平成8年10月29日(火)~平成9年2月16日(日)
▲復原され光り輝く三角縁神獣鏡 (若八幡宮古墳 直径23.2cm) |
▲粘土で包まれた主体部(若八幡宮古墳) |
▲鋤崎古墳墳丘の調査状況(前方部から望む) |
▲鋤崎古墳主体部内の状況 |
▲空から見た大塚古墳 |
福岡市の西部、今宿(いまじゅく)から周船寺(すせんじ)にかけての地域は弥生時代、中国の歴史書にある「伊都国(いとこく)」に属していました。そしてこの一帯は古墳時代になっても地域的なまとまりを持っていました。
今宿古墳群は高祖山(たかすやま)北麓に分布する、総数320基以上を数える古墳群の総称です。その中には首長(しゅちょう)の墓と考えられる前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が13基あり、古墳時代前期(4世紀中頃)から後期(6世紀後半)にかけての、この地域の首長墓の系譜をたどることが出来ます。またこれらの前方後円墳のなかには、国内で最も初期の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を持つ鋤崎(すきざき)古墳、国指定史跡の丸隈山(まるくまやま)古墳、大塚(おおつか)古墳などの重要な古墳があります。
前方後円墳は古墳時代を通して造られます。一般に前方後円墳は規模が大きく、副葬された遺物も豊富で、それぞれの地域の支配者のために築かれた墓といえます。したがって前方後円墳を調査することで、その地域の当時の社会状況や文化的特性、他地域との文物の交流や関係を知る手がかりを得ることができるのです。
福岡市では、これらの前方後円墳を開発から保護し、将来史跡として活用するための調査を計画的に行ってきました。
今回は、このように調査された前方後円墳の出土造物やその成果を一堂に集め公開することで、今宿古墳群の実像に迫ります。
今宿古墳群の歴史的変遷
今宿古墳群が位置する糸烏地方は、福岡県下でも前方後円墳が集中する地域で、現在までに約50基が確認されています。今宿古墳群はこの地域でもっとも東側に位置する古墳群です。現在、前方後円墳は消滅したものも含め、13基が確認されています。
古墳の規模としては、全長85mの丸隈山古墳が最大で、総じて小規模のものが多いようです。また前方後円墳の立地の傾向は4~5世紀の前期から中期にかけての古墳、及び6世紀の後期でも全長50mを超える古墳は北側の海を望む丘陵先端部に立地する傾向があります。
今宿の前方後円墳の造営は、4世紀中ごろ、まず徳永(とくなが)地区の山(やま)ノ鼻(はな)1号墳(全長50m)に始まります。4世紀後半には同地区の若八幡宮(わかはちまんぐう)古墳(全長48m)に続き、4世紀末から5世紀初めの鋤崎古墳(全長62m) から5世紀前半の丸隈山古墳、5世紀後半の兜塚(かぶとづか)古墳(全長54m)、6世紀初めの飯氏二塚(いいじふたづか)古墳(全長48m)、前半の大塚古墳(全長64m)、中ごろの谷上(たにじょう)B-1号墳(全長約38m)へと変遷をたどることができます。
古墳時代の始まり(4世紀ごろ)
3世紀の後半、近畿地方を中心に前方後円墳の墳丘、竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)を主体部とする埋葬施設、鏡や玉、武器や農工具などの副葬品をもった墳墓、すなわち前方後円墳が造られ、古墳時代が始まります。この画一化した前方後円墳は、時期の差こそあれ、4世紀にはほぼ北海道や沖縄を除く全国に普及します。
糸島地方ではまず4世紀前半から中ごろ、糸島郡志摩町に竪穴式石室を主体部に持つ稲葉(いなば)古墳(全長約40m)が、前原市に端山(はやま)古墳(全長78m)が出現します。端山古墳は周濠をもちます。
今宿古墳群では少し遅れて、4世紀中ごろ徳永地区に山ノ鼻1号墳、4世紀後半にはその南にある若八幡宮古墳へと続きます。山ノ内耕1号墳の主体部は竪穴式石室の可能性があり、若八幡宮古墳の主体部は木棺(もっかん)を粘土で包んだものです。若八幡宮古墳からは近畿地方との関係を示す三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)1面が出土しています。
横穴式石室の出現(5世紀ごろ)
従来の1回しか埋葬が出来ない竪穴式石室にかわり、4世紀の終わりごろ、北部九州沿岸に朝鮮半島から横穴式石室という、何度も埋葬が可能な石室形態が伝わります。鋤崎古墳の石室は福岡市南区の老司(ろうじ)古墳、佐賀県唐津市の谷口(たにぐち)古墳などとともに最も初期のものです。やや遅れて5世紀前半に丸隈山古墳、5世紀後半に兜塚古墳が造られます。近畿的要素を帯びた埴輪(はにわ)は鋤崎古墳から出現します。埴輪には円筒埴輪(えんとうはにわ)と、家や道具、人や動物を模した形象埴輪(けいしょうはにわ)があります。この時期の古墳は複数の鏡を持つなど、豊富な副葬品が特徴です。
磐井(いわい)の時代(6世紀ごろ)
6世紀初め北部九州を支配していた筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)磐井は朝鮮半島の新羅(しらぎ)と手を結んで、大和政権に戦いを挑みます。同じ時期、このあたりでは高祖山北麓に直径10~20m前後の小規模な円墳が群集して造られるようになります。それらは尾根ごとにグループを形成していきます。
6世紀前半の大塚古墳は規模が大きく、周濠を持ち、墳丘にはまだ埴輪を持ちます。しかしその後に造営された前方後円墳は、例えば谷上B-1号墳などのように、規模が縮小し、群集墳のなかに取り込まれていきます。また副葬品も他の群集墳と余り格差がなくなります。7世紀になると前方後円墳は造られなくなります。これは支配体制や社会状況の変化を示しているのかもしれません。
(山崎龍雄)