平成11年7月20日(火・祝)~平成11年9月26日(日)
柳・雪松に鳥図(部分) |
昭和前期の旧友泉亭(黒田家別邸)貝島嘉藏氏提供 |
筑前黒田家の別邸だった友泉亭
福岡藩主黒田家の第6代継高(つぐたか)(1703~75)は、かねてより城南田島村の境内を別館の地と選んでいたが、宝暦4年(1754)3月にようやく完成したと『筑前国続風土記附録』は伝えています。この黒田家の別荘が友泉亭です。
涼やかな印象の友泉亭という名称は、藩の儒学者である竹田助太夫定直が久世通夏の和歌「世にたへぬあつさもしらずわき出る 泉を友とむすぶいほりは」に因んで命名したといわれています。比較的城下に近く、しかも清流と林に囲まれた地であったので、夏の別荘地として最適だったのでしょう。
江戸時代末期まで、黒田家歴代が時折訪れて遊んだ友泉亭ですが、明治以降は黒田家から他家の手にわたりました。昭和3年(1928)に貝島嘉藏氏が取得し、その後も昭和29年(1954)に大辻炭坑、昭和42年(1967)には博多港開発株式会社の手にわたり、そこから昭和53年(1978)に福岡市が寄付を受けて市の所有となっています。
この年、継高が営んだ黒田家の別邸は老朽化のため解体されましたが、庭などは池泉回遊式の純日本庭園に整備され、昭和56年(1981)から「友泉亭公園」として一般に公開されて市民に親しまれながら現在に至っています。
蓮図(部分) |
友泉亭と日本画家松永冠山
今回の展覧会は、今は失われた黒田家の別邸を飾っていた障壁画を紹介するもので、それらは現在福岡市博物館の所蔵となっています。作者は松永冠山(1894~1965) 。彼は福岡県前原市生まれの日本画家です。糸島郡立農学校の第1学年を終了後に、画家になることを志し、京都に出て京都市立絵画専門学校に学びました。大正9年(1920)に同校の研究科を終え、その後も京都に留まり、地元在住の日本画家で当時一家をなしていた菊池契月(きくちけいげつ)に師事しました。
冠山は在学中から文展に入選をはたし、主に風景を題材とした清新な作品が評価され、文展に代わった帝展においてもたびたび入選するなど、いわば将来を嘱望された新進の日本画家として京都で活躍しています。彼に転機が訪れたのは太平洋戦争末期のこと。昭和19年(1944)に郷里の糸島に疎開し、戦後は京都に戻ることなくそのまま郷里にあって制作活動を続け、以後は福岡の美術界振興の一端を担うことになります。また佐賀大学、福岡市立女子高校、博多高校などで教鞭をとり、長く福岡県展の審査委員を勤めるなど、後進の育成にも尽力しました。
そうした冠山が昭和11年(1936)に当時友泉亭の所有者だった貝島家から依頼されて描いたのがこれらの作品。まだ京都で活動していた彼は、膨大な数の障壁画を完成させるために、1年間友泉亭に住み込んで制作に専念することになります。
松鷹図 |
四季花鳥図杉戸絵の全体像
旧友泉亭は、「東西8間半、南北6間の鍵型で、総建坪が40坪足らず(中略)上御間、御次間、御物置などに分かれている極めて簡素なもの」(『別荘の庭』永見健一著、昭和3年)でしたが、冠山の杉戸絵は全部で60面あったといいます。現存するのはそのうち30面ですから、完成当時の姿に復元するのは容易ではありません。しかし、残された作品から冠山がどのような計画のもとに全体を構想していったかはわかります。
旧友泉亭の障壁画全体に題をつけるとすれば、「四季花鳥図杉戸絵」となるでしょう。2枚や4枚、8枚と連続する画面は、明確な季節感と、それぞれに中心となる樹木や花木があり、それらを組み合わせることによって豊かな装飾効果を発揮しています。おそらくは、松を主体とした部屋、竹の部屋などという構成がなされていたのではないでしょうか。さらに冠山は、桃山時代や江戸時代の様々な障壁画を研究し、その構図と表現方法を応用することにより、黒田家の別邸だった建物にふさわしい格式と雄大さを演出してみせました。例えば松は狩野派や長谷川派を、竹は円山派を学んだあとが伺えます。そしてそこに近代的な写実を加え、若々しく新しい冠山様式を造り出しているのです。
また杉戸絵は、襖絵のように紙に描く障壁画と違って杉板に直接描いていくところに特色があります。冠山は、杉の質感を大事にするため、いっさいの背景を描きませんでした。これもまた、京都で学び、活躍していた冠山が、かの地で例えば養源院の俵屋宗達の杉戸絵など、江戸時代の優れた作品を数多く見て研究していたからにほかなりません。これらの杉戸絵は、冠山の代表作に数えられるべき力作といえるでしょう。
(中山喜一朗)
竹に枇杷図(部分) |
本展の開催にあたり、資料の提供など御協力を賜りました貝島壽夫氏、久保田家且氏、三木隆行氏に感謝の意を表します。