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No.174

歴史展示室

ジャーナリズムの近代2

平成12年11月14日(火)~平成13年1月14日(日)

電信の電線を延焼から守る力士
電信の電線を
延焼から守る力士

 今からちょうど70年前の昭和5(1930)年に福岡放送局(現在のNHK福岡放送局)が開局しました。アメリカ合衆国で世界初のラジオ局が開局してから10年後、東京、大阪、名古屋の放送局が開局して5年後のことです。昭和3年には、札幌、仙台、広島、熊本局が開局し、一応全国に電波が行き届くようになりましたが、当時の受信機では、福岡で熊本からの電波を受信するのは困難だったようです。
 今回の展示では、昭和と共にはじまったラジオ放送を中心に、ジャーナリズムとマスメディアの歴史を振り返ります。


ラジオ誕生前夜

 1837年、最初の実用的な電信機がモールスによって発明されました。日本には、嘉永7(1854)年、ペリーによって鉄道の模型と共に、最新式のモールス電信機が紹介されました。明治維新後、明治2(1869)年には東京-横浜間の電信が開通し公衆電報の取扱がはじまっています。明治6年には東京-長崎間が開通、明治12年には全国の電信網が整いました。複雑な情報をほぼ同時に遠隔地に送ることができる電信の発明によって、情報伝達は飛躍的に速くなりました。欧米では、鉄道の安全で確実な運行のために電信設備は拡張されていきましたが、日本では、鉄道の整備に先んじて電信網が整えられました。
 電信とならぶ通信手段に電話があります。ベルが実用的な電話を発明したのは1876年のことです。ことばを符号に置き換えて伝える電信に対して、電話はことばを音声のまま伝えることができ、特別な技術や知識がなくても情報をやりとりすることができます。この電話の特性を利用して、19世紀末、欧米では有線放送のようにも電話を使っていました。コンサートやオペラなどの劇場中継や、株式情報などの提供、レコードコンサート、時報などです。この有線放送の内容が無線で行われると無線電話=ラジオになるのです。


ラジオの時代

 無線機器メーカーが放送事業に乗りだしたのは、第一次世界大戦(1914~18)が終結し、無線機器の需要が減少したためだといわれています。新たに、国際電話事業や放送事業の展開による機材の需要をねらったのでした。
 日本でも早くから放送への関心は高く、福岡でも東京放送局(現在のNHK)が試験放送を開始する以前に九州日報社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)がラジオの公開実験をしています。日本でのラジオ放送開始は、大正12(1923)年の関東大震災が影響しています。国内の情報が混乱するなか、大阪湾に停泊していた米国軍艦から無線でいち早く世界に向けて大震災の情報が発信されたのは、無線による情報伝達の威力が発揮された事件でした。
 東京、大阪、名古屋についで各地方の中心となる都市に放送局を開設する段階で、九州支部の候補地として名乗りをあげたのは、長崎、熊本、福岡でした。地理的に九州の中心に近く中央官庁の出先機関が集まる熊本と、帝国大学の誘致に成功し九州一の都市として成長著しい福岡との競争の末、大正15年に熊本放送局の設置が決定しました。熊本放送局開局後は、福岡に演奏所が開設され、福岡で収録された番組も熊本から発信されていました。しかし、高価で高性能の真空管ラジオをつかっても、その電波を受信するのは困難で、熊本放送局が開局した昭和3年頃、福岡県下のラジオ受信契約は1500世帯足らずでした。しかし、福岡局開局の4ヶ月後の昭和6(1931)年3月には約1万2000世帯にまで増えています。昭和10年には契約数は6万をこえ普及率も12%に達し、昭和20年には福岡県下のラジオ普及率は40%をこえました。
 ラジオの役割としては、ニュースを伝え、教養をひろめ、娯楽を提供することがごく初期の頃からあげられています。受信機がまだ高価だった放送開始当時、聴取契約者は経済人が多かったこともあり、株式などの経済情報を伝える番組は今以上に多かったようです。また、代表的なラジオの教養番組である英語講座は、大正14年7月12日に東京放送局が本放送をはじめた直後の20日に放送が開始されています。音楽や古典芸能の放送、野球中継、放送劇などの娯楽番組も次々に登場しました。
 また、昭和13年にNHKが「放送局型受信機規定」を制定し、これをもとに一定規格の性能、構造、価格、体裁などがそろったラジオが量産され、普及しました。以降、テレビが普及するまで、ラジオはお茶の間の主役でした。

左:昭和30年代に発売されたトランジスターラジオ 右:昭和15年前後の真空管ラジオ
左:昭和30年代に発売されたトランジスターラジオ
右:昭和15年前後の真空管ラジオ

戦争と報道

 昭和16(1941)年12月8日以降、ラジオや新聞は天気予報を知らせることができなくなりました。軍事行動に関係する情報ばかりでなく、天気予報のような日常生活のなかの何気ない情報までもが、自由に報道できない時代になったのです。
 戦時期には、国家の広報宣伝用に本格的な写真誌がつくられました。日本では、外国向けの『FRONT』、国内向けの『写真週報』が発行されています。今も図書館などで見かける写真新聞も、銃後の戦意を高揚させるために使われています。部隊名や地名は伏せ字になっていることも多かったようですが、前線の兵士の様子を伝える写真も掲載されました。また、戦時中、ラジオは、空襲などの緊急情報を正確に伝達するための道具として、軍などによって普及が奨励されていました。


テレビの時代へ

 昭和30年代の初め、ラジオの普及率は70%をこえ、ラジオは黄金期を迎えました。また、昭和30(1955)年、日本で初めてトランジスターラジオが発売されました。小型で携帯可能なラジオの実用化によって、ラジオは、茶の間で家族と一緒に聴くものから、個人で楽しむものになっていきました。
 日本でも、戦前からテレビの実験放送がはじまっていました。しかし、テレビの実用化は戦後のことです。昭和28年2月、いよいよ東京でテレビの本放送がはじまりました(福岡テレビジョン局の開局は昭和31年4月)が、当時のテレビは「1インチ1万円」といわれるほど高価なものでした。昭和30年代に入ると、量産がすすんだこともあって、他の家庭電化製品と同様に、テレビの価格は安くなっていきました。昭和30年代に洗濯機、電気冷蔵庫とならんで「三種の神器」とよばれた白黒テレビは、昭和34年の「皇太子御成婚」を契機に普及し、昭和37年には、テレビの受信契約数は1000万をこえました。昭和43年には、放送受信料のラジオ単独料金が廃止され、ラジオからテレビへと時代は完全にかわりました。

(太田暁子)

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