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No.138

黒田記念室

掘り出された福岡城展2

平成10年12月22日(火)~平成11年3月22日(月)

中堀で検出した石垣(第32次調査)
中堀で検出した石垣(第32次調査)

福岡城築城

 福岡城の縄張(なわば)り 現在見る近世城郭は織田信長(おだのぶなが)の時代に始まり、徳川家康の時代で完成します。城の性格は軍事中心から、より政治経済の中心としての性格が強くなり、平野部に立地するようになります。

 福岡城も同様で、地形的には平山城(ひらやまじろ)に分類されます。城は幅約30~35間の内堀に囲まれた内城と、西は草香江(くさがえ)の名残の大堀(おおほり)と、東は那珂川と、南東は肥前堀(ひぜんぼり)・中掘(なかぼり)の外堀で囲まれる城下町で構成される惣構(そうがま)えの大規模なものです。

 築城は野口佐助(のぐちさすけ)、益田与助(ますだよすけ)を普請奉行(ふしんぶぎょう)として始められます。内城は北に博多湾を臨む赤坂山から延びる丘陵の先端部を造成し、天主台(てんしゅだい)と本丸、二の丸、三の丸の曲輸を持ち、北側内堀の上(かみ)の橋、下(しも)の橋の2つの橋で城下町につながります。一般的に朝鮮の晋州(しんしゅう)城を手本にしたといわれますが、土塁や石垣を多用し、全体の縄張り構造から見て、戦国の気風を感じさせる、実戦的な城ということが出来ます。

 福岡城の櫓(やぐら) さて福岡城には櫓が47あったと言われますが、実際はどうでしょうか。数については、明治12年の『福岡県地理全書』にしか見いだせません。「いろは」47文字とか忠臣蔵の「四十七士」から来ているといわれますが、確かではありません。福岡市教育委員会は福岡城関係の絵図を調査して48の櫓を確認し、従来の数が実体に近いものであると結論づけました。

 天守閣はあったか 現在、天守台には東西6列、南北9列の天守閣の基礎と思われる礎石がならんでいます。従来福岡城には天守閣がなかったとされてきました。しかし最近の研究では、豊前小倉藩主細川忠利(ほそかわただとし)の元和(げんな)元年(1620)(『細川家史料』)の中で、天守について触れた部分があり、それを基に天守閣があった可能性が指摘されています。ただその後、正保(しょうほう)3年(1646)に幕府に提出した『正保城絵図(しょうほうしろえず)』には天守閣が描かれておらず、あったとしても一時的だったのでしょう。

 福岡城の瓦 福岡城には軒丸瓦や軒平瓦の瓦当文様から見て、大きく3種類の瓦が使用されています。一つは築城時に名島城から解体した建物と一緒に持ち込まれた名島城の瓦、一つは黒田氏が播磨(はりま)から連れてきた瓦工人が焼いた黒田氏の家紋瓦、最後の1種類は一般的な文様の三巴文です。これらの瓦は壊れない限り使用され、不足分は新しい瓦で補われます。時期が新しくなると周辺地区の今宿で焼かれた瓦が使われてます。

桜が満開の福岡城跡(平成10年春)
桜が満開の福岡城跡(平成10年春)

その後の福岡城

 明治時代になると、明治4年から9年迄の一時期、城内に福岡県庁が置かれます。その後は軍事基地として、陸軍福岡歩兵連隊が駐屯します。その間城内の櫓や御殿などの城郭建物は壊されたり、民間に払い下げたりして、無くなっていきます。城を取り囲む堀も、都市の発展を妨げるものとなり、埋め立てられていきます。

 戦後は連隊本部に代わって、野球場や病院、裁判所、学校などが建ちますが、昭和32年の国史跡指定後は、史跡舞鶴公園として、計画的に城の復元整備が行われて来ています。

 今年、長年市民に親しまれてきた平和台球場が鴻臚館跡の復元整備の為に取り壊されました、今後、福岡城の整備も一段とすすむことでしょう。

(山崎 龍雄)

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