平成5年5月11日(火)~7月18日(日)
1945(昭和20)年6月19日夜半の焼夷弾攻撃で、福岡市は大きな被害を受けました。この一夜で市内では、かけがえのない多くのものを失いました。しかし今日では、この日のことを知る人も少なくなりました。この空襲だけでなく、この戦争のこと-人々は国の内外でどのようにくらし、また何をしたのか-を、私たちはどのくらい知っているでしょうか。明日のために私たちは何を伝えなければならないのでしょうか。
本年も6月19日を迎えるにあたり、当館に収蔵されている資料から、戦時中の生活の様子が窺えるものを展示しています。今日の平和なくらしと未来について考える機会になればと思います。
本館が所蔵しております戦時資料でご覧いただく「戦争とわたしたちのくらし」展も3回目となりました。今回は「代用品(だいようひん)」に注目してみました。
中国大陸での戦争が泥沼化した昭和14(1939)年頃、切符(きっぷ)制・配給(はいきゅう)制とともに登場するのが代用品です。繊維(せんい)としては綿糸・絹糸・羊毛不足による「スフ」(人造糸のこと。スティプル・ファイバーの略)が有名ですし、金属を供出(きょうしゅつ)した後には陶器のボタン、湯たんぽ、焼き網などが作られました。終戦間近には陶製の貨幣まで作られたのです。食品も米に代わり小麦粉、オカラ、イモなどが用いられました。
この他にも「代用品」ではありませんが、物資(ぶっし)の再利用が呼びかけられ、モンペや防空頭巾(ぼうくうずきん)は着物をほどいて作られたりしました。また、たばこや人気役者の片仮名(かたかな)名前が漢字になったり、百人一首に代わって「愛国百人一首」が編纂されたりと、以前の自由な表現に代わる様々(さまざま)なものが登場しました。
このような措置(そち)は国民の戦意を高揚させ、苦しい戦況(せんきょう)を支えようとするものでしたが、その一方で「代用品」の存在は庶民の生活力の強さを今日に伝えているとも言えるでしょう。
今回の展示では「代用品」をひろくとらえ、戦時体制下での経済統制(けいざいとうせい)によって代わられねばならなかったいろいろな品をとりあげました。戦時下の人々の暮らしぶりに、思いを寄せていただければと思います。