平成10年11月3日(火)~12月20日(日)
図1 龍造寺隆信所用と伝えられる甲冑(史料15) |
戦国時代の博多は「日本でもっとも人口が多く富裕な市(まち)の1つ」といわれ、日本を代表する貿易都市・自治都市として繁栄しました。しかし、博多の都市的重要性は、一方で、各地の戦国武将たちの争奪の原因となり、たびたび戦乱に巻き込まれることにもなりました。
この展示では、キリスト教宣教師フロイスが記した『日本史』に見える永禄(えいろく)2年(1559)、天正(てんしょう)8年(1580)の2度の博多焼打に注目し、戦国期に博多を目指した戦国武将を紹介します。
両度の博多焼打は、前者が筑紫(ちくし)氏、後者が龍造寺(りゅうぞうじ)氏と、ともに肥前国(現佐賀県)を本拠とする領主によるものです。両氏の博多焼打はフロイス『日本史』に大きく取り上げられていますが、国内史料に目を向けると、後世に編纂された軍記物等を除けば、残念ながら当時の記録で焼打を直接的に明示するものはほとんどありません(図2)。そこで、当該期における筑紫氏、龍造寺氏の動向を通して博多との関わりを探ってみます。博多は戦国末期においても広範囲の地域と密接なつながりを有していたのです。
1 筑紫惟門の襲撃
フロイス『日本史』には永禄2年(1559)2月18日、筑紫惟門(ちくしこれかど)が博多を襲撃した事件を取り上げています。
1559年の聖週間が過ぎた頃、日本ではよくあることであるが、筑前国において、筑紫殿(筑紫惟門)という国衆である一貴人が、その正当な主君である豊後の国主(大友宗麟(おおどもそうりん))に対して叛起(はんき)する事件が生じた。そして彼は家臣を富ませ、自らも獲物の分け前に与かろうとして、2,000名の兵士をこの(博多の)市(まち)に遣わした。その当日住民たちは防戦したが、夜になって市内の幾人かの仏僧は敵方と通じ合って、市を彼らに明け渡した。(博多の)代官は、ある城塞に退き、そこで彼らによって殺された。
筑紫惟門の行動は、大友(おおども)氏の勢力拡大に対抗した動きとして捉えることができます。弘治(こうじ)3年(1557)から永禄2年にかけて、大友氏の支配に抵抗する国衆が北部九州の各地で挙兵しました。惟門の博多焼打もこの時期の一連の動きで、肥前において大友方に組みした龍造寺氏等が旧主少弐冬尚(しょうにふゆひさ)を攻め滅ぼした直後に博多を襲撃したものでした。惟門は博多にいた大友氏の代官を殺害し、博多や近隣の箱崎等を掌握します。筑紫惟門寄進状(図3)は、この時筥崎宮(はこざきぐう)に出されたものです。しかし、4月には大友氏の反撃が開始され、筑紫一族で内紛が起き、惟門は追放されてしまいます。
図2 博多で合戦(永禄12年、大友氏と毛利氏との戦)があったことを示す数少ない史料(史料2) |
図3 筑紫惟門が博多を襲撃したころ筥崎宮に出した寄進状(史料3) |
2 肥前勝尾城主筑紫氏
筑紫氏は肥前国の勝尾(かつのお)城(佐賀県鳥栖市)(図4)を本拠に筑前・筑後・肥前3ヶ国の国境地帯に勢力をもった領主です。室町初期に新たに興された家で、少弐氏の有力な家臣として活躍しました。福岡とも関わりが深く、戦国末期には博多の豪商として有名な嶋井宗室(しまいそうしつ)の商業活動を保護したり(図5)、茶の湯を介した親密な交流(図6)が見られました。また、近年は筑紫氏の居城であった勝尾城城下町の発掘調査が行われ、巨大な中世城郭がその姿を現わそうとしています。
図4 筑紫氏の本拠地を描く勝尾城古図(史料6) |
図5 嶋井宗室の通行の自由を保証した嶋鎮述過書(史料9) |
図6 嶋井宗室と筑紫広門との茶の湯を通じた交流を示す広門起請文(史料10) |