平成12年2月15日(火)~4月9日(日)
図1 「張綱」銘天目茶碗(史料4) |
図2 芦屋香炉釜(史料2) |
古来より様々な外国文化流入の窓口として栄えた博多は、12世紀後半に茶を日本にもたらした栄西(ようさい)禅師の由緒の地としてもよく知られています。博多では海外貿易と博多禅が興隆し、これに相応しい茶の湯が行われました。すなわち、博多の茶の湯の特徴は、国際性・経済活動・宗教と茶の湯が融合した点にあり、戦国~桃山期には上方(かみがた)と同様に政治性が加味されます。
この展覧会は、長い歴史を持つ博多の茶の湯について、戦国~近世前期に博多を舞台に活躍した4人の茶人を通して、その一端を紹介しようとするものです。
先ず、前史として、博多をとりまく茶の湯の環境について概観します。博多では莫大な量の輸入陶磁器が発掘調査によって出土し、唐物(からもの)(図1・史料5)の入手が容易であったことが分かります。加えて茶釜の名産地として名高い芦屋(あしや)(図2)を近くに擁したことは、茶の湯が興隆する上で必要な外的条件が備えられていたことを意味します。しかも、博多では栄西・南浦紹明(なんぽじょうみょう)等、茶の湯と関わりの深い禅僧が活躍し、彼らの法を嗣いだ禅僧の活動拠点となります。すなわち、茶の湯の精神的拠り所となる禅が博多において弘通(ぐつう)していたのです。
図3 嶋井宗室に楢柴の肩衝を懇願した大友宗麟書状(史料9) |
図4 「宗湛日記」にみえる楢柴の肩衝(史料17) |
このような性格をもつ博多の風土に育まれて、上方で侘(わ)び茶が流行するのと同じ頃、博多においても嶋井宗室(しまいそうしつ)・神屋宗湛(かみやそうたん)という2人の豪商(ごうしょう)茶人が登場します。彼らは海外貿易で巨利を博し、天下人織田信長(おだのぶなが)(史料12)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)(史料13~15)や千利休(せんりきゅう)(宗易)(史料13・14)・古田織部(ふるたおりべ)(史料16・22)といった当代を代表する茶人たちと親しく交流しました。彼らが所持する楢柴(ならしば)(図3・4)・博多文琳(はかたぶんりん)(図5)等の名物(めいぶつ)茶入は、諸人の注目を集めていたのです。宗湛は博多文琳を垂涎(すいぜん)する秀吉はじめ数多の要求を拒否してきましたが、寛永(かんえい)元年(1624)、福岡藩2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)によって知行500石・黄金2,000両と引き替えについに召し上げられました(図7)。黒田氏は代々茶の湯に執心しますが、藩祖黒田如水(くろだじょすい)は秀吉から茶の湯の政治的効用を教えられ、利休流の侘び茶に傾倒しました。降って、元禄(げんろく)3年(1690)には、福岡藩士立花実山(たちばなじつざん)が、利休流茶道の秘伝書ともいうべき「南方録(なんぽうろく)」(図8)を世に出しました。これが博多から流布した事実は、博多における茶の湯の水準の高さを端的に示すものといえましょう。
博多の代表的茶人、宗室・宗湛・如水・実山にゆかりの品々をじっくりとご鑑賞下さい。
(堀本一繋)
図5 神屋宗湛が所持していた博多文琳 (史料18) |
図6 黒田孝高(如水)宛千利休自筆書状 (史料27) |
図7 宗湛から博多文琳を召し上げた 黒田忠之判物(史料21) |
図8 寧拙本「南方録」(史料29) |