平成9年7月8日(火)~8月31日(日)
22 吉川観方 朝露・タ霧(左幅) |
2 伝・円山応挙 幽霊図 |
おばけ、物の怪、妖怪、幽霊、怨霊…。薄気味悪く恐ろしく、時には滑稽な正体不明のものたちを、私たち日本人は古くから描いてきました。
「江戸のオカルト図鑑」は、こうしたこの世ならぬ魔界・冥界へ皆様をご招待するシリーズの企画展で、この第1回目では肉筆の「幽霊画」をとりあげています。「幽霊画」といえば江戸時代中期に活躍した円山応挙(まるやまおうきょ)(1733~1795)が有名ですが、その応挙筆と伝える美しい女性の幽霊図に始まり、19世紀の文人画家や浮世絵師たちの様々な幽霊のバリエーションが恐さを競います。また、文明開化の世になって一見居場所のなくなった幽霊たちが、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)(1831~1889)や小林清親(こばやしきよちか)(1847~1915)らによって元気に?描かれている作品など合計約30幅を展示しています。そしてこのコレクションを蒐集した吉川観方(よしかわかんぽう)(1894~1978・京都の日本画家で風俗研究家)自身の、お岩とお菊を描いた「朝露・タ霧」が「幽霊画」の歴史を締めくくります。
ところで、吉川観方は、7歳で書を、8歳で絵画を習得した早熟の天才でした。彼は大正3年に京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)に入学し、9年に同校の研究科を卒業しますが、その間に作品が文展に入選したり、松竹合名会社に入社し、舞台意匠の顧問ともなっています。また大正12年、30歳で故実研究会を創立し、風俗史研究に本格的に取り組むかたわら、それ以前から風俗資料のコレクションをはじめていたと考えられます。
今回展示した幽霊画コレクションは、1万数千点に及ぶ観方蒐集資料(平成5年度に福岡市博物館が購入)の一部で、おそらくは若い頃からの蒐集作品も含まれており、大正14、15年に既に幽霊画集(所蔵作品の掲載はごく一部のみ)を出版していることからして、彼の幽霊に対する並々ならない興味と研究心がうかがえるでしょう。したがって、例えば幽霊画のコレクションとして有名な全生庵(ぜんしょうあん)の円朝(えんちょう)コレクションとは異なり、吉川観方の蒐集作品には同時代の画家との交流によって加えられたとおもわれる作品がほとんど見あたらず、江戸時代から明治時代にかけての作品がコレクションの主体となっています。また、京都にゆかりのある画家の作品が多いのが観方ならではの特色でしょう。そしてこれらは彼の風俗史研究の一環として蒐集されたと同時に、画家としての彼をおおいに刺激して、「朝露・タ霧」などの、作品を生み出させたのです。
吉川観方は、彼の著書『日本の女装』のなかで幽霊についてこのように語っています。「幽霊は真実にある。幽霊には幾種類もある。死人の魂・ひとだま・なきたま、それが神経の作用につれて見える…」はたして博学、理知のひと観方も、幽霊を見たのでしょうか。また彼は、同じ著書において「朝露」を「歯黒をつける幽霊」と題した自作解説をこう締めくくってもいます。
「盂蘭盆(うらぼん)、陰暦7月15日に行はれる仏事、亡者を救うためにする精霊祭、略して盆の日、亡霊の冥福を心に祈りつつ記す。」
そもそも、なぜ幽霊画なるものが描かれたのでしょうか。この素朴な疑問に満足な答を与えることは困難ですが、少なくとも「朝露・タ霧」の背後には、過酷な運命に翻弄され、霊力の強さゆえに死後に情念を解放させた畏怖すべき女性たちへの鎮魂の念が込められているのかもしれません。とすると、女性の幽霊画を描く動機のひとつには、罪なき女性に過酷な運命を強いた男性社会の一員としての罪の意識が働いているとも考えられます。また、背筋が寒くなるほど怪異な容貌にさえ、よくよく見ると幽かながらも彼女の生前の美しさがどこかに潜んでいると感じられる作品もありますが、それはせめてもの罪の償い、それとも、いまだ消え残る愛なのかもしれません。
(中山喜一朗)
14 河鍋暁斎 幽霊図(部分) |