平成9年9月2日(火)~12月7日(日)
お墓に副葬されていた鏡(戸原麦尾遺跡) |
粕屋地域の中世集落遺跡の分布 |
福岡の東部、箱崎から東の地域は、以前は粕屋(かすや)郡と呼ばれた地域でした。粕屋という地名の由来は古く、『日本書紀』の継体(けいたい)天皇21年から22年(527~528)の記録に、「糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)」とその地名を見出せます。この地域は弥生時代は奴国の一部で、弥生時代から大陸の先進的な文化を受け入れてきました。
中世の粕屋、それは博多と並んで対外貿易を行っていた筥崎宮を窓口として海外と絶えず接点を持っていた地域でした。また元寇や足利尊氏(あしかがたかうじ)と菊池氏が戦った多々良浜(たたらはま)の戦いなど歴史的な戦いがこの地で行われました。
中世という時代は一般には、鎌倉時代から戦国時代までをいいます。今回は博多の周辺地域、福岡市東区とこれに隣接する粕屋郡柏屋町・志免(しめ)町の一帯で発掘調査された、主な中世集落を紹介いたします。海岸部・平野部・丘陵部とそれぞれ遺跡の立地条件は異なりますが、いずれも粕屋地域を代表する中世集落遺跡です。展示を通して、この地域の歴史的、文化的特性をご理解していただけたらと思います。
中世の粕屋
中世の自然環境は現在とは随分異なっていたようです。多々良川や宇美川の河口は現在よりかなり内陸側に入り込み、千代から箱崎方面へ北に延びる砂嘴(さし)が半島状に突出し、その東側には多々良潟と呼ばれた内海が広がっていました。筥崎宮やその港、大友貞宗(おおともさだむね)が鎌倉時代末に創建したとされる顕孝寺(けんこうじ)も、この内海に面していることから、この地域が対外貿易の拠点として、重要な地域であったようです。
粕屋の中世集落のあり方はこの自然環境を反映しています。海岸部の箱崎遺跡は筥崎宮を中心とした貿易・商業の都市的な場であり、平野部や丘陵部では未開地を開発した集落といえます。
市街地での発掘調査(箱崎遺跡第1次調査) |
海岸部の集落
香椎(かしい)A遺跡 香椎宮の北西側に立地する遺跡です。91年に調査が行われ、12世紀から16世紀頃の集落を確認しました。
調査の結果、この地点が香椎宮に関連する屋敷地の一角であることがわかりました。
箱崎(はこざき)遺跡 延長元年(923)に創建された筥崎宮を中心に東区馬出(まいだし)から箱崎にかけて広がる遺跡です。この遺跡の西側から北側にかけて元寇防塁が築かれています。
箱崎は博多と共に対外貿易の基地として、繁栄を誇っていました。調査の成果では、筥崎宮周辺を中心に、11世紀から近世までの遺構・遺物が確認されています。現在の筥崎宮の門前町の町割は15世紀頃に出来上がるようです。
戸原麦尾遺跡1区で確認された溝で囲まれた屋敷 |
戸原麦尾遺跡3区旧河川出土の絵馬 |
平野部の集落
戸原麦尾(とばらむぎお)遺跡 粕屋町の戸原から広田地区にかけて広がる遺跡です。多々良川の左岸の沖積微高地に立地しています。調査の成果から、古代末から近世までの集落遺跡であることがわかりました。
中世の集落は建物の周囲に溝を巡らせた屋敷地で、時期による変遷や、当時の開発の実態をつかむことが出来ました。屋敷地は14世紀半ば頃に終わり、集落は江戸時代後期に再び、西側の戸原地区側に出現します。
戸原麦尾遺跡は中世の筥崎宮領の糟屋西郷戸原村の中に位置するものと考えられます。
丘陵上の集落
松ケ上(まつがうえ)遺跡 粕屋郡志免町大字吉原(よしわら)の丘陵上に立地する、旧石器時代から近世にかけての集落・墳墓遺跡です。
中世の遺構としては井戸・土擴墓(どこうぼ)・土坑(どこう)・建物と建物などを取り囲む方形区割りの溝があります。時期は鎌倉時代から室町時代の頃で、地名から宇美八幡宮の所領の吉原荘との関係が考えられます。
かけ塚(づか)遺跡 東区蒲田の丘陵上に立地する旧石器時代から中世にかけての集落遺跡です。
中世の遺構としては井戸・建物と台地上を区画する溝や道路と考えられる敷石遺構・集石遺構・溝などがあります。時期は鎌倉時代から室町時代の頃と考えられます。
仲原(なかばる)出土古銭 昭和28年、粕屋町仲原川園(こうずん)の仲原小学校内で、工事中に発見されたもので、総量は181kgありました。発見者は宇美八幡宮に奉納しましたが、その後一部が粕屋町に寄贈されました。永楽通宝(えいらくつうほう)が多く、15世紀頃に埋納されたようです。
(山崎龍雄)