平成7年1月24日(火)~5月14日(日)
鬼瓦 銘「今宿瓦師又市」(福岡城) |
瓦葺きと茅葺き(行橋市稗田) 『福岡県の民家とその周辺』より |
鯱 (横川弘氏蔵) |
はじめに
日本で瓦がはじめて作られた6世紀以来、寺院や宮殿などの屋根を覆う材料として、瓦は重要なものであった。しかし庶民のふだんの生活にとって、重厚な瓦葺(かわらぶ)きの屋根は感嘆の対象でさえあれ、身近なものではなかった。
17世紀に発明された桟瓦(さんがわら)は、重量の軽減を実現し、江戸をはじめとする大都市の防火対策は、瓦が一般に普及するきっかけとなったが、日本のいたるところで瓦葺(かわらぶ)きの風景が見られるようになるには明治時代を待たねばならない。
福岡市西区今宿では、17世紀頃から近年まで、伝統的な技法を保ちながら瓦を作り続けてきた。
瓦の変遷
『日本書紀』によると、瓦作りの技術をはじめて日本に伝えたのは、百済(くだら)から来た四人の瓦博士で、588(欽明天皇13)年のことであったとされる。
当時の瓦は桶巻(おけまき)作りという方法で作られていたと考えられる。また表面には粘土をはがしやすいように桶にかぶせた布の痕(あと)が残されてる。屋根には、現在のものより大きく重い平瓦と丸瓦を組み合わせて葺いたため、それを支える丈夫な木組みと礎石が必要であった。
戦国時代には、織田信長が安土城を築城するために中国から一観(いっかん)という技術者を招き、布の代わりに雲母(うんも)の粉を使う方法と燻瓦(いぶしがわら)の製法が伝わった。
その後、1674(延宝2)年には大津の瓦師であった西村半兵衛が、平瓦と丸瓦をひとつにした桟瓦(さんがわら)を発明し、現在もっとも普及している形の瓦が生まれた。
今宿の瓦師
福岡市西区今宿に面する今津湾には横浜港があって、近世には郡内外の物産が集積され、大正時代にはいると姪浜炭坑の石炭の積出港として賑わった。
黒田長政に同行した播州の瓦師集団のうち、正木仁兵衛家は二代目以降から多くの分家を出した。17世紀末頃には、すでに今宿三右衛門の銘で今宿で瓦の生産が開始されている。
加藤一純『筑前国続風土記付録』(1799年)には「今宿の瓦尤(もっとも)よし。府廷(ふてい)にもさゝく」とあり、当時の今宿瓦の評判と福岡城への献納の様子を知ることができる。また1884(明治17)年からの皇居造営にあたっても、献上した見本が高い評価を得た。
しかし昭和の初め頃には、すでに2、3軒が瓦の製造をおこなう程度となり、1980年代前半に至って、今宿での瓦生産は終わりを迎えることになった。
丸瓦用切台 | 成形用の窯 | 桟瓦用切台 |