぎおん)の神とは、本来、仏教の牛頭(ごず)天王(祗園精舎の守護神・農耕・疫病の神)のことですが、わが国では、スサノヲノミコトと一体のものとされ、旧6月15日の京都八坂神社の祗園会(ぎおんえ)が平安時代から盛んになると共に次第に全国に広まっていったといわれています。博多山笠(やまかさ)については、べつに承天寺(博多区駅前1丁目)の開山聖一国師(しょういつこくし)が、いまを去る730余年前に博多の津中で、施餓鬼棚(せがきだな)をかつぎまわらせ、法水をまいて疫病封じをしたのがその起源であるという伝承があります。
博多では、総鎮守櫛田神社にまつられている祗園の神を信仰の対象として豊臣秀吉(とよとみひでよし)の博多再興以来、七流の制度によって輪番に6本の飾り山笠と能楽とも盛大に奉納してきたのです。
ところが、時代の影響で明治時代から飾り山笠と櫛田入りをする舁(か)き山とができ、戦後は舁き山の数が増えるなど、行事そのものも変化してきました。昭和54年2月3日には、国の重要無形民俗文化財に指定され、博多の豪快な伝統的祭礼として、全国的にその名前が知られるようになりました。年々、見物の人々も多くなっています。
櫛田神社の山笠絵馬
「山笠絵馬(やまかさえま)」は7月1日から15日にかけて博多の町を賑わす「博多祗園山笠」の山を描いた絵馬です。櫛田(くしだ)神社に奉納されているものが最も有名であり、昭和55年に福岡県有形民俗文化財に指定されています。
櫛田神社に残っている大絵馬は130余面あり、そのうち山笠絵馬は44面もあります。昭和5年(1930)までは、境内の絵馬堂に、寛政7年(1795)から昭和4年(1929)までの絵馬が、奉納年代順に掲げられていたといいます。現在は、弘化4年(1847)から大正13年(1924)にかけて奉納されたものが保存されています。画題は、追山(おいやま)の情景を描いた「追山図」一面を除いては、山笠の表と見返りを描いたものとなっています。
山笠絵馬は各流の当番町によって奉納されてきました。但し、毎年奉納すると決まっているわけではなかったようです。当番町のうち納額意志の強い世話人が話をまとめて、柳田神社へ奉納していたのでしょう。明治20年代から山笠写真の奉納が始まり、絵馬奉納は次第に行われなくなってきました。博多の古老によれば、山笠行事の安全祈願成就に奉納していたとのことです。確かに山笠絵馬の中には、後筆ですが「町内安全」という文字を裏面に記したものがあり、危険を伴う行事を恙(つつが)なく終了しようとする博多の人々の祈りが込められていると言えるでしょう。
明治8年 (浴衣山) | 大正5年 「瑠璃光輝世界」 |
今でも、山笠行事の始まる7月1日には、行事期間中の安全を熱心に祈る、各流の当番の人々の姿を見ることができます。