平成8年4月16日(火)~7月28日(日)
高野孤鹿著「筑前愛宕山瓦経の研究」 |
福岡市では、各種の開発によって遺跡が壊される前に、教育委員会が発掘調査を行っており、その数は年間50件以上に達し、日々新しい発見がなされています。これは昭和41年の有田遺跡の発掘調査からのことで、それ以前は大学や在野の研究者が発掘調査や資料の収集を行っていました。
故高野孤鹿(たかのころく)氏は、そのような在野の研究者のひとりです。氏は九州考古学の生みの親とも言える中山平次郎(なかやまへいじろう)博士のもと、会社勤務のかたわら、各地の資料を収集し、多くの貴重な資料を得ました。その中でも鴻臚館(こうろかん)関係の資料や愛宕山瓦経(あたごやまがきょう)の発見は重要なものです。それらの資料の多くは、現在当博物館に収蔵されております。今回その中から平和台収集資料・愛宕山瓦経を中心に展示いたします。
少蒋硯 |
鴻臚館(こうろかん)の発見
鴻臚館は、飛鳥時代から奈良・平安時代にあった客館(きゃっかん)(迎賓館・宿泊所)で、平安京、難波、大宰府に設けられました。現在確認されているのは、福岡城内で発見された大宰府鴻臚館だけです。
鴻臚館は、江戸時代以降、現在の博多駅前一帯に造られたと考えられていました。大正時代、九州帝国大学医学部に在籍していた中山平次郎博士は、万葉集の解釈などから、鴻臚館は福岡城址内にあったという説をたてました。当時城内には福岡24連隊が駐屯していたため、博士はドンタクの時などのときだけ城内に入って若干の古瓦を採取し、説の正しさを確信しました。戦後、平和台球場建設などの工事によって掘り返された土砂の中から多くの青磁や瓦が出土し、高野氏はそれらの遺物を丹念に収集しました。その中には「少蒋硯(しょうしょうけん)」のように中国人名の銘文のある大変貴重な資料も含まれ、氏の収集した資料の研究によって、鴻臚館が福岡城内にあったことがほぼ確認されたのです。
その後、1987年に、平和台球場の改修に伴った発掘調査で、高野氏などが推定した場所から鴻臚館の遺跡が発見されたのです。鴻臚館の発掘調査はその後も継続して行われ、7世紀から11世紀の大型の建物群や、大量の瓦や中国製陶磁器、イスラムのガラスや陶器が発見されており、その出土遺物の国際性、遺構の壮大さには目を見張るものがあります。鴻臚館の発見の端緒は中山平次郎博士と高野孤鹿氏が作ったと言えるでしょう。
平和台(鴻臚館)出土越州窯青磁 |
斜ケ浦瓦窯址出土「警固」銘瓦 | ||
平和台(鴻臚館)出土鴻臚館式軒丸瓦 | 平和台(鴻臚館)出土老司式軒丸瓦 | 斜ケ浦瓦窯址出土軒平瓦 |
名島城出土軒丸瓦 | 福岡城出土軒丸瓦 | 愛宕東照宮出土軒丸瓦 |
愛宕山出土瓦経 |
愛宕山瓦経(あたごやまがきょう)
瓦経は、釈迦の死後56億7,000万年の弥勒菩薩(みろくぼさつ)があらわれる時まで教典を伝えたいと、経典類を粘土板に彫り込んで焼いたもので、地中に埋められました。その多くが、11世紀後半から12世紀(平安時代末期)に作られました。愛宕山は室見川沿いの西区愛宕にあり、すでに江戸時代に貝原益軒(かいばらえきけん)の著した筑前国続風土記に、愛宕山より法華経(ほけきょう)の文字を焼き付けた古瓦が出ると記されています。高野氏は昭和26年より愛宕山を探索し、ついに昭和29年に1片の瓦経を採取され、その後あわせて32片を採集しました。収集された教典は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)(法華経(ほけきょう))が最も多く含まれていました。
その他の遺跡
今山出土石斧未製品 |