平成11年11月16日(火)~平成12年2月13日(日)
現代では、日本中どこへ行っても瓦屋根はめずらしくありません。しかし、甍(いらか)の波が日常的になったのは、せいぜい明治・大正時代以後のことで、それ以前は草葺き、板葺きなどが一般的でした。6世紀末、朝鮮半島の百済(くだら)から伝わった瓦は、耐火性(たいかせい)・耐久性(たいきゅうせい)を追求した新しい建築技術、新しい文化でした。最初は寺院建築に、やがて宮殿や役所に使用され、周りを威圧(いあつ)するようになりました。重厚で堂々とした古代の瓦は、ごく限られた建物にしか使用されず、権力を象徴し飾りたてる役割も果たしていました。
今回の展覧会は、福岡の古代瓦の歴史的特徴をさぐってみようという展覧会です。福岡最古の6世紀末の瓦、古代の寺院・役所・山城に葺(ふ)かれた瓦、市内にある古代の瓦窯(がよう)、さらに博多を中心に出土した12世紀の特異な中国風瓦など、さまざまな古代の瓦を紹介します。
1 那珂(なか)遺跡出土の福岡最古の無文(むもん)軒丸瓦 |
1 福岡最古の瓦
那珂遺跡(なかいせき)(博多区)では、北接する比恵(ひえ)遺跡とともに6世紀後半から7世紀の柵(さく)や溝(みぞ)で囲まれた大型の倉庫群が見つかっており、那津宮家(なのつのみやけ)(大宰府の前身)との関連が想定されています。出土した瓦は、九州最古とされる太宰府市の神(かみ)ノ前(まえ)窯系無文軒丸瓦(むもんのきまるがわら)(6世紀末 写真1)、それにつづく月ノ浦窯系丸瓦(7世紀前半)などですが、実際にどのような建物に使用されていたかは不明です。
2 三宅(みやけ)廃寺出土の老司(ろうじ)式軒平瓦 |
2 古代のお寺の瓦
三宅廃寺(みやけはいじ)(南区)は、7世紀末から8世紀初めに建立された白鳳(はくほう)時代の寺院です。礎石(そせき)の一部が残り、雨落溝(あめおちみぞ)からは老司式(ろうじしき)の軒丸瓦や軒平瓦(写真2)、竹状模骨(もこつ)(内型(うちがた))によって作られた丸瓦などが出土しました。また、「寺」「堂」などの墨書土器(ぼくしょどき)も見つかり、旧那珂(なか)郡の有力氏族が建てた寺院と考えられます。荘厳さと新しさをもって、福岡平野にそびえ立つ瓦屋根は、きっと周囲を圧倒していたことでしょう。
高畑廃寺(たかばたけはいじ)(博多区)は、記録に見えませんが奈良時代の8世紀中頃に創建された寺院です。礎石の一部が残り、「寺」「浄人」など寺院や僧侶を表す墨書土器や木簡(もっかん)のほか、軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦、磚(せん)(レンガ)など大量の瓦が出土しています。平安時代の中頃に廃絶したと考えられ、旧那阿郡の郡家(ぐうけ)(郡の役所)に関係した寺院であったと思われます。
3 鴻臚館跡出土の鴻臚館式瓦 |
3 古代の役所の瓦
鴻臚館跡(こうろかんあと)(筑紫館(つくしのむろつみ)、中央区城内)は、平安京・難波(なにわ)とともに設置された外国使節を接待する古代の迎賓館(げいひんかん)です。遺跡からは、均正唐草文(きんせいからくさもん)(左右対称の唐草の文様)軒平瓦と複弁八葉蓮華文(ふくべんはちようれんげもん)軒丸瓦のセットの鴻臚館式瓦(写真3)、鬼瓦、丸瓦、平瓦、磚(せん)、文字瓦など、各種の瓦が大量に出土しています。博多湾岸の小高い丘に、堂々とした古代瓦で葺かれた鴻臚館は、外国の使節を迎えるのにふさわしい威容(いよう)を誇っていたと想像されます。
多々良込田遺跡(たたらこめだいせき)(東区)は、掘立柱建物を伴う遺構で、緑釉陶器(りょくゆうとうき)、青磁、白磁、ベルトの金具、8世紀後半から9世紀前半の鴻臚館系の軒丸瓦・軒平瓦、8世紀前半の鬼瓦の破片などが出土しています。旧粕屋(かすや)郡の役所と推定されています。
海(うみ)の中道遺跡(なかみちいせき)(東区)は、製塩土器、漁網錘(おもり)、釣針(つりばり)のほか、ベルトの金具、皇朝十二銭や墨書土器、量は少ないが8世紀後半から9世紀前半の軒平瓦、丸瓦、平瓦などの瓦が出土しています。鴻臚館や大宰府のために、塩などの海産物を供給した津厨(つのくりや)の施設と考えられています。