平成6年12月13日(火)~平成7年2月26日(日)
15世紀に始まる西洋の海外進出時代、いわゆる大航海時代は、西欧人のそれまでの世界像を著しく拡大させている。未知の世界への航海は、航海術の発達を促し、その地理上の位置を正しく認識するようになり、つぎつぎに新しい地図の作成を試みさせた。
西欧からみて極めて東に位置する日本が、正確に地図化され、位置づけられる歴史をたどってみると、その時期は、(1)ジパングの時代(1543年以前)、(2)ポルトガルの時代(1543年~17世紀中頃)、(3)シーボルトの時代(17世紀後期~19世紀)といった、3時代に分けられている。
中国図(部分)ジョルジオ/1584年 |
ルドヴィコ・ジョルジオは、ポルトガルの地図製作者である。ヨーロッパの地図帳に現われた最初の中国図である。また、初めてかなり正確に博多(Facata)を北に置いた九州が描かれている。地図の上部が北でなく西なので現代人はまごつく。16世紀には上が北ということは、まだ完全に定着していなかったからである。 |
(1)ジパングの時代
日本はマルコ・ポーロが『東方見聞録』による紹介以来、黄金の国ジパングとして西欧の人々の憧(あこが)れの国となった。そのため日本の位置が確認されていないにもかかわらず、地図上にその姿をみせている。現在のところ、その最古のジパングの姿は、15世紀中頃の円形世界図のなかにみられる。
(2)ポルトガルの時代
ポルトガル人が1543年に日本を発見する。発見以来、ポルトガル人は、具体的な地図情報を基にした日本の図形を地図上に描くようになる。とくにポルトガル人でイエズス会士であるテイセラの日本図は、一目で日本とわかる図形となる。こうした日本図は、オランダのオルテリウスが編集した世界地図帳『地球の舞台』(1570年初版)に所収され、多くの目に触れることになる。
(3)シーボルトの時代
19世紀のシーボルト著の『日本』において、日本の図形は正確に描かれる。それは、シーボルトが、伊能忠敬による日本図(1821年完成)と間宮林蔵による間宮海峡のデータを収集し結実させたことに拠っている。
東インド図/オルテリウス/1570年 |
インド、中国、日本(JAPAN)が描かれているが、日本は極めて不思議な図形をしている。北に都(Miaco)の島々がならぶが、地名がついているのは土佐(Torza)ひとつである。この日本の形を、メルカトル型という。通称おたまじゃくし型といわれている。 |
日本図/ボルドーネ/1528年 | 日本図/テイセラ/1595年 |
単体の日本図(Ciampagu)としては、最初に印刷されたものである。しかし、西欧人が初めて日本にやってきたのは、1543年のことで、この地図が完成してから約20年後である。この日本図は、マルコ・ポーロの報告をもとに描かれており、空想の図形である。 | ポルトガル人の地図製作家であるテイセラの日本図。ヨーロッパで刊行された近代的地図としての単体の日本図のなかでは、最も古いもの。 |
日本国/ケンペル、ショイヒツァー/1727年 | ヤンソン 日本及蝦夷図(部分)1658年 | ティリオン 日本図(部分)1735年頃 |
1690年に来日したオランダ商館付の医師・ケンペルの死後、オランダ人のショイヒツァーが、ケンペルの遺稿をまとめて英訳し、1727年に『日本誌』を出版。その中の日本図で、日本が68州に分けられているのが特徴。 |
博多の地名表記について
ポルトガル語 | イタリア語 | ドイツ語 | オランダ語 | |
博多 | Facata | Facata Focata | Fakatta | Fakatta Facatta |
博多の地名が、”Facata”、”Facatta”となるのは、西欧人のほとんど例外なく日本語の「ハ」行を、「fa」、「fi」、「fu」、「fe」、「fo」、と書いていたからです。たとえば、”Figen”(肥前)、”Fiunga”(日向)などです。”Facata”という地名は、ポルトガル船長ヨルゲ・アルベルツが編集したイエズス会の報告書(1548年刊)に散見できるものが最も古いといわれている。