平成9年4月1日(火)~6月1日(日)
シーボルト像 |
1、シーボルトの来日
江戸時代、幕府は長崎でオランダ、中国の商人と貿易をしていました。出島にはオランダ商館がおかれ、シーボルト(1796~1866)はその医者として文政(ぶんせい)6(1823)年に来日しました。彼は長崎近郊の鳴滝(なるたき)に塾を開き、出島に自由に出入りすることができない日本人の診療を行い、西洋医学や博物学を教えました。また、彼は弟子たちに日本の歴史、地理、風俗等に関する課題を与え、その報告を自らの日本研究の資料とし、日本の生活用品、工芸品など様々なものを収集しました。
黒田斉清像 | 黒田長溥像 |
武谷元立像 | 百武万里像 |
2、シーボルトに学んだ学者たち
ところで、寛永(かんえい)18(1841)年より福岡藩は幕府から貿易港長崎の警備を命ぜられ、この後佐賀藩と1年交代で貿易港長崎の警備にあたりました。そのため、西洋学問の導入が盛んでした。
江戸時代後期になると、10代黒田斉清(くろだなりきよ)、11代黒田長溥(ながひろ)のような好学の藩主が出てきます。特に斉清は大名間で博物学に関して「西の大関(おおぜき)」とされるほどの学識がありました。また、彼らは藩士に対して、西洋の学問を学ばせるため長崎に留学させます。その中でシーボルトに学んだ学者も数多くいました。黒田斉清は時には世子長溥を伴い、長崎警備の傍ら出島オランダ商館のシーボルトを訪ね、世界の動植物の生態や異国の地理、民族等について意見交換をしました。この問答の様子は斉清の蘭学の師安部龍(あべりゅう)によって筆録され、『下問雑載(かもんざっさい)』としてまとめられました。医学の面では武谷元立(たけやげんりゅう)、百武万里(ひゃくたけばんり)、原田種彦(はらだたねひこ)ら福岡藩領内の医者が西洋医学を学ぶため、文政10(1827)年シーボルトに入門、シーボルトの帰国まで鳴滝塾で西洋医学を学びました。そして、天保(てんぽう)12(1841)年には武谷元立が中心となって博多大浜で、西洋医学に基づく筑前最初の人体解剖が行われました。さらに時代が下り、慶応(けいおう)3(1867)年には福岡藩は医学校賛生館(さんせいかん)を設立します。賛生館は武谷元立の息子祐之(ゆうし)の案により漢方医学、西洋医学の2つの科を設置し、基礎医学の学習から実地の診療までを行いました。
舎密便覧(部分) |
出島図 |
3、シーボルトの日本研究
さてシーボルトは前述の様に、鳴滝塾の弟子に日本に関するあらゆるテーマの報告を書かせ、また自らも日本にかかわる様々な資料を収集しました。この大部分はシーボルトコレクションとしてオランダのライデン民俗学博物館に収蔵されています。しかし、彼は国外持出し禁止の日本地図を持出そうとしたことが、幕府に知られ、文政12(1829)年に日本国外退去を命ぜられます。シーボルトは帰国してから、日本で収集した資料をもとに日本の地理、民族、武器、芸術、学問などを紹介した『ニッポン。日本とその隣国およびその保護国、南千島をふくむエゾ・カラフト・朝鮮および琉球諸島の記述集』を著します。
4、シーボルトの再来日
シーボルトが再来日したのは、日本を追放になって30年後の安政(あんせい)6(1859)年でした。幕末の福岡藩を代表する学者河野禎造(かわのていぞう)は、再来日したシーボルトに医学、植物学、化学を、ポンペに医学を学びました。彼は、シーボルトに鳴滝塾で学んだ原田種彦の子で、後に分析化学の訳本である『舎密便覧(せいみびんらん)』、物理学・化学の知識を活かして農産物の育て方を記した『農家備要(のうかびよう)』『農業花暦(のうぎょうはなごよみ)』を著しました。
この展示では、シーボルトとかかわりの深かった福岡藩の学者たちについて紹介します。
(門野 恵)