平成8年10月22日(火)~12月23日(月)
黒田長溥像 |
明治20年代の学生 |
兄と妹 |
『彩色写真帖』より日本人女性像 |
『彩色写真帖』より人力車に乗る日本人女性 |
シャッターを押すだけのオートフォーカスのカメラや、小学生のお小遣いでも買うことのできる手頃な価格のカメラなど、現在、私たちは、気軽に写真を楽しむことができます。しかし、日本に初めて銀板写真(ダゲレオタイプ)用のカメラが輸入された頃、今から150年くらい前は、写真は最新の科学技術でした。福岡藩は、写真の研究を最も早くはじめた藩のひとつでした。
今回は、館蔵の写真資料のなかから肖像写真を中心に展示をします。明治時代の日本人が残した肖像写真や、欧米人がみた「日本」の姿を御覧ください。
写真の登場と普及
写真もほかの科学技術と同じく、現在のようなかたちになるまで、さまざまな方法が試みられました。1839年に公表された銀板写真法から、20世紀には写真の主流となったロールフィルムまでの、主な写真法に関連する資料を紹介します。
肖像写真と肖像画
銀板写真用のカメラが初めて日本に輸入されたのは、嘉永(かえい)元(1848)年のことです。以来、日本においても、肖像を写真で残すことができるようになりました。福岡藩主であった黒田家の当主の肖像も、11代黒田長溥(くろだながひろ)以降は写真で残されています。
写真が登場したからといって、肖像画が姿を消したわけではありません。写真をもとに肖像画が描かれることもありました。こうした写真と絵の関係は、「肖像」に限られたものではなく、写真印刷の技術が開発されるまでは、印刷物の挿(さ)し絵は写真をもとに描かれるものも少なくありませんでした。
カルト=ド=ヴィジッ卜の時代
1854年にフランスで、1枚の大きなネガに8~10枚の肖像を撮影することで価格を下げた名刺サイズの写真が、考案されました。これが、欧米の社会で流行し、自分の肖像を名刺判写真で撮り、この写真を訪問先で現在の名刺のように交換するという習慣をうみだしました。この習慣を、カルト=ド=ヴィジット(訪問の証、フランス語で名刺の意)といいます。この名刺判写真は、ナポレオン3世が、その肖像写真の販売を許したこともあって、交換するばかりではなく、収集や売買の対象ともなりました。
日本人の肖像写真
まだ写真が日本人には馴染(なじ)みがなかったころ、「写真を撮ると寿命が縮む」などという迷信が流布(るふ)しました。こうした迷信が払拭(ふっしょく)される契機となったもののひとつに、戦争が考えられます。明治10(1877)年の西南戦争や、特に明治27年の日清戦争のときに、出征する兵士が肉親へ送るために写真を撮ろうと写点館にならんだと伝えられています。
写真についての迷信と似たものが、江戸時代には肖像画についてもありました。肖像画や肖像写真についての迷信が除かれると、日本人もさまざまな肖像を残すようになりました。江戸時代まではあまりなかった子供や家族の肖像が、写真の普及とともに登場しました。
輸出された「日本」
明治10年代から30年代に、欧米人好みの日本の風景写真や風俗写真を集めたアルバムがたくさん輸出されました。これらの写真は白黒なのですが、一枚一枚美しい彩色が施されています。また、これらのアルバムは、漆塗(うるしぬ)りの表紙がつけられるなど美しい装丁になっています。写真自体は、欧米人好みの演出がなされているものも少なくありませんが、当時、輸出されていった「日本」の姿として、御覧ください。
(太田暁子)