平成6年4月12日(火)~6月12日(日)
福岡藩主とその甲冑(かっちゅう)
福岡藩は慶長(けいちょう)5(1600)年、関(せき)ケ原(はら)合戦で徳川家康(とくがわいえやす)を勝利にみちびいた黒田長政(くろだながまさ)が、家康から筑前(ちくぜん)国を与えられ、福岡に城下町を築いたことに始まります。そして幕末の藩主長溥(ながひろ)を経て、明治4(1871)年に知藩事(ちはんじ)の地位をさった12代長知(ながとも)まで、約270年にわたり、筑前の地を治めました。
さて今回、歴代の福岡藩主の甲胃を一堂(いちどう)に展示しました。その中には、初代長政が関ケ原合戦に着用した一(いち)の谷形兜(たになりかぶと)、黒糸威桶側胴丸具足(くろいとおどしおけがわどうどうまるぐそく)など実戦で使用された甲胃から、元禄(げんろく)時代の3~5代の藩主の、復古調(ふっこちょう)(室町時代)の甲胃、一橋家(ひとつばしけ)や他家から幼くして養子(ようし)に入った7~9代の藩主の形式的な甲胃、さらに6代継高(つぐたか)や11~12代など動乱期に初代の活躍にあやかろうと模倣(もほう)した甲冑などがあります。大名の晴れ着ともいえる甲胃も時代とともにその姿をかえているのです。
作品解説
A、大水牛脇立星兜(だいすいぎゅうわきたてほしかぶと)・黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく) 小具足付(こぐそくつき) 1領(りょう)(写真上)
兜の鉢(はち)は室町(むろまち)時代大永(だいえい)5(1525)年の明珍信家(みょうちんのぶいえ)の作。鉢金(はちがね)を鋲(びょう)で留(と)める星兜で阿古陀(あこた)(瓜(うり)の一種)形。初代長政(ながまさ)をまね、桐(きり)材に金を塗った張懸(はりかけ)の大水牛脇立を持つ。胴丸は室町復古(むろまちふっこ)調で、草摺(くさずり)も8枚と多く、当世具足にない大袖(おおそで)を持つ。
B、一(いち)の谷形兜(たになりかぶと)・紺糸威胴丸具足小具(こんいとおどしどうまるぐそく) 小具足(こぐそく)付 1領(写真中)
一の谷は源平合戦で有名な鴇越(ひよどりごえ)の崖(がけ)を現したもので、桐板をまげ銀がおされている。初代長政が関ケ原の合戦で着用して有名だが、6代継高が長政をしのんで自分のために作らせたもの。
C、十六間筋(けんすじ)兜・萌黄素掛威桶側(もえぎすかけおどしおけがわどう)胴具足 小具足付 1領(写真下)
鉢(はち)に16本の筋金(すじがね)を持ち、鍬形(くわがた)の前立(まえたて)を持つ。胴(どう)は脇でむすぶ桶側胴(おけがわどう)で、草摺は太く数カ所でつづる素掛威(すけけおどし)。子供用で7代治之が一橋家から持参したもの。
福岡藩主略伝
初代黒田長政(ながまさ)(1568~1623)
黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))の長男。父とともに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州陣、小田原陣、朝鮮出兵に従軍。後に徳川家康(とくがわいえやす)に仕える。
2代黒田忠之(ただゆき)(1602~1654)
長政の長男。生れながらの大名で、古くからの重臣と対立し、黒田騒動がおきる。後に島原の乱などに出陣する。
3代黒田光之(みつゆき)(1628~1707)
福岡藩政が確立した時期の藩主で、約34年間、強い力をふるった。貝原益軒(かいばらえきけん)に「黒田家譜(かふ)」を作らせる。
4代黒田綱政(つなまさ)(1659~1711)
光之の三男。兄の廃嫡(はいちゃく)で藩主となる。父の死後、藩財政の建直しをはかる。絵画を好み狩野派に学んだ。
5代黒田宣政(のぶまさ)(1685~1744)
網政の二男。江戸に生れ、父のあとを継ぐが病気のため、従弟に藩主を譲る。後に江戸で隠居しそこで死去。
6代黒田継高(つぐたか)(1703~1775)
綱政の四男直方(のおがた)藩主黒田長清(ながきよ)の長男。宣政の養子となって本藩を継ぎ、50年の間、藩政建直しに努めた。
7代黒田治之(はるゆき)(1752~1781)
一橋宗尹(ひとつばしむねただ)(八代将軍徳川吉宗(よしむね)三男)の四男で、嗣子を失した継高の養子となる。文武興隆(ぶんぶこうりゅう)に努めた。
8代黒田治高(はるたか)(1754~1782)
四国丸亀藩藩主京極高慶(まるがめはんはんしゅきょうごくたかよし)の三男で、治之急病のため、幕府の命で急ぎ養子となり藩主を継ぐが1年で病死。
9代黒田斉隆(なりたか)(1777~1795)
一橋治済(ひとつばしはるさだ)の二男で11代将軍徳川家斉(いえなり)の弟。幼くして治高養子となり、17才で筑前に入るが翌々年死去。
10代黒田斉清(なりきよ)(1795~1851)
わずか1才で藩主となり、秋月藩主の後見を受ける。化政期(かせいき)に長崎警備を務め、本草学や蘭学を好んでシーボルトとも交流する。
11代黒田長溥(ながひろ)(1811~1887)
薩摩(さつま)藩主島津重豪(しまづしげひで)の九男で江戸に生れ斉清の養子となる。蘭学を好み、幕末の藩政改革を進める。公武合体派(こうぶがったいは)として活躍。
12代黒田長知(ながとも)(1838~1902)
伊勢津(いせつ)藩藤堂(とうどう)氏から長溥の養子となる。幕末期は養父の名代として活動する。明治2年初代知藩事(ちはんじ)となるが、同4年の太政官贋札(だじょうかんがんさつ)事件で地位を罷免(ひめん)される。