平成12年3月14日(火)~6月4日(日)
土器(どき)の誕生(たんじょう)
細石器が盛行した頃、土器が出現しました。最初の土器は煮炊(にた)きに適した平底ないし丸底の単純な形をしており、人はものを煮ることにより、今まで食べることのできなかった新たな食物を得ました。
最古の土器はなお不明ですが、細い粘土紐(ねんどひも)を貼(は)りつけた簡単な装飾を持つ「隆線文土器(りゅうせんもんどき)」は土器が誕生して間もない頃のものと見られ、日本各地で発見されています。長崎(ながさき)県佐世保(させぼ)市の泉福寺洞穴(せんぷくじどうけつ)ではこの一種と見られる「豆粒文(とうりゅうもん)土器」が発見されています。一時は世界最古の土器に格付けされていましたが、その後日本国内はもとより中国東北地方や東シベリアなどで近い年代の土器が発見され、1万2千年前頃に極東(きょくとう)地域にほぼ同時期に出現した土器の一員と見られています。
市内最古(しないさいこ)の焼(や)け落(お)ちた住居(じゅうきょ)
西区大原(おおばる)D遺跡(いせき)の焼(や)け落(お)ちた住居跡(じゅうきょあと) |
土器は粘土(ねんど)をこねて作るため、さまざまな装飾(そうしょく)を施(ほどこ)すことが可能です。「隆線文土器」少し後(あと)に登場した「条痕文(じょうこんもん)土器」は土器の表面を粗く引っかいて、口の部分を棒で突(つ)き刺(さ)して装飾しています。この土器は最近福岡周辺で相次(あいつ)いで発見され、西区の大原(おおばる)D遺跡ではこの土器を使った人々の住居跡(じゅうきょあと)も発見されています。この住居跡は、大原海水浴場近くにある小さな丘陵(きゅうりょう)の南向きの斜面で発見されました。火災により焼け落ちたものと見られ、住居内から炭化(たんか)した木材がたくさん出土しました。これを科学的に測定した結果、1万1千年前を少し下る年代値(ねんだいち)が得られています。住居の屋根は泥(どろ)で覆(おお)っていたとみられ、内部から狩猟(しゅりょう)に使う鏃(やじり)が何本もまとまって出土しました。
人々(ひとびと)のくらし
おおよそ7、8千年前には、文様(もんよう)を刻(きざ)んだ丸い棒を土器の表面に転(ころ)がして装飾する「押型文(おしがたもん)土器」が、福岡はもとより西日本一帯で大流行しました。市内では、この頃の遺跡(いせき)の数や、そこから出土する土器(どき)や石器(せっき)の量が、前代までとは比較にならないほど豊富になります。 南区の柏原(かしわら)遺跡では、この時期の大きな集落がまるごと発掘されています。この集落からやや離れた場所には小さな集落がいくつも点在しており、夏季や冬季といった季節ごとに、住みやすい場所を選んで移り住んでいた可能性があります。
せまりくる火山灰(かざんばい)
約6千4百年前、屋久島(やくしま)の北側で海底火山(かいていかざん)が大爆発し、噴(ふ)き上がった火山灰(かざんばい)は偏西風(へんせいふう)にのり関東地方(かんとうちほう)にまで運ばれました。植物が枯(か)れ、人々の生活に大打撃を与えたとみられます。早良(さわら)区の遺跡ではこの火山灰が層(そう)をなして堆積(たいせき)しているのが発見され、福岡にも大きな影響を及ぼしていたことが判明しました。 植物がよみがえる頃、韓国(かんこく)の土器の強い影響を受けた「曽畑式(そばたしき)土器」が九州一円に広まります。この土器は沖縄(おきなわ)県でも発見されるなど、海洋性(かいようせい)の性格が強い人々によるものと見られています。氷河期(ひょうがき)の後、温暖化(おんだんか)を続けていた気候もピークに達し、海水面が現在より2メートルほど高くなりました。内陸に入り込んだ海岸の近くでは貝塚(かいづか)が形成されるようになり、黎明(れいめい)期を脱した福岡の縄文文化(じょうもんぶんか)も新たな発展期を迎えました。
(吉武 学)