平成11年5月11日(火)~平成11年7月18日(日)
(5)婚礼
昭和の初め頃までは婚礼は夜おこなわれることが多かったようです。時刻になると、新郎方は近くに用意した嫁のナカヤド(中宿)に使いを出します。「七へん半」といって八回目の使いの途中で新婦方の使いと会い、新婦がこちらへ向かっている旨(むね)を新郎方に伝えたといいます。
座敷には新郎新婦と仲人夫妻、双方の両親だけが入ります。まず新郎方の娘(親戚か新郎の姉妹)がノシダシをし、お茶とお菓子が出されます。次に男児と女児の給仕による三三九度の盃がおこなわれます。これが終わると仲人は新婦の綿帽子を脱がせます。それから紅白の小餅が入ったヨメゴゾウニ(嫁御雑煮)が出され、続いて親子盃となります。
これがすむと座敷では改めてホンキャク(本客)がおこなわれます。ホンキャクとは新婦側の両親、兄弟、親戚のことでみな男性。新郎側もそれに見合って列席しますが、みな接待役に回るものでした。お茶と菓子が出された後、頃合を見て新婦のノシダシがおこなわれました。ここで本膳が出され盃がまわります。一番肴(ざかな)、二番肴、二の膳、三番肴と続きホンキャクが終わります。
ホンキャクがお開きになった後、新郎新婦はトコサカズキ(床盃)を交わし床入りとなりました。
嫁と姑と給仕の娘たち |
(6)披露宴
婚礼から2、3日後に披露宴(ひろうえん)がおこなわれました。2日間、昼夜2回ずつおこなわれ、1日目の昼には町内の奥さん方や親戚の女性、夜には双方親戚の男性、2日目の昼には知人や出入りの職人など、夜には新郎の友人や親の知人などが招かれたといいます。ここでもお茶と菓子が出された後、新婦のノシダシがおこなわれました。膳が続くなか、姑に伴われて花嫁が挨拶(あいさつ)と酌(しゃく)にまわりました。最後におもたせの筍干(しゅんかん)(細工かまぼこ)が出されお開きとなりますが、帰ろうとする客の1人ひとりを玄関でつかまえ、祝いめでたとオッシヨイのかけ声の中、大盃を空けさせるタチカワラケ(立ち土器)はとても賑やかなものだったようです。3日目の昼には給仕をしてくれた近所の娘さんや裏方の人達の慰労の宴を開きました。
(7)近所まわり
披露宴がすむと挨拶まわりをしました。これをキンジョマワリ(近所回り)といい、花嫁衣装を着て姑とともに町内をまわりました。挨拶をして茶行李(ちゃごうり)に洗い粉1袋などを載せて差し出すと、受ける側は熨斗を出して応えたといいます。
(8)一番歩き
婚礼から5日目ないし7日目に、振り袖姿の新婦は女児2人を伴い、日帰りで実家に行きました。これをイチバンアルキ(一番歩き)といいます。嫁ぎ先からは土産としてたくさんの生魚や酒、鰻頭(まんじゅう)などが贈られました。
(9)二番歩き
イチバンアルキから1週間ないし10日後にニバンアルキ(二番歩き)がありました。3泊は縁起が悪いとして、2泊か4泊するものでした。この日は正装した新郎も一緒で、新婦の父に付き添われて親戚、近所に白扇を差し出し挨拶まわりをしました。すべての家をまわるのはたいへんなので、新婦方に集まってもらうことも多かったようで、これをムコイリ(婿入り)といいました。新郎はその日のうちに戻りましたが、新婦は実家でゆっくり骨休めをしたのだといいます。
3、変化する「伝統」
このような結婚式を知る人は、今やほとんどいなくなりました。現在、老いの年齢にあり、博多の「伝統」の継承者を自負する人々にとっても、結婚のイメージは数十年前に普及した神前式だといえるでしょう。今生きる人々にとって、博多の「伝統」はすみ酒など婚約の進め方、披露宴での祝いめでたといったものの中に見いだしていくところとなっています。
そこには全国的な規模でよそと比べる視点があります。特に戦後、若者の世間が根本的に変質し、遠隔地(えんかくち)から配偶者(はいぐうしゃ)を受け入れる必要が出てきたことで、それぞれがあたりまえと思っている慣習の違いが強く自覚されるようになりました。その中でおこなわれた「伝統」の取捨選択(しゅしゃせんたく)と再生産は結婚の方式を大きく変える一因となりました。
(松村利規)