平成3年11月6日(水)~平成4年1月12日(日)
黒田忠之画像 |
黒田綱政画像 |
今回、初代から4代までの福岡藩主に関わる武芸(ぶげい)や軍学(ぐんがく)の典籍を中心に、江戸時代の筑前から見た、当時の学問と文化を紹介します。
初代藩主黒田長政(くろだながまさ)は数々の合戦に参加し筑前(ちくぜん)一国の大名となった人です。彼は安土桃山(あづちももやま)時代の武芸の達人から直接に教えを受けています。この頃は、実戦(じっせん)から学んだ武芸者達が多くの流派を開いており、長政の武芸習得も自らが戦うためのものだったといえます。
しかし江戸時代の中頃には、藩の政治体制も安定し、藩主は、大名として家臣の上に立つ心得としての武芸を学ぶ様になります。またこの頃は武芸や軍学も、実戦より形式を重んじる秘伝(ひでん)として門弟(もんてい)に伝授(でんじゅ)され始めます。そのため福岡藩主の持つ秘伝書も豪華な品です。
この様に元禄(げんろく)時代の大平の世には、武士の社会も秩序が定まり、武士にとって最も大切な武芸や軍学も、実戦よりも知識として専門化し固定化しました。そして幕末の動乱の時代を迎えることとなるのです。
作品解説
初代藩主黒田長政(くろだながまさ)(1568~1623)は疋田景兼(ひきたかげかね)や冨田重政(とだしげまさ)から剣術(けんじゅつ)の教えを受けている。疋田景兼は、新陰流(しんかげりゅう)の上泉信綱(かみいずみのぶつな)の高弟(こうてい)で疋田新陰(ひきたしんかげ)流を開いた人。後に唐津(からつ)藩寺沢(てらさわ)家に仕えた。冨田重政(とだしげまさ)は北陸の人で中条流(ちゅうじょうりゅう)の名人。また長政は、小倉細川藩士で後に徳川家康の鉄砲の師となった稲冨祐直(いなどみすけなお)からも砲術の伝授を受けている。
兵法御書物 | |
十鎌法 |
2代忠之(ただゆき)(1602~1654)は、黒田家譜(くろだかふ)によれば幼い頃に馬術(ばじゅつ)にすぐれ、家康(いえやす)や将軍秀忠(ひでただ)の前で技を披露(ひろう)している。忠之の時代は島原の乱や長崎での異国船警備(いこくせんけいび)などが続き、福岡藩はまだ臨戦体制(りんせんたいせい)にある。この時代の剣術書では宮本武蔵の「五輪書(ごりんしょ)」や柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の名人柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の秘伝(ひでん)書が残っている。
江戸時代も中ば3代光之(みつゆき)(1628~1707)は、宝蔵院流高田派槍術(ほうぞういんりゅうたかだはそうじゅつ)の祖高田又兵衛(たかだまたべえ)から十文字鎌槍(じゅうもんじかまやり)の秘伝を受けている。高田又兵衛は小倉小笠原藩に仕え、将軍の御前試合も行なった人。光之の次男で4代綱政(つなまさ)(1659~1713)も高田氏の一流から十文字鎌槍の秘伝書を受け、4男長清(ながきよ)は有地(ありち)氏に新陰流秘伝を受けている。この頃には新陰流や宝蔵院流などが福岡藩の武術として採用された。さらに合戦についても、大平の世を反映して、戦国~安土桃山時代の陣備(じんぞなえ)や軍法(ぐんぽう)の研究がおこり、甲州流(こうしゅうりゅう)などは福岡藩をはじめ各藩に広まった。また自藩や他藩の大名家の軍陣の旗幟(きし)など故実(こじつ)の研究もなされている。