平成11年3月24日(火)~5月23日(日)
32 黒田長政参禅図(道朴居士像) |
元和元(げんながん)(1615)年徳川家康(とくがわいえやす)は、大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼし全国支配を完成。黒田氏など有力外様大名は、徳川幕府の下で、生き残りをはかる時代へとかわります。今回の展示は、初代福岡藩主黒田長政(くろだながまさ)の藩政のうち後半の時期、大坂冬の陣の前の慶長(けいちょう)17、8(1612、3)年頃から彼が元和9(1623)年56才で死去するまでの約12年間の、彼と彼の長子忠之(ただゆき)の活動を、本館が収蔵する古文書と記録を中心に、絵画、武具・甲冑などとあわせて紹介します。
忠之の成長と大坂の陣・元和偃武(えんぶ)
慶長7(1602)年、黒田長政の子・忠之(幼名は万徳(まんとく)、元服し初め忠長(ただなが)、忠政(ただまさ))が誕生、長政は、万徳の10才頃から、武芸だけでなく、新しい時代の大名に相応しい学問、礼儀作法などの厳しい教育を施します。万徳は慶長18年に元服(げんぷく)、幕府から右衛門佐(うえもんのすけ)を称することを許されます。この頃には大坂城にいる豊臣秀吉(とよとみひでよし)の遺児秀頼にたいし、徳川方の締め付けは厳しくなり、長政も豊臣恩顧(おんこ)の大名の生き残りであり、しかもかつて黒田家の重臣だった後藤又兵衛(ごとうまたべえ)が大坂城に籠(こ)もった事で、幕府への対応に苦慮します。同19年の大坂冬の陣では、長政は江戸で滞在を命じられ、代わりに忠之が筑前(ちくぜん)から1万の兵を率い攻城に参加します。その際長政は自分が関ケ原合戦の時、徳川家康から拝領した金羊歯前立南蛮鉢(きんしだまえたてなんばんばち)の兜を忠之に着用させています。翌年の大坂夏の陣では、忠之の筑前勢は兵庫で待機、長政がわずかの手勢で家康に従います。この間長政は妻子を江戸に人質として差し出し、また直後に出された一国一城令に従い、そして同3年、将軍徳川秀忠(ひでただ)から、筑前52万石の支配を許される正式な判物(はんもつ)を得たのです。
16 大涼院書状 |
19 黒田長政書状(菅和泉守宛) |
28 黒田長政書状(天海宛) |
慶長後期、元和年間の筑前支配
大坂の陣後、長政が筑前に帰国したのは、ようやく元和3年のことで、藩主の不在や戦乱の影響で混乱した藩政の締め直しをします。家臣団の統制のためには、その心得を説いた三ヵ条(さんかじょう)の法令を出しました。農政面では、年貢の定免制(じょうめんせい)を採用、新田開発で耕地拡大を計り、藩財政増収と安定を目指しました。
幕府に対する政治活動
長政は元和2年に死んだ家康を祭る東照宮(とうしょうぐう)に大鳥居を寄付、同5年、再び江戸に赴いて翌年からの、幕府の大坂城普請で忠誠をしめします。また本多(ほんだ)、土井(どい)といった将軍のそばで力を振るう老中や実力者などと交際を深めていきます。これは日常的、あるいはいざという時に彼らから、有益な指示をもらうためでした。交際の相手には、幕府の政治顧問的存在の天海(てんかい)和尚、儒学者林羅山(はやしらざん)もおり、羅山には学問の手ほどきも受けます。同8年に忠之と将軍の血筋の女性との婚儀が整い、一応の成功を見せます。
晩年の長政
京に滞在した時、長政は大徳寺(だいとくじ)の春屋宗園(しゅんおくそうえん)に帰依(きえ)、自分の参禅(さんぜん)する姿を絵に描かせ、また和尚の帽子(もうす)を模した兜も作ります。元和5~6年に一時帰国しますが、同9年、将軍上洛(じょうらく)に際し、忠之と共に先に江戸から京に向かい、途中の関ケ原では、教育のため忠之へ戦いのようすを語ります。7月、病にて死期を悟った長政は、忠之や家老に多くの遺言を残しました。なかには黒田家に騒動がある場合、関ケ原の功を主張し家の断絶を免れるように、と言った、将来を予見するものもあります。8月4日、長政は死去、彼が関ケ原合戦で着用した一ノ谷形兜(いちのたになりかぶと)と甲冑は、後の時代も御神器(ごしんき)と呼ばれ大切にされました。
(又野 誠)