平成6年2月1日(火)~4月10日(日)
謝国明画像(松蔭賛)/江戸時代 |
謝国明(しゃこくめい)は、13世紀前半に活躍した博多綱首の代表的人物。生没年不詳。中国臨安府(りんあんふ)(杭州(ハンチョウ))出身といわれ、日本人女性を妻とし子息がいた。玄界灘に浮ぶ宗像社領小呂島(おろのしま)(福岡市西区)の地頭(じとう)と称し、島を貿易拠点として利用していたらしい。宋より帰国した聖一国師(しょういちこくし)(弁円)を招いて、1242年、博多に承天寺(じょうてんじ)を建立。また中国の径山罹災(きんざんりさい)に際し、その復興を助けるため、板を運送し寄進している。 |
平安時代も後半になると、鴻臚館(こうろかん)での官貿易は衰え、宋商人による私貿易が始まりました。宋商人たちは次第に博多に住みつき「博多綱首(はかたこうしゅ)」と呼ばれ、有力な寺社や貴族と結びつき、博多を拠点に日本と中国間や広く東アジア海域で積極的に貿易活動を行いました。その活動時期は、11世紀末から13世紀後半の蒙古襲来(もうこしゅうらい)に至るほぼ200年間であり、いわば12~13世紀の日本における「華僑(かきょう)」といえるでしょう。彼らのなかには日本人と結婚したり、日本人名を名乗るものもおり、博多は、後世「大唐街(だいとうがい)」と呼ばれる博多綱首たちの居住区が形成され、国際都市として繁栄しました。博多網首たちは国際都市博多の貿易機能を担っただけでなく、その多様な活動からみて、中世博多の国際性と文化的水準を高める役割をも果たしたと思われます。
今回の展示では、博多に居住した博多綱首たちの足跡を、「宋人往来(そうじんおうらい)」「博多綱首謝国明(はかたこうしゅしゃこくめい)」「綱首(こうしゅ)たちの文化活動(ぶんかかつどう)」「博多大唐街(はかただいとうがい)」の4つのコーナーに分けて、たどることにします。
寧波(ニンポー)の三石碑(さんせきひ)
太宰府博多津居住の丁淵(ていえん)という船員クラスと思われる宋人が、1167年、母国中国の明州(めいしゅう)(寧波(ニンポー))の寺のために、門前の石敷(いしじ)き道一丈(約3.07m)分の代銭十貫文を寄進したことを刻む。博多居住の宋人が、外国に残した貴重な史料である。
八幡筥崎宮造営材木目録(はちまんはこざきぐうぞうえいざいもくもくろく)
博多居住の張興(ちょうこう)と張英(ちょうえい)の二人の「博多綱首」が、西崎の領主の所役(しょやく)(負担)として、筥崎宮の玉垣(たまがき)を造るという記事が見える。張興は、通事(つうじ)(通訳)という役職にあり、一方、張英は鳥飼(とりかい)二郎船頭という日本名を名乗っていた。「博多綱首」という名称が見える重要な史料である。