平成4年1月14日(火)~3月29日(日)
黒田如水画像 |
足利義輝御内書 |
織田信長黒印状 |
羽柴秀吉条々 |
福岡藩(ふくおかはん)を築いた黒田氏(くろだし)は、戦国時代には播磨国(はりまのくに)(現在の兵庫県)の西部に勢力を持つ小寺氏の一家臣にすぎませんでした。当時は室町幕府の将軍(しょうぐん)の力が衰え、播磨国内でも守護赤松氏(しゅごあかまつし)をはじめ多くの領主が互いに凌(しの)ぎを削(けず)っていました。やがて織田信長(おだのぶなが)が上洛を果たすと、播磨国は信長と中国地方の大名毛利氏(もうりし)の抗争地帯となり、以後激しい争乱が繰り広げられました。
今回の展示では、黒田氏の主家(しゅけ)であった小寺氏と黒田官兵衛(くろだかんべえ)に焦点をあて、播磨時代の黒田氏について詳しく紹介いたします。
1、小寺氏(こでらし)について
小寺氏は播磨国守護赤松氏の一族と伝えられ、戦国期には東播磨の別所氏(べっしょし)と並ぶ西播磨の有力豪族でした。姫路(ひめじ)付近の御着城(ごちゃくじょう)を本拠とし、当初織田方として行動していましたが、天正6年(1578)年の荒木村重(あらきむらしげ)の織田方からの離反(りはん)によって播磨国内の大勢が毛利方に傾くなか、自らも毛利方に転じ、その結果家臣官兵衛と決裂することになりました。
2、黒田官兵衛(くろだかんべえ)
黒田氏は小寺氏の家臣として代々「小寺(こでら)」姓を名乗り、現在の姫路城付近に本拠を構えていました。官兵衛孝高(よしたか)(のちの如水(じょすい))は、終始信長を支持し、秀吉のもとで播磨国内の領主を織田方にまとめる役割を演じていました。天正6年、毛利方に転向した荒木村重によって約1年間、摂津国有岡城(せっつのくにありおかじょう)内で囚(とら)われの身となりますが、救出された後は秀吉の参謀(さんぼう)として活躍し、その後の黒田氏発展の基礎を築きました。
3、その後の小寺氏(こでらし)
毛利方に転向した小寺氏は、その後秀吉によって御着城(ごちゃくじょう)を追われたため、播磨国を離れ備後国(びんごのくに)(現在の広島県)鞆(とも)に身を寄せることになりました。官兵衛の主人であった小寺政職(こでらまさもと)は天正10(1582)年その地で没しますが、その子氏職(うじもと)は秀吉の許しを得、官兵衛によって播磨国飾磨津(しかまつ)に招かれます。そして、豊前(ぶぜん)・筑前(ちくぜん)と官兵衛に従い、晩年は文化人として連歌(れんが)・茶などの分野で活躍し、太宰府で没しました。