平成4年5月19日(火)~7月26日(日)
遺跡上空より北を望む |
遺跡上空より南を望む |
早良平野は、日本でもっとも早く稲作を始めた地域の1つで、クニの形成も早く、西区吉武高木遺跡では、鏡・玉・剣を副葬した日本最古の王墓級の墓が発見されています。
今回、平成3年に発見された青銅器・鉄器を中心に、早良平野の奥に位置する東入部遺跡の弥生時代資料を展示します。この遺跡は圃場整備工事で遺跡が壊されるため、福岡市教育委員会埋蔵文化財課が、事前に発掘調査を行っており、紀元前2世紀頃から紀元1世紀頃の墓地や住居跡が発見されました。墓地内の甕棺には青銅製の剣や腕輪、鉄製の剣・刀・鉾など貴重な遺物が副葬されており、早良平野の奥部を統轄した統率者の墓と考えられます。これら当時のクニの一端を示す資料をごらん下さい。
紀元前1~2世紀の東入部
大型の住居跡8棟と木棺や甕棺などの墓があります。住居は円形に掘り下げた竪穴式住居で直径7~9mあり、通常の住居(直径5mほど)に比べると2倍の面積があります。墓は甕棺や木棺などが○基発見されており、木棺墓2基から銅剣各1点が、他の1基から青銅製腕輪10点が出土し、大型の住居とともにこの地域を統轄した人のものだと考えられます。
紀元1世紀頃の東入部
墓地の南北両側に墳丘墓(盛り土をもった墓) が造られました。盛り土はほとんど削られていましたが、墓の周囲を巡る溝が残されており、北側の墳丘墓が16×14mで溝の幅が8m、南側の墳丘墓が10×11mで溝の幅が4mです。墳丘墓には甕棺が葬られ、北側墳丘墓の甕棺から布に巻かれた鉄剣ややりがんな、鉄鉾、鉄刀、大刀が出土しました。
東入部遺跡と吉武遺跡群
西区吉武遺跡群は東入部遺跡と同時代の墓地です。紀元前2世紀頃には吉武高木遺跡で鏡、銅剣、銅鉾、銅戈、勾玉などを副葬した日本最古の王墓級の墓が、紀元1世紀頃には吉武樋渡遺跡に墳丘墓が造られ、鏡、銅剣、鉄刀などが副葬されていました。吉武遺跡群は、常に東入部遺跡より多くの副葬品をもっていました。このことから吉武が早良平野の統轄者で、青銅器を少しもっている東入部・有田・飯倉などの遺跡はその下で小地域を統轄していたと考えられます。
遺跡の全体 | |
北側墳丘墓 | 銅剣を副葬していた84号甕棺墓 |
鉄刀を副葬していた114号甕棺墓 | 127号甕棺内の銅釧 |