平成7年9月12日(火)~11月12日(日)
黒田忠之像(黒田資料) |
ポルトガル船入港時の長崎警備図 |
長崎港之図(黒田資料) |
「長崎警備と福岡藩1」の開催にあたって
福岡藩は、2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)の治世である寛永(かんえい)18(1641)年、外国に開かれた幕府直轄の貿易港長崎の警備を命じられました。この長崎港の警備を福岡藩では「長崎御番(ながさきごばん)」と称して、翌寛永(かんえい)19(1642) 年に佐賀藩が、長崎港の警備を命じられてからは、1年交代で長崎へ警備に行くこととなりました。ここでは異国船の警備を通じて、江戸時代の鎖国(さこく)体制下の貿易港長崎にかかわった福岡藩の役割について黒田資料を中心に展示します。
さて、長崎警備の直接の契機は、幕府がポルトガル船の入港を禁じ、その報復に備えてのものでした。幕府が布教を禁止していたキリスト教を、ポルトガルが日本にもちこむと考えられていたからです。この後、長崎ではオランダと中国の商人のみ貿易を許されることとなります。
果たして正保4(1647)年にポルトガル船が通商再開を求めて来航しました。あわや一戦という緊迫した空気が流れましたが、このときは大事に至りませんでした。
ところで、慶安(けいあん)2(1649)年に福岡藩が西泊(にしどまり)番所を、次いで佐賀藩が戸町(とまち)番所を「定小屋」として整備するまで西泊と戸町にあった長崎警備の藩士の詰番所は仮小屋で、福岡藩と佐賀藩が警備を交代する度に取壊されていました。このことから、長崎港の警備を担当した時は、すぐ終わる一時的なものだと考えられていたことが知られます。
しかし長崎警備は恒常化していきました。当初、当番の年には藩士を5回に分けて長崎に派遣していましたが、寛文(かんぶん)11(1671)年から、1年4回の交代で1回につき約1,000人を長崎に派遣するようになります。この1隊は派遣順番に「長崎壱番々(ながさきいちばんばん)」「長崎弐番々(にばんばん)」などと称されました。また、藩主も年に3度、西泊や戸町の番所や道生田(どうしょうだ)の塩硝(えんしょう)蔵を見回り、石火矢の台場を船から視察したりしました。
以上のように、島原の乱を最後に国内では幕末まで戦乱がなくなった中で、福岡藩は長崎警備を通じて常に実戦に備えていた特殊な藩だったと言うことができましょう。この展示では、特に江戸時代前期(寛永~元禄)の福岡藩の長崎警備を中心に紹介します。
資料解説
黒田忠之像(黒田資料)
福岡2代藩主。彼の治政には島原(しまばら)の乱や、長崎警備担当後に来航したポルトガル船打払いのため、軍勢の出兵が続いた。
ポルトガル船入港時の長崎警備図
正保4(1647)年に、来航を禁止したポルトガル船が通商の再開を求めて長崎に入港した時の警備図。
長崎港之図(黒田資料)
引船(ひきぶね)に先導されたオランダ船が長崎港に入ってくる所である。中白の旗識(はたじるし)は警備の当番である黒田家のものである。
VOC文字入双鳳文(そうほうもん)大皿とナイフ
「VOC」は出島の商館を経営していたオランダ東インド会社の頭文字で、この大皿とナイフは日本からの輸出品である。
VOC文字入双鳳文大皿とナイフ |