平成5年10月5日(火)~11月28日(日)
黒田一成像 |
黒田睡鴎像 |
黒田一貫像 |
三奈木黒田氏について
三奈木黒田(みなぎくろだ)氏の初代は黒田一成(くろだかずなり)といい父は摂津(せっつ)国(現兵庫県)の土豪伊丹(どごういたみ)氏の一族で加藤重徳(かとうしげのり)と言いました。天正(てんしょう)6(1578)年、織田信長(おだのぶなが)と摂津(せっつ)の荒木村重(あらきむらしげ)が争った際、荒木側に捕まり獄に入れられた黒田孝高(くろだよしたか)(如水(じょすい))を重徳が世話した縁(えん)で、その子一成が孝高(よしたか)に養われ、如水の子長政と兄弟同様に育てられ、後に黒田姓を与えられます。
その後、黒田一成は黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)と呼ばれる重臣の一人として母里太兵衛(もりたへえ)らと共に長政(ながまさ)を助け、関(せき)ケ原(はら)の合戦(かっせん)の戦功(せんこう)で長政が筑前(ちくぜん)の大名となると、下座郡三奈木(げざぐんみなぎ)村(現甘木市)を中心に1万2,000石を与えられ、三奈木黒田氏と呼ばれることとなりました。2代藩主忠之(ただゆき)の時も、黒田騒動(くろだそうどう)や島原(しまばら)の乱(らん)で福岡藩の重鎮(じゅうちん)として働き、晩年は剃髪(ていはつ)して睡鴎(すいおう))と号します。
2代以後の当主も、藩主の力が強くなり他の重臣達が力を失っていく中、1万6,000石に加増され、唯一の万石以上の大身を保って筆頭家老を勤め、藩政の中で重要な役割を果します。そして宝永(ほうえい)6(1709)年には家老より一段上格の大老を命じられ、幕末に至っています。
作品解説
黒田一成(くろだかずなり)像
黒田二十四騎図に描かれた黒田一成で銀中刳(ぎんなかぐ)り大立旗脇立黒漆塗頭形兜(おおたてものわきたてくろうるしぬりずなりかぶと)と紺糸威(こんいとおどし)胴丸具足、その上に丸に大と小の字の入った模様の陣羽織(じんばおり)を着用している。一成は関ケ原の合戦に黒田長政(くろだながまさ)に従って参加したが、この兜を着用していたため戦場で目立ったという。彼の武具は今回の展示の中で見ることができる。
黒田睡鴎(くろだすいおう)像
黒田一成は元亀(げんき)2(1571)年に生れ、慶長(けいちょう)5(1600)年、福岡藩が成立してから、寛永(かんえい)9(1632)年の黒田騒動、同14年の島原の乱出陣を経て同20年に外孫の一任(かずとう)に家督を譲って隠居し、剃髪(ていはつ)して睡鴎(すいおう)と号した。晩年は花鳥風月を楽しんだが明暦(めいれき)2(1656)年に86才で死去した。画中には書を読む睡鴎と彼の2人の家臣が描かれている。
黒田一貫(くろだかずつら)像
黒田一貫は寛永(かんえい)20(1643)年に福岡城内の三奈木黒田邸で生れ、寛文(かんぶん)12(1672)年に家督(かとく)を継ぎ、3代藩主黒田光之(みつゆき)、4代綱政(つなまさ)に任えた。その顔立ちは重厚だったが温和な人柄で、和漢の文学から軍事にまで広く通じており、元禄時代の福岡藩政の政治・文化の面で重い地位を占めていた。