平成9年4月15日(火)~7月21日(月)
▲中山平次郎 |
昨春の「高野孤鹿(たかのころく)展」に続き、福岡考古学の黎明期(れいめいき)に活躍 した在野の研究者を紹介します。中山平次郎は九州帝国大学医学部の教授で、医者でありながら考古学を志し、主に大正から昭和初期にかけて福岡地方の研究の開拓に尽力した人物で、高野孤鹿にとっては師匠筋にあたります。主な研究には金印、初期金属器文化(弥生文化)、今山石斧(いまやませきふ)製造跡、鴻臚館(こうろかん)、元寇防塁(げんこうぼうるい)に関するもの等があり、基礎研究として今に引き継がれています。
本展示では、中山平次郎の人となりと代表的な研究について紹介します。
1 中山平次郎という人
中山家は代々医者の家系で、明治時代に京都から東京に移住します。平次郎は少年時代から考古遺物(いぶつ)に興味を持ち、人類学者坪井正五郎(つぼいしょうごろう)の弥生(やよい)町貝塚の報告を読んで考古学に目覚めます。やがて家業の医者を志し一時考古学から遠ざかりますが、西欧留学を経て九州大学に赴任した後、再び考古学と深く関わります。福岡では、兄森彦(もりひこ)や妹小春(こはる)とともに暮らし、生涯独身で、山野を調査に駆けめぐるとともに、渓流釣りを趣味としたようです。
病理学講座の新鋭の研究者としての業績もあった平次郎が、なぜ専門外である考古学を志したのでしょうか。防腐剤ホルマリンに弱く、指を患(わずら)って遺跡(いせき)調査や論文作成にも支障をきたしたことを自身で書き残しており、また解剖中に遺体から感染し大病を患う体験をするなど、医学には不向きな体質だったようで、旺盛な研究心の活路を考古学に求めたのかも知れません。
大正3年に論文発表を開始し、大正年間の九州考古学界は彼の独断場となります。発掘を好まず、徹底した地表面採集調査などの方法で研究を行いますが、やがて発掘による研究が学会の主流を占めるようになった昭和10年頃を境に執筆活動を停止します。発掘考古学の隆盛が許容できなかったのでしょうか。
昭和初期は各地で遺跡の盗掘事件が相次ぐなど、一種の骨董(こっとう)ブームだったようです。平次郎も元寇防塁の保存を訴えたり、九州考古学会を結成して遺跡見学や研究発表を行っており、この中から彼の影響を受けた高野孤鹿のような若い研究者が現れます。しかし晩年には自説を固持し、他人の説を受け入れないようなところがあったようです。
▲「漢委奴国王」の金印、つまみは蛇をかたどる。(高さ2.236cm) |
2-1 金印研究
1784年の発見以降、金印出土地について遺棄(いき)説、漂着(ひょうちゃく)説、紛失(ふんしつ)説、隠匿(いんとく)説、墳墓(ふんぼ)説などが唱えられてきました。平次郎は現在の金印記念碑の前の道路に出土地を求め、奴国(なこく)が没落して金印を隠したものと考えて、奴国王墓とする笠井新也(かさいしんや)と論争します。また、晩年には金印偽物説が世間を騒がせたため、これに反論しています。
没後に行われた発掘調査の結果、出土地点は中山説が正しいとされましたが、埋納施設か墓か、今も不明です。また、中国雲南省の遺跡から蛇鈕(だちゅう)の「てん王之印(てんおういん)」が発見され、偽物説は一掃されました。
▲板付田端発見の銅鉾 |
2-2 「中間期間」(弥生時代)の提唱
1916(大正5)年、今の板付遺跡あたりで甕棺(かめかん)の中から銅鉾(どうほこ)と銅剣(どうけん)が発見されました。現地に調査に向かった平次郎は、銅錆(さび)の付いた甕棺が、今津(いまづ)貝塚で採集した石器時代の土器と酷似することに気付きます。当時の考古学会は「弥生式土器=石器時代(先史時代)」「青銅武器=古墳(こふん)時代(原始時代)」という時代観が主流でした。両者が共存する事実を知った平次郎は、最初は半信半疑ながらも類例を求めて福岡周辺の表面調査を行い、先史と原始の間の移行時代とも言うべき「中間期間」が存在することを提唱します。
同年、京都大学の浜田耕作(はまだこうさく)も近畿地方の石器時代遺跡の調査により「金石併用期(きんせきへいようき)」を唱え、やがてこの名称が定着し、後に弥生時代と呼ばれるようになります。