平成5年10月5日(火)~11月28日(日)
梅ケ谷のポスター |
今年も九州場所の季節をむかえました。昨年にひきつづき相撲(職業相撲)の資料をご覧いただきます。現在の相撲競技の原型となったのは、江戸時代の「勧進相撲」であるといわれています。そのころは江戸と上方に相撲集団があり、それぞれに興行を行なっていました。番付も江戸では縦型、上方では横型が一般的でした。また興行は屋外で晴天の日だけ行なわれたため、本来10日の予定が大幅にのびることも多かったようです。両国に相撲常設館として国技館が建設されたのは明治42(1909)年、福岡県出身の初代梅ヶ谷(雷権太夫)の功績によるものでした。このように福岡とも縁が深い幕末から明治にかけての大相撲の歴史をたどってみたいと思います。
梅ケ谷書「静堂」 |
梅ケ谷の書「静堂」
明治28(1895)年4月に、秦喜三郎が、米谷連平と上京した折に梅ケ谷(当時は雷権太夫)に会い、書いてもらったもの。書に押された印とともに、秦家に保管されていた。この経緯は、書の下部に一緒に表装された「初代梅ヶ谷の書によせて」に記述されている。
東京相撲秋月之賊徒ヲ捕縛スル図 |
東京相撲秋月之賊徒ヲ捕縛スル図
明治9(1876)年10月、福岡県甘木町で巡業中であった梅ケ谷一行が、秋月の乱に遭遇し、反乱軍の捕縛に協力したというニュースは、このような錦絵に描かれて売出された。秋月の乱は旧秋月藩士約45O名が、明治政府の新政に対して挙兵したもので、宮崎車之助(旧藩少参事、石高不詳、画面右手「宮崎久留馬之介」)や土岐清(旧藩少参事、250石、画面左手「土岐真澄」)らが指導していた。絵師の梅堂国政は明治20年代に活躍した浮世絵師で、5代目国政とも名乗った。
なお、本資料には表題に「とうけいすまい」と振仮名が付けられている。「すまい」は「相撲」の古い読みである。また「とうけい」は明治20年頃まで「東京」にしばしばつけられた振仮名で、明治初期にはこのように発音した可能性が高いと考えられている。