平成4年9月1日(火)~10月25日(日)
フランスでの日本奇術師(絵入りロンドンニュースの挿絵) |
はじめに
15世紀からはじまった西洋の海外進出の時代、いわゆる「大航海時代」になると、その憧れは現実の出会いとなって日本との交流が始まった。
ここでは、文字による日本の紹介や未だみぬ日本の姿を想像した西洋の文献や地図をはじめ、ペリー関係およびシーボルト関係などの資料を使い、西洋人のみた日本はいかなるものであったか、またどのように理解していたかなどをテーマに展示しています。
日本人の人相 |
ペリーの首里城訪問 |
シーボルト(1796‐1866)について
シーボルトは文政6(1823)年、オランダ商館付医官として来日した。当年27才であった。
滞日中、ヨーロッパの最先端の技術をもつ医師として活躍、許されて長崎・鳴滝(なるたき)に塾を開いて、医学の指導にあたった。また、科学者としてわが国の歴史、宗教、動植物、民俗、習慣など広い分野にわたって学術的な調査研究を行った。
シーボルトは帰国後、『日本』、『日本植物誌』、『日本動物誌』などを刊行するが、これらの著述のために収集した資料は、数万点にのぼるといわれている。
ペリー(1794‐1858)について
嘉永6(1853)年6月3日、黒船4隻を率いたアメリカ東インド艦隊司令官、ペリーが浦賀沖に来航した。さらに翌年の再度の来航により横浜に応接所を設けて会談して、その結果日米和親条約が締結されることになった。
この日本遠征については、ハークスの『ペリー提督日本遠征記』がある。本書は、ペリー艦隊の行動の一切を記録したアメリカ政府の公刊書で、挿絵は同行した画家のハイネと写真家のブラウンの手になる。日米交渉史の最初の秀れた基本的史料である。