平成12年10月31日(火)~12月27日(水)
伝八田出土銅戈 ・銅剣の鋳型 |
玄界灘に面した北部九州沿岸は、いち早く稲作農耕を受け入れた弥生文化の先進地域であり、権威のシンボルであった青銅器(せいどうき)類を副葬した甕棺墓(かめかんぼ)が盛んに営まれた地域でもあります。なかでも中国の史書に登場する「奴国(なこく)」は博多湾に面した福岡平野にあり、漢王朝に使者を送った倭国(わこく)で最大級のクニでした。
奴国の首都は、30面余の前漢鏡(ぜんかんきょう)や銅剣(どうけん)などを副葬した奴国王墓のある須玖岡本(すくおかもと)遺跡あたりです。この王墓からは福岡平野が一望され、井尻(いじり)、那珂(なか)、比恵(ひえ)へとつづく台地上には大規模な遺跡群が連綿と広がっており、二万余戸と書かれた「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の記述を彷彿させるものがあります。これらの遺跡からは、青銅器の生産を物語る鋳型(いがた)や坩堝(るつぼ)、鞴羽口(ふいごはぐち)、銅滓(どうさい)、ガラス屑片などが出土しています。
青銅器やガラス製品の鋳型が「奴国」の中枢地帯から集中して出土することは、当時のハイテク技術ともいえる青銅器生産が、広くこの地で行われていたことの証であり、その製品は広く西日本一円に供給されています。「奴国」は先端技術が結集したクニであり、溝で区画された工房群が建ち並んだ様子は、まさに弥生時代のテクノポリスといえるでしょう。
今回は、鋳型などから復原された高度な鋳造技術と製品を作り出した工房群の実像をとおして「奴国」のハイテク度を探ってみます。
国産青銅器のはじまり
青銅器は、銅(どう)と錫(すず)の合金で作られた美しい利器です。わが国には朝鮮半島から武器類を中心にもたらされ、権威の象徴としてそのほとんどがムラムラの司祭者の墓に副葬されています。中期前半になると朝鮮半島の製品を模倣した剣(けん)や矛(ほこ)・戈(か)のほかにヤリガンナ・鐸(たく)・巴形銅器(ともえがたどうき)などの豊富な青銅器が有明海に面した佐賀平野のクニグニでいち早く生産されるようになります。
しかし、初期の青銅器の生産は、佐賀平野の各地で小規模に行われていますが、特定の集落で集約的には生産されていませんでした。中期前半の佐賀平野は、青銅器を生産するための一定の技術力と社会的に成熟した青銅器生産の先進地域でしたが、一元的に生産を統括し、集約する集団は成立していませんでした。また、生産された青銅器は玄界灘沿岸地方にも供給されていました。
青銅器のできるまで
青銅器は、銅と錫を溶かし合わせて製品にするまでに、鋳型作り、鋳型の加熱、鋳型の組み込みと据え付け、地金の溶解と鋳込(いこ)み、製品の仕上げなどの工程があります。そのために金属を溶かす炉や鋳込みをする工房、そして坩堝(るつぼ)や砥石(といし)などの道具が必要です。青銅器の鋳造は、豊富な経験と高度な専門的知識をもった技術者集団によって専業的に行われたものと考えられます。また、銅剣(どうけん)や銅矛(どうほこ)と銅戈(どうか)は、鋳型や出土状況から異なる工人たちが器種ごとに専業的に製作していたものと考えられます。
ここでは、発掘された鋳型や鋳造(ちゅうぞう)遺物をもとにして、当時の様子を想像しながら銅鐸(どうたく)や銅剣(どうけん)・銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)などの青銅器を復原製作した鋳造実験の成果を展示してみました。この鋳造実験は、弥生時代の工人たちの高い技術力や当時の技術水準を考える上で非常に参考となるものでした。
中広形銅矛 |
鋳造関係置物(比恵遺跡) |