平成5年7月20日(火)~10月3日(日)
「日朝関係史‐朝鮮通信史日本をゆく‐(近世編)」について
江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわいえやす)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって断絶された朝鮮国との国交の回復を行いました。そして、朝鮮国王の親書(しんしょ)を持った外交使節団が江戸時代を通じて12回来日しました。最初は、朝鮮出兵の戦後処理のためでしたが、寛永年間(かんえいねんかん)以降は、主に将軍の代替りや、世継(よつぎ)誕生の時に来日しました。これらの使節団は、朝鮮通信使と呼ばれています。
ところで、日本と朝鮮国との交渉は、一般的に対馬藩を介して行われました。そして、朝鮮通信使が来日し、帰国するまで対馬藩士が随行しました。また、この藩の儒学者(じゅがくしゃ)雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、外交官として活躍するだけでなく日朝両国の相互理解を深めるために力を尽くし、朝鮮語の学校を開設したり朝鮮語の教科書『交隣須知(こうりんしゅち)』を著しました。
朝鮮通信使は、まず対馬に着き、その後海路・陸路を使い江戸へ行きます。途中では、諸大名の接待を受けました。例えば、福岡藩では藍島(あいのしま)(現在の新宮町相島)に客館を設け、朝鮮通信使を接待しました。この時、福岡藩儒(ふくおかはんじゅ)である貝原益軒(かいばらえきけん)や竹田定直(たけださだなお)なども、その応待のため藍島に遣されました。
さて、今回展示している「朝鮮通信使行列絵巻(ちょうせんつうしんしぎょうれつえまき)」は正徳元(1711)年の時のもので、朝鮮通信使の道中の行き帰り、江戸城(えどじょう)へ登城(とじょう)する時の様子が描かれています。この中で、朝鮮通信使は正使、副使から通事(つうじ)(通訳)、楽隊に至るまで、総勢400人余りが詳細に描かれています。絵巻の長さは各巻40メートル前後の長いものです。
本展示では、この絵巻を中心に江戸時代の朝鮮通信使の足跡(そくせき)をたどってみたいと思います。
作品解説
交隣須知 |
交隣須知(こうりんしゅち)
雨森芳洲の「隣国(りんごく)と交わるにはその国の言葉を理解しなければいけない」という理念のもとに作成された朝鮮語の教科書である。内容は、時候・地理等の分野に分かれ、個々の単語とその用例が記されている。
藍島唱和筆語 |
藍島唱和筆語(あいのしましょうわひつご)
正徳元(1711)年に福岡藩の儒学者が藍島で朝鮮通信使と対話した際の記録。「韓」(通信使側)「倭」(福岡藩側)の対話形式となっている。
朝鮮信使登城行列図(ちょうせんしんしとじょうぎょうれつず)(「朝鮮通信使行列絵巻」の内)
朝鮮通信使が江戸城(えどじょう)へ登城する時の行列を描いたもので、皆正装をしている。特に正使、副使、従事官は、乗り物を輿(こし)に換えている。朝鮮国王の国書は江戸城で将軍に渡された。
朝鮮信使登城行列図(「朝鮮通信使行列絵巻」の内) |