平成4年7月21日(火)~10月4日(日)
歯朶前立兜(黒田資料) |
赤合子形兜・黒糸威胴丸具足 小具足付(黒田資料) |
この展示は、黒田資料として本館に収蔵されている旧福岡藩主黒田(くろだ)家の資料のうち、重要文化財等に指定されている品品を中心にして、安土桃山(あづちももやま)時代から江戸時代初めの黒田氏の歴史を紹介するものです。これらの品々には、江戸時代に著された「黒田御家御重宝故実(くろだおんけごじゅうほうこじつ)」の中で、由緒(ゆいしょ)や伝来(でんらい)が紹介されているものもあります。動乱の時代を生き抜いた大名の家宝(かほう)らしく刀剣(とうけん)や甲冑(かっちゅう)などの武具(ぶぐ)が中心ですが、先祖(せんぞ)の武功(ぶこう)を示す書状などもあります。
黒田家の歴史をしるした書物には、3代藩主黒田光之(みつゆき)が貝原益軒(かいばらえきけん)に編纂(へんさん)を命じ、古文書(こもんじょ)等や遺品(いひん)にもとづいて、如水(じょすい)・長政(ながまさ)の事蹟(じせき)が記された「黒田家譜(くろだかふ)」があります。この「黒田御家御重宝故実」は「黒田家譜」にもとづいた、いわば物が語る黒田家の歴史解説といえます。
展示解説
第1期 黒田如水と長政 (7月20日~8月23日)
黒田如水(1546~1604)は、はじめ孝高(よしたか)といい、播磨(はりま)国(兵庫県)に生れ、信長(のぶなが)、秀吉(ひでよし)の天下統一事業に従い、中国地方をはじめとし、九州や関東の各地に転戦(てんせん)しました。
「黒田御家御重宝故実」には、彼の愛用した合子形(ごうすなり)の兜(かぶと)が記され、「如水の赤合子(あかごうす)」として人々に恐れられたとあります。晩年(ばんねん)は福岡城に隠棲(いんせい)しますが、その辞世(じせい)の和歌(わか)も重宝(じゅうほう)として帖仕立(ちょうじたて)で残されます。また彼は若い頃から、キリシタン大名として有名です。
黒田長政(ながまさ)(1568~1623)は如水の長子で、彼の大水牛脇立(だいすいぎゅうわきたて)の桃形兜(ももなりかぶと)は、当時の武将の変(かわ)り兜の中でも有名な兜です。「御重宝故実」には、長政がこの兜を愛用したこと、また彼の同僚の福島正則(ふくしままさのり)の一の谷形兜と仲直りのしるしに交換したことが記されています。
第2期 黒田長政と関ケ原(せきがはら)合戦 (8月25日~10月4日)
さて秀吉の死後の慶長5(1600)年、徳川家康の率いる東軍と、石田三成(いしだみつなり)が中心となった西軍が、美濃(みの)国(岐阜県)の関ケ原で天下分け目の決戦をします。黒田長政は戦いの前から、豊臣家諸将(とよとみけしょしょう)のうち福島正則など反(はん)三成派の武将達のまとめ役を勤め、また、秀吉の甥で、一時は筑前(ちくぜん)の領主だった小早川秀秋(こばやかわひであき)を味方につけたりして、戦闘を勝利に導きます。「御重宝故実」には、まず家康から感謝のしるしに与えられた書状や歯朶前立(しだまえたて)の南蛮(なんばん)兜が記されています。また9月15日の合戦の日に着用した一(いち)の谷形(たになり)兜ものっています。この甲冑を着用した長政の馬上像(ばじょうぞう)は、当時の武将の画像(がぞう)としては珍しく、甲冑とあわせて重要文化財となっています。また戦功で長政は筑前の国1国を拝領したので、彼は自分の愛用の長吉(ながよし)の槍に「一国(いっこく)」と名付けたことも記されています。さらに帽子(もうす)形兜は長政が帰依(きえ)した京都大徳寺の春屋国師(しゅんおくこくし)の帽子をかたどり、晩年に作ったものと記されています。