平成4年10月6日(火)~12月6日(日)
黒田忠之画像(黒田資料) |
江戸時代の旅1」について
江戸時代は、陸では街道(かいどう)や宿駅(しゅくえき)、海では港や航路などが整えられ、様々な人々がこれらを利用することができるようになった時代です。しかし、これらは、当初は幕府(ばくふ)や大名(だいみょう)のために整えられたものでした。
例えば、福岡藩主(ふくおかはんしゅ)の参勤交代(さんきんこうたい)は、陸路・海路を使っての、江戸へ1ケ月余りの長い旅でした。また、福岡藩は佐賀藩と1年交代で、長崎の警備を担当していました。そのため、当番の年は約1,000人の藩士が海路長崎へ派遣され、福岡藩主も度々長崎へ見廻りにいきました。福岡藩主の見廻りには、長崎街道(ながさきかいどう)や唐津街道(からつかいどう)を利用することもありました。このような藩主の旅は、義務づけられた仕事としての公用の旅だったということができます。
ところで、交通制度の整備は、日本全国の人々の経済や文化の面での活動を促すことにもなりました。特に商業の面では、商品の運搬等、廻船(かいせん)が盛んに利用されました。更に、江戸時代後期になると、一般庶民の伊勢(いせ)参り、金毘羅(こんぴら)参り等の社寺参詣を目的とした旅が盛んに行われるようになります。この旅は、庶民にとって一生に1度の日常生活から離れた行楽の旅でもありました。この旅の様子は、現在残されている当時の地図、名所図会(めいしょずえ)、紀行文等で窺い知ることができます。
この展示では、(1)藩主公用の旅、(2)街道をゆく人々、の2コーナーに分けて江戸時代の旅の一端を紹介します。
作品解説
黒田忠之(くろだただゆき)画像(黒田資料)
福岡藩御用絵師小方守房(ごようえしおがたもりふさ)による2代藩主黒田忠之(1602~1654)の画像。忠之の時代は島原の乱や長崎へのポルトガル船来航などがあり、福岡藩からも出兵した。
大日本道中細見記 |
大日本道中細見記(だいにほんどうちゅうさいけんき)
携帯用の地図。国名が赤色で摺られている。また、各藩の城下町には、藩主名、藩の石高、その城下町への江戸よりの距離が記されている。
中国路絵図(黒田資料) |
中国路絵図(ちゅうごくじえず)(黒田資料)
参勤交代で、当初福岡藩主は福岡の大波戸や箱崎(はこざき)から乗船し、瀬戸内海(せとないかい)を経由して大坂に上陸していたが、江戸時代中期以降になると若松(わかまつ)・黒崎(くろさき)等から乗船するコースをとるようになった。