平成6年8月9日(火)~10月2日(日)
大覚禅師像 |
大友義統安堵状 |
夢窓疎石像 |
福岡市を中心とする地域には、貴重な文化財を所蔵している寺院や神社があります。これらの寺社所蔵の文化財を紹介して、それぞれの寺社の歴史、さらにそこから知られる郷土の文化、歴史を理解していただきたいと思います。今回は西区今津(いまづ)の龍起山勝福寺(りゅうきさんしょうふくじ)の文化財を展示します。
勝福寺は現在、臨済宗大徳寺派(りんざいしゅうだいとくじは)に属する古刹(こさつ)です。寺地は毘沙門岳(びしゃもんだけ)の南側に位置し、近くに史跡元寇防塁(げんこうぼうるい)があります。勝福寺は日本禅宗の基を築いた中国僧の大覚禅師蘭渓道隆(だいかくぜんじらんけいどうりゅう)が開いたと伝えます。蘭渓は淳祐(じゅんゆう)6年(1246)商船に乗って、博多に着き、京都、鎌倉に上り、のち北条時頼(ほうじょうときより)の外護(げご)を得て、鎌倉に建長寺(けんちょうじ)を開きました。
勝福寺にはその大覚禅師像のほか、夢窓国師(むそうこくし)像、実山真禅師(じつざんしんぜんじ)像と3幅の重要文化財の頂相(ちんそう)(禅僧の肖像)が所蔵されています。大覚禅師像は絹に濃彩で描かれた像で、像の背後の椅子(いす)に掛けられた布が鮮やかな色彩でパッチワークされた当時の裂(きれ)が目を引きます。すぐれた描写の頂相で、鎌倉時代の頂相の代表作の一例です。夢窓疎石(そせき)は室町時代の日本禅宗界を代表する人物で、全国にその派が広まりましたが、この像には聖一国師円爾(しょういちこくしえんに(じ))の法嗣(はっす)(法を嗣いだ弟子)である古源邵元(こげんしょうげん)の賛が書かれています。実山口真は勝福寺の歴代住持(じゅうじ)の一人で、第17世に数えられます。
2巻にまとめられた古文書は検討を要するものも含まれますが、中世の勝福寺を語るものです。それによると鎌倉時代の末期、勝福寺は北条氏の一門であった大仏(おさらぎ)氏の祈祷所であったと伝えられ、鎌倉幕府の北条氏が対外関係を重視して、博多湾内の今津にあった勝福寺に深く関係していたものと考えられます。また、その前後の時期に周辺の名主らが荒野、田畑を寄進して、次第に寺領が形成され、また寺内での殺生を禁断されました。
南北朝時代には足利尊氏(あしかがたかうじ)や九州に下向(げこう)した足利直冬(ただふゆ)(尊氏の庶長子(しょちょうし))、さらに2代将箪義詮(よしあきら)が寺領の知行(ちぎょう)を安堵(あんど)し、また守護や地頭による違乱の停止を命じたと伝える文書が残されています。1360年には方外宏遠(ほうがいこうえん)(夢窓疎石の法嗣)が住持のとき、後光厳(ごこうごん)天皇によって勅願寺(ちょくがんじ)とされました。
室町時代の文書は欠落していますが、戦国時代の1549年、大般若経(だいはんにゃきょう)と涅槃図(ねはんず)が相次いで寄進され、この時に何らかの寺院整備が行われたものと思われます。その後、今津を領有した戦国大名大友義統(おおともよしむね)によって住持職の安堵(あんど)が行われました。
江戸時代には博多崇福寺(そうふくじ)の傘下に連なり、大徳寺に関連した寺院となります。そのために大徳寺派下の僧の書跡が所蔵されます。すなわち大徳寺第147世玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、同184世で崇福寺第80世江雲宗龍(こううんそうりゅう)などの書が見られます。また、絵画では幕府の御用絵師であった狩野中橋(かのうなかばし)家の狩野安信(やすのぶ)(探幽(たんゆう)の末弟)や福岡藩御用絵師の尾形洞霄(どうしょう)らの絵があります。書籍では博多妙楽寺(みょうらくじ)に所蔵されていた宋・元・明の禅僧の書を集めた『石城遺宝(せきじょういほう)』があり、中世博多の禅宗文化の国際性を知る上で貴重です。
今津の地は昭和33年2月に勝福寺の西側の海岸から白骨200体分とともに100余点の青磁、青白磁、白磁ほか宋銭が出土し、中国との交易の要地であったことがうかがえます。勝福寺の北側には栄西(えいさい(ようさい))が入宋の折に立ち寄った誓願寺(せいがんじ)(もと大泉坊)があり、この地域一帯が対外交流に関与していたと思われます。
今回の展覧会では勝福寺所蔵の文化財を展示し、勝福寺が対外との交流によりはやくから日本に禅宗文化を受入れた禅宗寺院で、今日までそれを継承したことを紹介します。
達磨図 | 石城遺宝 |