平成10年9月1日(火)~11月1日(日)
▲ポスター(嬉野温泉) |
嬉野温泉(佐賀県)のポスター。国鉄の国内観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」共催ポスターである。日本情緒を強調して、河原にたたずむ日本髪の芸者姿の女性をモデルにしている。キャンペーン自体が「日本を発見する」という意味で、まだ海外渡航が高嶺の花であった戦後期に、むしろ日本の文化や風土の良さを見直そうという気運とも結びつき、空前の国内旅行ブームとなった。勢い観光地は日本情緒が感じられる場所ということになり、温泉地のほか、京都や奈良などの古都が好まれた。 |
▲ポスター(夏をたたえよ) |
国鉄門司鉄道局の観光キャンペーンポスター。同じ「夏をたたへよ」というコピーで、海水浴や、山でキャンプをしている場面のものなどがある。このポスターは登山をする男性を、いかにも壮健な雰囲気に描いている。日本に登山の習慣が輸入され、以前のように信仰に結びついたものではない登山の様子が窺える。観光地最寄りの駅までの汽車賃を割引するシステムがあった。 |
秋の旅行シーズンがやってきました。夏休みに旅行に行った人も、どこへも行かなかった人も、どこかへ出かけたくなる季節です。
旅行が楽しいのは、知らない土地で見聞を広めることができるからですが、それには自由に出かけられることや安全に移動できることが大前提になります。であれば、今日のように旅を楽しいものと考えるようになるのは、さほど昔のことではなさそうです。
今回の展示では、様々な旅のなかでも昭和初期に盛んになった観光旅行をとりあげます。その背景には、明治以来の大量輸送手段の発達に加え、神社仏閣や温泉以外の新しい行楽地が生まれ、さらに観光地としての開発や宣伝キャンペーンが行われることなどがあります。こうした観光誘致の仕掛けがあって初めて、苦しく不安な「旅」は楽しい「旅行」になったといえます。近代ならではの旅のありようを考えてみましょう。
1、新しい交通機関の登場
旅の交通手段も時代とともに変化します。明治期に新しく開発された陸上交通機関としての鉄道の発達は、大量の旅客を輸送することを可能にしました。近代の旅には鉄道は欠かせません。次いで大正期から盛んになった海運業が汽船による旅客輸送を開始する時には、鉄道との連携を重視しています。陸上は鉄道で、海を渡るときに船で、というのが一般的な交通手段でした。また昭和に入ってからは自動車輸送も始まり、乗合自動車すなわちバスによる観光も行われるようになりました。一方航空路線は昭和初期には開設されましたが、戦争の影響もあって庶民的ではなかったようです。戦後はやはり、まず鉄道、そして貸切バスによる国内旅行、そして昭和50年代末から平成にかけては飛行機による海外渡航が一般的になりました。現在隣国の韓国を除いて、海外へ出かけるのに船を使うのは大変贅沢なこととなっています。
2、イベントとしてのツアーの形成
遠方への団体旅行は交通機関の発達が大量輸送を可能にして実現しました。ではツアー (団体旅行)はどのような契機で形成されたのでしょうか。初期の団体旅行は、その団体を形成する理由が何らかの記念イベントであったり、大がかりな催しを観覧するためといった、団体旅行そのものがイベント性を強くしたものでした。たとえば新聞社の創刊記念行事であったり、サーカスや博覧会などの催しの観覧ツアーであったりしました。明治末期に福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社)が企画した「本土北海道遊覧旅行」は、日本国内といえども北海道は遠く、本州でさえ「本土」と呼んだ時代の大旅行でした。また各地で開催された博覧会は、産業振興や輸出奨励といった本来的な産業経済上の目的とは別に、物見遊山の新しい場として、周辺地域からの旅行者を招き入れました。
▲リーフレット(雲仙へ)<参考図版> |
雲仙観光協会と西日本鉄道が作成したリーフレット。雲仙は明治期から外国人に好まれた観光地で、その余韻もあって戦後も「国際観光地」と称した。雲仙へは国鉄が諫早で島原鉄道に乗り換えるか、小浜へ回るかしなければならないので、西鉄は「急行電車」(西鉄大牟田線)で大牟田まで行き、フェリーで島原へ渡るコースを紹介している。これは現在でも最短コースである。 |
3、新しい行楽地の誕生
寺社参拝と温泉保養は近代以前から旅の目的でしたが、近代以降はこれらに加え、新しい行楽地として山や海が登場した。アウトドア、すなわち信仰を伴わない登山、キャンプ、スキー、海水浴などです。海水浴は日帰りで行く場合もあり、必ずしも旅の目的とは言えませんが、温泉などの観光地に海水浴場が設置され、観光地図にも明記されるなど、海水浴の存在が観光地化に寄与するようになりました。