平成6年9月27日(火)~12月4日(日)
如水公辞世短冊(黒田資料) |
おもひおく言の葉なくてつひに行く道はまよはじなるにまかせて 如水 |
忠之公奉納連歌二千句(黒田資料) |
「近世大名の文事展-福岡藩主の芸術と学問-」の開催にあたって
近世の大名は、どのような芸術や学問を嗜(たしな)んでいたのでしょうか。
安土桃山時代にかけての大名は、合戦での強さを第一としていました。合戦における勝敗が、大名の進退を大きく左右したからです。しかし、その中で室町時代よりの芸術や学問を受け継いだ細川幽斎(ほそかわゆうさい)(藤孝(ふじたか))の様なすぐれた文化人もいました。
福岡藩祖である黒田如水(くろだじょすい)(孝高(よしたか))も、織田信長(おだのぶなが)の天下統一にカを尽し、信長の死後は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の参謀として活躍した武将でしたが、同時に幅広い教養をもった文化人として有名でした。彼は、茶の湯を千利休に学び、和歌については細川幽斎より教えを受けました。
ところで、茶会や歌会、能楽は大名同士の情報交換の場でもありました。世の中がどう動いていくか予断が許されぬ状況にあった当時、茶室の中ではしばしば政治の話題がでたといわれています。如水も、そもそもは秀吉に仕えていたことが茶の湯を学ぶきっかけとなったと思われますが、後には自ら茶の湯を嗜むものの作法を著すほどの打ち込み方でした。
さて、如水の息子長政(ながまさ)は天下分け目の関ケ原(せきがはら)の合戦で徳川方につき、戦後ほぼ筑前(ちくぜん)一国(現福岡県)の大名に封ぜられました。この後、江戸時代を通じて約270年間黒田氏は筑前国を治めることとなります。
この時代の大名は、武芸軍学はもとより国を治めるために必要な政治、経済、歴史などを必須の学問としていました。当時、長政が嫡子忠之(ただゆき)の教育について、「手習を怠りなく励ませるように」と、その傳役(もりやく)に宛てた書状も残されています。また、元和元(1615)年に幕府が出した武家諸法度(ぶけしょはっと)には「文武弓馬之道可ニ相嗜一事」とあり、公(おおやけ)にも大名は家格にふさわしい文化活動が求められるようになりました。
菅公図<部分>(黒田資料) |
ところで、これらの文化活動は同時に大名自身の趣味ともなりました。17世紀半ばを迎えると、芸術や学問を尊重する気運が高まってきますが、この中で福岡藩主では4代綱政(つなまさ)が絵画を狩野安信(かのうやすのぶ)に学び、特に花鳥画(かちょうが)を得意としました。寺社に寄進した多くの絵馬も今に残されています。また時代は降りますが、6代継高(つぐたか)も『黒田新続家譜(くろだしんぞくかふ)』によると和歌を烏丸光栄(からすまみつひで)に学び、その名は世に広く知られていたといわれています。
江戸時代後期から幕末にかけては、西洋の学問に関心をもつ大名がでてくるようになります。福岡藩は、寛永(かんえい)年間より幕府の貿易港であった長崎の警備を命ぜられ、藩主も時々見廻りに行きましたが、その関係から10代斉清(なりきよ)や11代長溥(ながひろ)は、オランダ商館医シーボルトと会い、西洋の学問や西洋事情について様々なことを見聞しました。
本展示では、館蔵の黒田資料を中心に、福岡藩主の嗜んだ芸術や学問について紹介します。
箱崎松図(黒田資料) |
本草図(黒田資料) |
作品解説
如水公辞世短冊(じょすいこうじせいたんざく)(黒田資料)
黒田如水の辞世の和歌。如水の人生観を窺うことができ興味深い。
忠之公奉納連歌二千句(ただゆきこうほうのうれんがにせんく)(黒田資料)
2代忠之の代に福岡城で催された連歌会の記録。
菅公図(かんこうず)(黒田資料)
4代綱政の作といわれる。黒田氏は、代々太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)を厚く信仰した。
箱崎松図(はこざきまつず)(黒田資料)
6代継高の作で、箱崎の見事な松林を讃(たた)える自詠の歌が添えられている。
本草図(ほんそうず)(黒田資料)
写実的に描かれているこれらのスケッチは、博物学の研究のためのものと思われる。