平成9年7月23日(水)~10月19日(日)
博多で行商する志賀島のシガ |
ヒョーヒョー(シガの仕事着) |
あの人はオオシガさん
シガ…かつて魚を行商する婦人のことをこう呼びました。現在、この言葉を漁村で聞くことも稀です。ところが、博多では「シカのおばちゃん」というと「ああ、志賀島から魚を売りに来るおばちゃんね」と、今でもみんな知っているのです。シカと志賀、音が同じだからなのでしょうか。
小学館の『日本国語大辞典』のシガの項には、「漁村から魚をかついで売りに出る商人。主として魚籠をてんびん棒でかついで売り歩く女の魚売りをいったが、地方によっては男の魚行商人をもいう。」とあります。辞典の補足として、女の行商をシガと呼ぶ地域は、筑前・豊前とされています。福岡藩のことを記した江戸時代の書物を見ると、「志賀商人」と記しているものもあります。これは、魚の行商人だけを指したわけではなかったようですが、当時は「志荷」と書き、シガと呼んでいたのが一般的なようです。
魚売りの女性を訪ねて糸島郡の漁村を歩いているときのこと、ある婦人から「魚売りのことはアキナイ、自分たちのことはアキナイシと呼びました・・・そういえば、昔はアキナイの上手な人のことをオオシガさんと呼んでいました。」という話を聞くことができました。オオシガのオオは大きいという意味で、行商の手腕に対する敬称のようです。シガは現在死語になりつつあります。その原因には、古い言葉であることと、行商する人が自ら使うのではなく、買い手側の呼び名だったことの2点があげられるのではないかと思います。博多のような町場だけで知られていることも、これである程度説明できます。
この展示では、シガの由来伝説が語り継がれている糸島郡志摩町野北(のぎた)の魚売り行商経験者の話を通して、今ではあまり見られなくなったシガの世界の一端を紹介しています。どこの戸口にもしっかりと鍵がかけられ、24時間何でも簡単に手に入るようになった現代社会。シガの行商は、ますます人目につきにくくなってきています。漁村と町・農村の間を行き来した女性であるシガは行商の中で何を見て、何を考えていたのでしょうか。ここで思いを巡らしていただければ幸いです。
今回の展示を企画するにあたって、ご協力いただいた野北漁協ならびに野北のみなさん、福岡市西区西浦のみなさんに対して厚くお礼申し上げます。
カラスグチ |
落石宮 |
シガの故郷(ふるさと)、-糸島郡志摩町野北-
野北は、西浦や姪浜に比べるとさほど大きな漁村ではありませんが、「芥屋(けや)男に野北女」といい慣わされ、女性がよく働く浦として知られています。特に、魚の行商はどこよりも盛んでした。かつては、1軒から必ず1人はアキナイに出ていたといわれ、それが土地の美風とまでうたわれたところでした。野北にはシガの始まりについて次のような伝説が残っています。
「天正年間、豊臣秀吉が九州平定に向かうと、高祖(たかす)城主であった原田信種もその軍門にくだった。その時、密かに城を抜け野北浦に落ち延びた1人の年若き姫君がいた。名前を照姫(輝姫)といった。姫はとある漁家に身を寄せて、世の中が静まるのをじっと耐えて待った。甲斐もなく父信種は秀吉に降伏、領地没収となった。姫は望みの綱もなくなって、日夜、悲しみの涙に暮れていた。不憫(ふびん)に思った付近の漁家は、昔受けた恩を思いさまざまな物を贈ってこれを慰めた。姫もまた、里の人たちの篤き心に感謝して、米を贈ってくれた農家には、漁家から貰った魚を返し、漁家には農家から貰った米や野菜を返した。年月がたつにつれて、自分の貯えも次第になくなり、元よりさほど豊かではない漁師や農家から毎日物を受けることを姫は心苦しく思うようになり、蝶の羽にも例えられる錦の振り袖は、今は無用と切り落とし、籾米が入る袋に縫い立てて、緑の黒髪も藁で束ね、魚籠を頭に載せて魚売りに出るようになった。これが野北の魚売りのはじまりである。姫の没後、漁民はこの徳を称えて落石宮(おちいしぐう)を建てた。」
落石宮に祭られた照姫。ここによそにはない野北の特徴があります。魚の代価として受け取る穀物を入れるカラスグチという袋は、姫が振り袖を切り取って作ったものとされ、他村のシガが丈の短い筒袖の着物を着るのに対して、袂(たもと)のある長着を身にまとうのも、姫に倣(なら)ってのことといわれています。
民俗学者の桜田勝徳は、この野北のシガたちから話を聞き、昭和9年に出版した『漁村民俗誌』という本の中でこれを報告しています。それをきっかけに、野北のシガは全国の人が知るところとなりました。以降、民俗学に関係する辞典や、交易を研究する人の著作には必ずといっていいほど引用され現代に至っています。
シガの故郷として知られた野北ですが、今では現役のシガは2人を残すのみとなっています。
(福間裕爾)